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淡路人形のおこり
南あわじ市三原地区は、国府の所在地で、古代、中世にかけて淡路の政治、文化の中心地でした。大阪四天王寺から楽人(がくじん)を雇い、総社をはじめとする淡路島内の有名社寺に舞楽を奉納していました。
やがて楽人の一部は総社の近くに住むようになり、その子孫達が代々祖先の生業を受け継いでいました。しかし、室町時代末、守護大名であった細川氏の没落とともに神事奉納も行われなくなった頃に、西宮戎神社に仕えていた百太夫(ひゃくたゆう)という人形遣いが人形の操り方を伝え、衰退の危機にあった楽人たちは、新たな神事芸能を創造すべく上方から伝えられた「式三番叟(さんばそう)」の奉納を人形操りによって行いました。これが淡路人形の始まりです。
江戸時代になると阿波藩主蜂須賀氏に保護されて大いに繁栄し、東北から九州と全国的に巡業し40以上の人形座が活躍した時期もありました。
その後しだいに減少し、現在、淡路島に残っているのは、大鳴門橋記念館で公演している淡路人形座(旧吉田傅次郎座)と三原地区の淡路人形浄瑠璃資料館で展示・保存している市村六之丞座だけとなっています。