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掲載内容



世界とのつながり 県政最前線 海の向こうの和歌山県人

問い合わせ: 国際課 電話073-441-2055

ファックス073-433-1192

 海に面した和歌山県に育った先人達は、常に世界を意識してきました。明治期から戦後にかけて多くの和歌山県人が海を渡り、言葉や文化が異なる土地での大変な苦難を乗り越え、それぞれの国で尊敬され、日系人の地位を立派に築くに至りました。
 現在では、二世、三世以降の世代が中心となって活躍されており、和歌山県にとって、世界中に張り巡らされた貴重な人的ネットワークとなるとともに、各地で組織された和歌山県人会との交流を通じて故郷との絆は続いています。

海外へ移住した先人の歴史

全国第6位の移民県
 和歌山県からの海外移民は、第二次世界大戦前がおよそ31,000人、戦後がおよそ2,000人で、広島、沖縄、熊本、山口、福岡についで全国第6位です。日本最初の公式移民は、1885年(明治18年)の第一回ハワイ官約移民で、953人の移民のうち、22人が和歌山県人でした。

※ハワイ官約移民とは
ハワイ王国からの依頼で、ハワイ政府と日本政府との間で結ばれた契約によってハワイに渡った日本人移民

ブラジルへの移民船

ブラジルへの移民船
海外興業株式会社『ブラジル移植民地写真帖』
和歌山市民図書館蔵

故郷への貢献
 和歌山県から世界各地へ移住した人たちの多くは、移民先での永住ではなく、出稼ぎを目的としていましたが、実際には様々な理由で異国の地にとどまりました。
 和歌山県出身の移民からの送金額は、大正末期まで、全国一位であったといわれています。家族や親戚はもちろん、出身地の学校や寺、神社などへも送金し、故郷の暮らしを支えていました。

世界地図
アメリカ

 1890年代以降、ハワイより賃金が高く、開拓途上で移民を歓迎した西海岸カリフォルニアなどへの移民が増加し、農業、鉄道、鉱山、漁業、商工業などに従事しました。日本人が多く住んでいた地域には、コミュニティが形成されました。

缶詰工場で働く女性たちの写真缶詰の写真

ターミナル島の缶詰工場で働く移民と製造された缶詰太地町歴史資料室提供

メキシコ

 元外務大臣榎本武揚が、1897年に設立した移民会社によりメキシコへの移民が始まりました。1935年にはシナロア州への移民により和歌山県人会が設立されました。

墨国和歌山県人会の写真

墨国和歌山県人会 寺本就一氏提供

ハワイ

 1880年代、日本政府とハワイ王国との移民協約に基づきサトウキビ畑で働く契約を交わした官約移民が始まりました。本県からの移民は漁業などで活躍しました。

サトウキビ農場での作業の写真

サトウキビ農場での作業 JICA横浜 海外移住資料館提供(大槻幸之助資料)

カナダ

 1880年代後半から、西海岸ブリティッシュコロンビア州での鮭漁に従事するために移民が始まりました。漁業従事者の大半が三尾村(現美浜町三尾)出身者で占められ「加奈陀(カナダ)三尾村人会」が結成されました。

加奈陀三尾村人会の写真

加奈陀三尾村人会 カナダミュージアム提供

ブラジル

 1908年、移民船笠戸丸での渡航により日本からブラジルへの移民が始まりました。多くの移民はコーヒー農園等での労働に従事しました。戦後の食料難・就職難や、1953年に発生した大水害を背景に本県から多くの人々が移住しました。

広大なコーヒー農園の写真

広大なコーヒー農園 海外興業株式会社『ブラジル移植民地写真帖』和歌山市民図書館蔵

ペルー・アルゼンチン・パラグアイ

 ペルーへの移民は1899年に始まり、初期にはサトウキビ農場での労働に従事しました。アルゼンチンへは、日本から直接渡航した人々以外に、ブラジルなどからの転住者が多く渡りました。パラグアイへの移民開始は1936年と新しく、本県出身者が後へ続く移民の受け入れや新しい移住地の立ち上げに貢献しました。

葡萄栽培のようすの写真

日本人初の移住地ラ・コルメナはブドウ酒で有名
(パラグアイ)
JICA横浜 海外移住資料館提供

白蝶貝の写真採取に従事する日本人ダイバーの写真

白蝶貝と採取に従事する日本人ダイバー太地町歴史資料室提供

オーストラリア

 高級ボタンの材料となる白蝶貝(真珠貝)採取のため1880年代からオーストラリア北岸に位置するダーウィン、ブルーム、木曜島への移民が始まりました。白蝶貝採取に従事した日本人約7,000人のうち本県出身者が8割を占めたと言われています。

移民の歴史について詳しくはこちら




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