墓の前で合掌する髙木智英住職

補陀洛山寺裏山の森の中に歴代補陀落上人の墓が並ぶ。墓の前で合掌する髙木智英住職。

和 vol.53 【特集】
祝!世界遺産登録20周年
守り伝えるモノ 守り継ぐ人々 -3-

観音浄土を目指した
補陀落渡海
千数百年の信仰を継承する

 太平洋の熊野灘はその昔“補陀落(ふだらく)の海”と呼ばれた。観音菩薩が降臨する霊場を補陀落といい、そこでは観音菩薩 がすべての者の願いを聞き入れ、救いの手を差し伸べるという。

絵図や文献などをもとに1993年に復元された補陀落渡海船

絵図や文献などをもとに1993年に復元された補陀落渡海船。全長はわずか6メートルほどで、四方に死出の四門を表す発心門、修行門、菩薩門、涅槃門の4つの鳥居が立てられている。

 熊野三山を構成する三社二寺の一寺で熊野灘に面する補陀洛山寺は、インドから熊野に漂着した裸形上人によって那智山とともに開山されたと伝わる。「補陀落とは、サンスクリット語でポータラカ、観音浄土を意味します。当寺で修行した上人(住職)は60歳になると、補陀落渡海船と呼ばれる小船に乗り込み、熊野の遥か南方の海上にあるとされる観音浄土を目指しました。これを“補陀落渡海”といい、上人は30日分の水・食料と燈油を積み込んだ船内に乗り込み、外に出られないように釘を打ち込まれ、那智の浜から伴船に引かれて大海へと船出しました。

歴代補陀落上人が船出した那智の浜

歴代補陀落上人が船出した那智の浜。井上靖著「補陀落渡海記」の主人公、金光坊の渡海以降は、住職が亡くなってから船に乗せて沖へと送り出す「水葬」へと変わっていったという。沖合には金光坊が座礁した磯が見える。

不安定な小舟ですからほどなく転覆したはずですが、中には沖縄まで辿り着いた上人もいて、現地で熊野信仰を広めたといわれています。境内には復元された渡海船が展示されていますが、小さな船室を囲むように4つの鳥居が建てられています。これも熊野に根付いている神仏習合の証だと思われます」と語るのは住職の髙木智英さん。父・亮英さんが住職を務める那智山青岸渡寺の副住職も兼務している。

補陀洛山寺の隣に建つ熊野三所大神社

補陀洛山寺の隣に建つ熊野三所大神社。熊野三所権現を祀り神仏習合の名残を見ることができる。境内はかつての浜の宮王子跡で、中辺路・大辺路の分岐点であった。

 かつて人々は浄土の世界での蘇りを求め熊野を目指した。そして上人はさらに南方にある観音浄土を目指す。死を賭した捨身行がよみがえりの地・熊野で行われたのにも納得する。「“命は最も大切なもの”とするのが現代風の考え方。60歳になったら渡海するのだと言われても、今の時代ではなかなかその覚悟はできないでしょう。それよりも生かされている命を人のために役立て、熊野の魅力を世界に発信するのが自分の使命だと考えています」。千数百年の歴史を有する世界遺産の寺の継承には大きな責任が伴う。髙木住職の目には、その決意が窺えた。

絵図や文献などをもとに1993年に復元された補陀落渡海船

補陀洛山寺は、仁徳天皇の治世に開山されたと伝わる古刹。国内で行われた補陀落渡海は約50〜60とされ、半数近くが当寺で行われたことから“補陀落渡海の寺”と呼ばれる。

補陀洛山寺
住所/那智勝浦町大字浜ノ宮349
電話/0735-52-2523
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World heritage 20th anniversary/守り継ぐ人々

熊野信仰を解く熊野参詣曼荼羅は
当時の誘客ツールでもあった

熊野比丘尼と呼ばれた尼僧が、全国を回って寄進集めや参拝者誘致をする時に使っていた熊野参詣曼荼羅。補陀洛山寺では執事の南善文さんが曼荼羅を使って絵解きを行う。花山法皇の33観音巡礼や文覚上人の滝行などの物語のほか、先達に引率される参拝者の様子が描かれている。

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四門が描かれている補陀落渡海

四門が描かれている補陀落渡海。那智参詣曼荼羅の部分拡大図。