和歌山県街道「高野七口」

和歌山県街道「高野山への参詣道」

弘法大師空海入定以来、大師信仰の広まりとともに、人々の参拝が盛んになり、高野山へ通じる七つの道が高野七口と呼ばれました。 明治5年(1872年)まで高野山は女人禁制であったため、女性は高野山へ入れず、七口の各入口にはお籠り堂として女人堂が建てられていました。七つの女人堂を結ぶ道は高野山女人道と言われ、八葉蓮華の峰々をめぐりながら、女性たちは大師御廟に手を合わせたと言われています。

町石道(ちょういしみち)

高野山上の壇上伽藍・根本大塔を起点として慈尊院までの約22キロメートルの道中に180基、大塔から高野山奥の院・弘法大師御廟まで約4キロメートルの道中に36基の、合計216基の町石が置かれています。町石は、高野山への道標(道しるべ)として、1町(約109メートル)ごとに建てられている、高さ約3メートル強の五輪卒塔婆形の石柱です。また、慈尊院から数えて36町(1里)ごとには、町石の近くに「里石(りいし)」が合計4基置かれています。
町石は、弘法大師が開山した平安時代の頃は木製の卒塔婆だったと言われており、雨風にさらされるなどして老朽化したため、鎌倉時代の文永2年(1265年)頃に遍照光院の覚きょう上人が石造の町卒塔婆建立を発願し、20年の歳月をかけて弘安8年(1285年)に完成したものです。現存でもその大部分の石柱が建立当時のまま残り、今なお昔日の面影を伝えています。
平成16年7月に世界遺産に登録されました。
町石道ルートマップダウンロード(PDF形式 3,003キロバイト)

六本杉付近の写真
六本杉付近
町石の写真
町石

高野街道京大坂道(こうやかいどうきょうおおさかみち)

京都府八幡市からの東高野街道と、大阪府堺市から下高野街道、中高野街道を合流した西高野街道が、大阪府河内長野市で高野街道京大阪道となり、高野山へ至る参詣道です。
この街道は、江戸時代末期になると、圧倒的に利用者が多くなり、旅館や茶屋で賑わうようになりました。道中には堺市の十三里石から始まって不動坂口女人堂まで約一里(4キロメートル)ごとに里石(道標)が建っています。
橋本市には、石堂丸の物語で知られる高野街道沿いの古刹、学文路苅萱堂があり、人魚のミイラや硯石などの文化財で有名です。
また、到着点には、唯一現存する女人堂が残されています。
高野山は、弘法大師空海が約1200年前に開創して以来、明治5年まで女人禁制でした。その昔、越後の国に本陣宿「紀の伊国屋」があり、そこに小杉という娘さんがおりました。数奇な人生を送りますが、女人禁制の高野山へ登って来られる女性たちのために不動坂口に籠もり堂を建てたのが、後に女人堂となったということです。

京大坂道のうち、旧不動坂部分が平成28年10月世界文化遺産に登録されました。
高野街道京大坂道ルートマップダウンロード(PDF形式 1,944キロバイト)

一里石の写真
一里石
女人堂の写真
女人堂

黒河道(くろこみち)

橋本市の賢堂を起点として国城山を越え、玉川峡を渡り、市平、久保から高野山へ至る古道です。高野山の表玄関である高野山町石道より東に位置することから、橋本市や奈良県方面からの利便性が高かったともいえます。一方、高野山や周辺集落の生活道としても重要な役割を果たしてきました。長い歴史の中で幾多の改良工事が施され、車道(林道)化されたところもあります。しかし、いにしえの街道の原型が多く残されており、沿道の各集落や集落跡、随所に見られる祠や石仏などは悠久の歴史が偲ばれ、多くの魅力を秘めています。
文禄3年(1594年)高野山青厳寺(現:金剛峯寺)において、山内禁令の能狂言を催した太閤秀吉は、急な雷雨を大師の怒りと感じ、黒河道を馬で駆け下ったという伝説もあります。全行程の中で、3つの峠越えと、起伏の激しいところもありますが、人工林や雑木林、渓流など変化に富む景観も魅力のある、健脚者向きのコースです。
平成28年10月世界文化遺産に登録されました。
黒河道ルートマップダウンロード(PDF形式 1,063キロバイト)

世界遺産黒河道ルートはこちら(PDF形式 892キロバイト)

黒河峠の写真
黒河峠
垣内大師石像の写真
垣内大師石像

大峰道(おおみねみち)

大峰口は、高野山の東の入り口であることから東口、あるいは麓の土地の名から野川口とも呼ばれています。一説によると、弘法大師空海はここから初めて高野山に入ったとも言われ、途中には野川弁財天をはじめ、弘法大師空海にちなむ伝説がいくつも残されています。この大峰口を通じて高野山と吉野大峰山を結ぶ高野大峰街道は、「すずかけの道」とも呼ばれ、修験者や巡礼者の往来で昭和初期まで大いに賑わっていました。
今でも道沿いには往時を偲ばせる集落や旅館跡などの建物が数多く残り、古街道の面影を訪ねながら山歩きも楽しめる貴重なウォーキングルートとなっています。
また、野川弁財天そばには高野豆腐伝承館があり、天然の高野豆腐の生産地として栄えた当時の名物を味わうこともできます。
大峰道ルートマップダウンロード(PDF形式 2,209キロバイト)

今井集落の写真
今井集落
大峰道石柱の写真
大峰道石柱

熊野参詣道小辺路(くまのさんけいみちこへじ)

紀伊半島中央部を南北に縦断し、熊野三山と高野山の両霊場を最短距離で結ぶ経路です。
途中には伯母子山をはじめとする標高1,000メートル以上の峠を三度も超える必要があり、熊野参詣道の中でも最も険しい道です。
平成16年7月に世界遺産に登録されました。
熊野参詣道小辺路ルートマップダウンロード(PDF形式 3,836キロバイト)

大滝の写真
大滝
小辺路から見た大滝地区の写真
小辺路から見た大滝地区

有田・龍神道(ありだ・りゅうじんみち)

「龍神道」は、熊野参詣道「中辺路」から北へ分岐し、龍神温泉を経て、南側から高野山を目指す街道で、有田川町清水町からの「有田街道」と辻の茶屋で合流し龍神口へ至ります。合流点の辻の茶屋には昭和28年の水害後まで茶屋があり、高野登りの休憩所として利用されていました。また、龍神道の新子には4軒の宿屋があり、龍神温泉の入浴客や大峯山参りの客で賑わっていました。
現在は、民家もあまり見られず、緑の森の中、山に吹く風や降り注ぐ太陽の光に照らされ自然に触れながら散策ができます。途中、防災へリポート付近で西方に見える天狗岳には、昔、天狗がこの山の岩穴に住んでいて高野の弁天岳と往来していたという伝説があります。
龍神口近くには「お助け地蔵」があり、お地蔵さまは疲れた旅人を導き、癒してくれることでしょう。境内から眺める夕陽は絶景で、日本の夕陽百選にも選ばれました。
有田・龍神道ルートマップダウンロード(PDF形式 2,834キロバイト)

お助け地蔵の写真
お助け地蔵
天狗岳の写真
天狗岳

相ノ浦道(あいのうらみち)

高野槙の産地として知られる高野町相ノ浦地区と高野山を結ぶ街道で、高野七口のうちでは、もっとも利用が少なかったと言われています。江戸時代以前から、近隣からの物資輸送ルートとして利用されましたが、近年では林内道としてその形を留めています。

女人道(にょにんみち)

高野山は、「外八葉、内八葉」といわれるように16枚の蓮の花弁にたとえられる標高900メートルの峰々に囲まれた山上の盆地です。
江戸時代には参詣者の増加に伴い出発地別に登山口が拓かれていき「高野七口」と呼ばれる七つの登山ルートが確立しました。これらの七つの登山ルートには、明治5年の太政官布告によって女人禁制が解かれるまで「女人堂」が建てられ、女性の参詣者はこれより山内にはいることができませんでした。なお、現存する唯一の女人堂は不動坂口の女人堂のみです。女人道は、高野七口をつなぎ、盆地である高野山を取り囲む道です。途中には山内には入れない女人たちが首を長く伸ばして高野山内を覗き見たという「ろくろ峠」などがあります。
平成28年10月に世界遺産に登録されました。
女人道ルートマップダウンロード(PDF形式 807キロバイト)

円通律寺付近の女人道の写真
円通律寺付近の女人道
お助け地蔵付近の女人道
お助け地蔵付近の女人道

三谷坂(みたにざか)

勅使坂とも呼ばれ、高野山参詣道の町石道まで丹生都比売神社を経て二ツ鳥居で合流する三谷坂(勅使坂)越えの古道です。
町石道が泥濘化するのに対しこちらは急な山道ですが水はけはよく、多少近道でもあり、また、町石道からは丹生都比売神社へは迂回が必要となるため、かつて、丹生都比売神社の神主や勅使が通る道として整備され、よく利用されていたようです。
平安時代院政期に白河上皇の第四皇子で仁和寺第四代門跡覚法親王が高野参詣の祈りにこの道を利用したのが記録的には最初といわれています。
平成28年10月に世界遺産に登録されました。
三谷坂ルートマップダウンロード(PDF形式 591キロバイト)

坂の様子の写真
坂の様子
丹生酒殿神社の写真
丹生酒殿神社

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