万葉人が憧れた和歌の浦は、
絶景と和歌に彩られた
海洋リゾートの原点だった
白くなる山際、名草山の向こうから朝日が昇る。水面が鏡のように空を映し、刻一刻と輝きが増す。潮の満ち引きと雲の流れに時の移ろいを感じる頃、多くの歌人たちを魅了してきた和歌の浦の絶景が息づき始める。
玉津島が初めて文献に登場するのは、聖武天皇が即位した724年の玉津島行幸。「当時は今よりも海面の位置が高く、奠供(てんぐ)山をはじめ鏡山や妹背山など6つの島山は、海面から少しだけ顔を出し、まるで数珠の玉が連なって浮かんでいるように見えたと言います。玉津島神社の本殿がある奠供山に登った聖武天皇は、その美しい景色に感動し“弱浜(わかはま)”ではなく“明光浦(あかのうら)”と名を改め、管理者を置き景観を末長く守り御霊を祀るように詔勅を発しました。
その時、同行していた山部赤人が詠った“若の浦に 潮満ち来れば潟(かた)を無(な)み 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る”という玉津島賛歌は、あまりにも有名です」と語るのは、玉津島神社権禰宜の遠北(あちきた)喜美代さん。その後、紀貫之が赤人の歌を“古今和歌集”に取り上げたことで、和歌の浦は内陸部に位置する都の人々にとって憧れの地となった。
言霊(ことだま)が宿るとされる和歌は神々に捧げる言葉であったと同時に、はじめて海に臨んだ感動を、歌に詠むことで記憶にとどめ、都で待つ家族や友人に届けたのであろう。
現在、コロナ禍の自粛生活を経て、自分自身を見つめ直し、それを言葉にしたいと、SNSを中心に短歌や和歌がブームになりつつあるという。
「2024年は、玉津島行幸から1300年という大きな節目の年を迎え、記念大祭が行われます。これからも和歌という日本語の優雅な文化と共に、豊かな自然に囲まれた海辺の美しい和歌の浦の景色をいつまでも守り続けなければならないと思っています」と遠北さん。時代は変わったが、和歌の浦は和歌の聖地であり続けている。
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近畿地方最大級の和歌浦干潟は、
約300種類の絶滅危惧種が命を繋ぐ
“最後の楽園”
和歌の浦の干潟は、約47ヘクタールで近畿地方最大クラス。
そこに生息する生き物は、魚類、貝類、エビやカニ等だけで数千種類といわれ、全国屈指レベル。そのうち、ハクセンシオマネキ、ワカウラツボなど県レッドデータブックに掲載されている絶滅危惧種などの貴重な生き物は約300種類。
多くの干潟で絶滅、または減少している中、国の重要湿地に選定されている和歌浦干潟は、生き物の“最後の楽園”と呼ばれている。
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