スポーツ偉人伝 冨田忠典


冨田忠典の写真

()()氏名  冨田 忠典(とみた ただのり)

()生年  1957年(昭和32年)生

区分  競技者

 昭和32年、和歌山県田辺市に生まれる。南部高校入学後に相撲を始め、高校3年で全国選抜高校相撲金沢大会で団体優勝を果たし、翌年日本大学に進学する。大学では3年時から主に団体戦の主軸として活躍し、4年時には全国学生相撲選手権大会で団体優勝、個人準優勝、その年の天皇賜杯全日本相撲選手権大会では個人3位と学生相撲界でトップクラスの実力を付けていた。大学卒業後の昭和55年県庁に奉職。当時の和歌山県はアマチュア相撲界屈指の名選手がおり、日々先輩方に胸を借りて力を付けていった。そしてその年の天皇賜杯全日本相撲選手権大会では180cm、150kgの体格からの寄りを武器に勝ち進み、念願であった天皇賜杯を獲得。その後も県庁相撲部の主軸として全日本実業団相撲選手権大会での団体戦14連覇をはじめ、昭和55年から平成4年の現役選手引退まで、団体優勝38回、個人優勝12回と他を寄せ付けない圧倒的な強さを発揮した。この強さの秘訣とは――。当時の県庁相撲部の稽古はまさに虎の穴で、実力者が揃い、部員誰もが口を揃えて言ったことは、「稽古よりも試合に行った方が楽。」だった。この言葉からもわかるように、連日仕事を終えた夕方6時から激しい稽古をこなし、多い時には1日100番以上相撲を取ることもあったという猛稽古で精進しての結果が県庁相撲部の最強時代を築いたものであった。現役を退き、平成8年に県庁相撲部の監督に就任してから全国大会で数多くの団体優勝、個人優勝に導き、監督を退くまで団体優勝9回、個人優勝8回と指導者としての手腕を発揮し、平成12年には和歌山県スポーツ優秀指導者賞を受賞。翌年平成13年3月に監督を退き、平成14年5月18日、45歳で他界。その精神は今もなお、後輩に引き継がれている。