大倉 利次 様

元県剣道連盟常任理事

国体の出場経験は11回

小学6年生の時に第2次世界大戦が終戦し、連合国軍が「反民主的なもの」として日本の剣道や柔道などを禁止にしたため、小学校の授業などで使っていた剣道の道具が運動場で焼かれたのを覚えています。

21歳の時、警察官になるための警察学校に入校した時には、ちょうど剣道が体育スポーツとして復活したころで、授業の一環で稽古に励みました。性に合っていたのか、始めて7か月目の同期生同士の大会で一番となり、その後、全国の警察官が競う大会などで入賞することもできました。

45歳のころに転機があり、警察学校の教官として剣道を教える側になりました。その縁から、和歌山北署の松江少年剣道クラブで子どもたちを教えることもありました。子どもたちとはコミュニケーションを取りながら、それぞれに合った技術などを教えることを心掛けました。そのころの教え子が大学生になり、「これからも剣道を続けます」と会いに来てくれることもあります。

国体には、1958年の富山国体から1991年の石川国体までの間に11回出場しました。特に思い出に残っているのは、最後の出場となった石川国体の1回戦です。剣道は5人1チームで戦うのですが、私は大将で最後の選手でした。4人目までが2勝2敗だったので、私に全てがかかっていました。試合は5分間です。試合の前半の方で1本を取り、残り時間は逆転を狙い反撃にかかる相手をいなすのに必死でした。気力で勝ち、2回戦につなげられた喜びは今も忘れられません。昭和46年の黒潮国体は残念ながら出場できず、国体の運営に関わりました。ねんりんピックなど、高齢者が競う大会にも出場していましたが、5年ほど前に体調を崩し、竹刀を置くことになりました。剣道は体全体を使うというよりも、技術で戦う競技です。健康であれば、今でもやっていたと思います。

振り返れば剣道は、戦後、一時禁止されていたこともあり、競技人口自体が少なく、上を目指して競技するには恵まれていたのかもしれません。ただ、国体でなかなか良い成績が出せなかったのは今でも悔しいです。最近は、剣道も競技人口がかなり増え、各種大会などに選出されるのも難しくなっています。紀の国わかやま国体を目指す人には、県民の皆さんの期待を背負っているということと、県民の代表に選ばれたということを肝に銘じ、一つでも上を目指して頑張ってもらいたいです。

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2015紀の国わかやま国体