由良要塞地帯
1890年代以降帝国主義の動きが高まり、日本の海外進出が活発になるなか、国防に備え日本各地に砲台・要塞が配された。紀淡海峡の砲台も、由良要塞司令部所属の要塞地帯として、大阪湾への敵国海軍の進行を防衛するため建設された。
由良要塞は、由良側(淡路島)では、生石砲台・高崎砲台・成山砲台・赤松砲台・伊張砲台と、鳴門海峡を望む淡路側の鳴門岬などに置かれ、本州側では加太、深山、そして、友ヶ島にそれぞれに整備された。淡路・由良には明治27年に要塞重砲兵連隊(深山重砲1ヶ連隊)、明治29年に由良要塞司令部が置かれた。各地区で砲台とともに兵舎や付属建物、火薬庫などが、アーチ構造のレンガ造や間知石積みの高度な技術によって建設されている。また、レンガの製造は外国人技師の指導で行なわれたと伝えられている。
和歌山県洋風建築研究会編『和歌山県の近代建築』によると、旧陸軍加太要塞では、明治22年から16年かけて、30の砲台、 162門の砲が、旧深山要塞では、明治30年代にドイツ製の砲が整備された(写真1参照)。旧友ヶ島要塞については、明治22年〜38年に建設された。
明治32年7月から第二次世界大戦終戦までの約半世紀の間、友ヶ島海峡の由良要塞地帯への編入以降は、一般の立ち入りは禁止されていた。終戦後、いずれも、GHQ の命令により爆破されているが、砲座跡などは現在も残されているものが多い。
砲台・要塞跡の状況
由良要塞地帯のなかでも、加太要塞跡は、国民休暇村の砲台跡園地として遊歩道や説明案内板などが整備され、見学がしやすくなっている(写真2参照)。砲台、弾薬庫、空気抜などが、当時の形で残される。展望台もかねた公園であり、砲台自体かなり標高が高い所(118m)に位置するが、近くまでは車で近づける。そこからの道は、レンガを敷き詰めた「砲台跡めぐり遊歩道」である。また案内板には、要塞地域の全体図(パース)が描かれたものと、砲台の歴史的説明がされたものがある。
しかしその一方で、淡路島の伊張砲台跡などは、爆破された痕跡がそのままの状態で残されており、他の再整備されたものとは一風変わった趣きをみせている(写真4参照)。
友ヶ島では、島自体が開発の影響を受けずに自然環境が維持されており、砲台跡も自然に埋もれたような状態である(写真3参照)。
このように、要塞砲台跡が、各地区によって個々の魅力をもっているゆえに、必ずしも同じような整備を進めることはない。連携を検討するとともに、個々の地域性をいかした活用策が検討されるべきであろう。
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