スポーツ偉人伝 原田恒男


原田恒男の写真

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硬式野球競技 功労者
1921(大正10年)生
原田 恒男
( はらだ つねお )
 
 和歌山出身の両親を持つ日系2世としてカリフォルニア州に生まれる。母親の死去に伴い、父親は7人の子どものうち年長の恒男だけを残し、他の子どもたちを郷里の親類に預けるため帰国。原田は大恐慌の時代を必死に生き抜いた。ハイスクール時代、抜群の運動神経に恵まれた原田はキャプテンの愛称から、いつしか「キャピー」と呼ばれるようになり、1936年には遠征してきた巨人軍と対戦する地元チームの一員として選ばれ、沢村栄治や戦後に再会する水原茂と出会った。日本軍の真珠湾攻撃の翌日、米軍に入隊志願し軍情報部に配属され、オーストラリアやニューギニアの捕虜収容所で捕虜尋問や通訳などをした。戦後の1945年に初来日し、一時帰国した後、翌年にGHQ経済科学局に配属され再来日、その後和歌山の地において家族と15年ぶりの再開を果たす。戦後の混乱の中、日本社会の復興・活性化を図るために、経済科学局長マーカット少将の副官として仕えていた原田は日本の野球関係者と供に、いち早く各球場の接収解除を手がけ、1949年にはシベリアの抑留生活から引き上げてきた巨人軍の水原茂を出迎え再会を果たすと、後楽園球場で行われる巨人対大映戦に間に合わせるために時間がかかる復員手続きを短縮するよう米軍関係者に交渉。「水原ただいま帰りました」という名ゼリフは原田がいなければ実現しなかった。さらに原田は日米親善野球を提案し、1949年後楽園球場で開催されたサンフランシスコ・シールズ対巨人軍の試合が始まる開会式では、五万人の観客の前で、まだ占領下にあった日本の国旗がアメリカの星条旗と並んで掲げられた。その際、日本の国旗掲揚をマッカーサーに提案したのも原田であった。また、現在プロ野球で定着されている2リーグ制の提案者も原田であり、祖国日本のため、日米のはざまに生き、終戦後アメリカの占領下にあった日本の傷を癒すため、さらにスポーツの発展に尽力した人物である。退役後はウォーリー与那嶺を日本プロ野球にスカウトするなど日米球界の橋渡しをした。