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第2章 紀淡海峡周辺地域の地域交流資源の発掘

2−2 風土・文化の共通性・類似性の現状

3 海 洋
 類似する自然環境は、またそこで織り成される生活にも共通性を与えた。冒頭で述べた農業についてはその典型であろう。そして、1 において地名をみてきたが、その共通する地名の多くは海岸部に多い。このことは、第一において自然地形が、2 でみた地質地盤的に共通していることからも当然のことといえよう。またさらに、「海女」を語源とすると思われる地名の海部・阿万のような生活主体を示す地名が散見できることは、そこでの生活環境が共通することに関係していることがうかがえる。海洋に面して似通った環境が形成されることは当然なことであり、とりわけ漁業に関しても共通してくる。
 ここではまず、漁業についてみてみたいが、その前に海峡という地域性を考えたい。海峡という地域は、両岸で分断されるよりも、一つのまとまりととらえる方が自然であると思われる。それは豊予海峡の関サバをめぐる、両岸の論争などからもわかるだろう。漁業については、両岸の間に同じ環境(海)が存在し、両岸で同じ産物の恩恵を受けるのであり、このことを共通性として取り上げるのはあまり意味がない。
 そこで、漁業に関して取り上げたいのは「進取の気性」である。『日本地誌』によれば1)わかめについて、「板野郡里浦の前川文太郎は、藩政期の末、鳴門わかめの独特の製造法を発見し、世に知られるようになった」とし、また捕鯨について、「1606年(慶長11年)太地の和田氏が銛突きを始め、1677年(延宝 5)には網取りを発明したのに起源する」とされている。すなわちこの地域では昔から漁業に関する技術革新が活発に行われていたのである。他にも、鰹節については、延宝ごろ(1673〜81)に、熱湯で煮た後に燻乾する新しい製法が土佐で始められているが、これは紀州の漁民によって行われたと伝えられており、紀州と土佐の漁民の交流もうかがわれる1)。
 また後には、沿岸漁業の特徴として和歌山・高知で海外出かせぎ漁民が増えたが、外洋に面した地域性と海外へ出ていく進取の気性は無関係でないだろう。今でこそ、地域間のつながりは、全国的に「陸地史観的」になっているが、昭和30年代までは、むしろ「海洋史観的」なつながりが強かった。紀淡海峡周辺地域におけるつながりは、水運において成立していたことは、そう古い時代のことではなく、また歴史上もその時代の方が比較にならないほど長い。地域間のつながりの蓄積は、むしろ海洋の視点で取り上げる方が自然である。
 歴史的に無数の人々が経験したお遍路は、四国から海をわたり高野山へ参詣し霊場めぐりが完成する。また修験道においてもその巡礼は友ヶ島からはじまり、同じく紀淡海峡をわたり葛城・金剛へと進む。海の道はこうした人々にとっても身近であり続けたものであった。文学においては、紀ノ貫之の土佐日記が紀淡海峡を介する海上の道程を記していることは周知の事実である。
 海洋という視点から、紀淡海峡周辺地域をみると、各地における類似性や共通性とともに、このようなつながりが浮き彫りになってくる。
 またこのような海を通したつながりは、現在その重要性が再び指摘されている。陸路が閉ざされた阪神淡路大震災の時にも、大阪湾や紀淡海峡、紀伊水道の漁港から漁業者によって海を介して様々な救援活動が行われた。今後とも海洋を通した交流は大切であり、海から地域をみるという視点は地域交流に必要なことである2)

注1)『和歌山県史 近世』、和歌山県史編さん委員会、平成元年、p466
 2)『阪神・淡路大震災復興誌(漁港漁村・水産施設の復興の足あと)』
(阪神淡路大震災の発生とその後の水産庁の対応)、平成8年、兵庫県

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