平成8年6月 和歌山県議会定例会会議録 第4号(上野哲弘議員の質疑及び一般質問)


県議会の活動

 午後一時四分再開
○副議長(木下秀男君) 休憩前に引き続き、会議を開きます。
○副議長(木下秀男君) 質疑及び一般質問を続行いたします。
 26番上野哲弘君。
 〔上野哲弘君、登壇〕(拍手)
○上野哲弘君 通告に基づきまして、一般質問を行います。
 まず第一に、「熊野川」の名称についてお伺いいたします。
 昭和六十二年二月の定例県議会において、「熊野川くだすはや瀬のみなれ棹 さすがみなれぬ浪の通路」と後鳥羽上皇の和歌に始まる熊野川についての一般質問をなされたのは、長年県政に携わってこられた故植野為隼先生でありました。さらに、熊野川の名称というのは「紀伊續風土記」に「熊野第一の大河なるを以て熊野川の名あり」と記されており、太古より自然発生的に名づけられたものであると、明快に述べられております。紀伊半島の大河として紀の川と並び称される熊野川への思いを歴史を踏まえて述べられたものであります。
 その熊野川が何ゆえをもって「新宮川」と名づけられたのか、その名称の由来について国及び県当局の所見をお伺いし、同時に私が調査した内容を申し上げ、今後の対応について答弁を求めるものであります。
 私の記憶するところでは、この熊野川が「新宮川」として地域住民の前にあらわれたのは、たしか熊野川が昭和四十五年に一級河川新宮川として認定されてからのことであろうかと思います。昭和五十年以降でありますが、私が新宮市議会水対策特別委員を務めていた当時から、熊野川を「新宮川」と呼称することに疑問を抱いておりました。その理由たるや単純明快で、我々が学生であった昭和二十年代、三十年代の教科書はすべて「熊野川」となっていたからで、古文書等の文献においても大半そのように記されております。
 問題の「熊野」と「新宮」という名称についてでありますが、「紀伊續風土記」における「新宮城下」の項で次のように記載されております。「新宮の地は古の熊野村にして日本書紀神武紀に(中略)越狹野到熊野神邑」とあり、また「熊野年代記」には、神武帝から十二代目の景行天皇五十八年の項に「熊野新宮建」と記載されており、神倉神社に対する新しい宮の建立から「新宮」の名がつけられたものと言われておるところであります。
 本題に入ります。昭和三十年代、この水系におけるダム建設において和歌山県はこの川を「熊野川水系」として公式文書を作成しており、当時は行政においても、また地域住民のほとんども「熊野川」と認識していたはずであります。それでは、なぜ「新宮川」となったのか。全く根拠がないものなのか。調査の結果、そうでもありませんでした。それなりの文書が古文書等で残されております。江戸期及び現代の資料から「新宮川」の名称について検証したいと思います。
 まず、「紀伊國名所圖會」から引用します。「熊野川」の項では、次のように記されております。「熊野川 新宮城下の口にあり、水源は和州吉野より出る(中略)當國第一の河なり此地にて新宮川と号す」、すなわち新宮市街あたりを指して「新宮川」と称していると思われます。
 「熊野年鑑」においては、平安期の仁明天皇の時代(西暦八四五年ごろ)、「新宮川口砂山ト成」、続いて「新宮川口大鮫入」、また承応元年(西暦一六五二年)には「二月九日新宮川大水出川口へ大船四十八艘流人二百余人死」とあります。
さらに小野芳彦先生の「熊野史」では、「天和二年(西暦一六八二)」の項に「九月十四日御舟御館江戸鐡砲洲より寄進雑賀屋彌兵衛船積。十四日新宮川に入是御館の始也」とあり、速玉神社の御船祭の船みこしのことが記されております。
 以上の資料から考えてみますと、歴史的にも「新宮川」と呼ばれていたことは間違いないところでありますが、昭和八年、新宮市制施行時の新宮市全図では、「熊野川」と記載されている中、河口については「新宮川口」となっており、このことから、「新宮川」の名称はごく短い範囲の中でしか使われておらず、川本来の意味から申しますとある程度の長さが必要であり、川全体を「新宮川」と称するには少し無理があるように思います。
 ご存じのとおり、新宮市は旧新宮町と三輪崎町が昭和八年に合併したものであり、さらに昭和三十一年に高田村が加わったものであります。その面積は、旧新宮町八・六九平方キロ、三輪崎町十五・四七平方キロ、高田村五十五・五平方キロと、新宮面積はわずか八・六九平方キロであり、熊野川河口から二ないし三キロメートル程度の距離しかありません。この川の総延長百八十二・六キロメートルからすれば微々たる長さであります。
 その全体について、「東牟婁郡誌」は次のように記しております。「熊野川 其の上流は十津川及ひ北山川より成る。 十津川は其の上流を天ノ川と謂い、大和國大峰山脈中の大峯山に發し、支流洞川を合せ西南に流れ坂本に至りて十津川となり、南流して一大横谷をなして山嶽重疊の間を縫ひ曲折甚たしく幾多の支流を容れて七色に至りて本郡に入り、本宮を經て、九重村宮井に於て北山川と合す、其の間音無川、大塔川、笹尾川等の支流あり。 北山川は、大和國大臺ケ原山の西麓に發し、大峰山脈の東麓を南流し、一大横谷をなして本郡に入り、桃崎川、玉置川、入鹿川を合して西南に轉し、屈曲頗る甚たしく九重村宮井に於て十津川と合す。其の下流玉置口附近に於て峽谷をなせる部分を瀞八町と稱す。 十津川、北山川の相合してより川は熊野川と稱へられ小口川、楊枝川、高田川、鮒田川の支流を合せ、蜿蜒曲廻東南牟婁の郡界をなして東南流して新宮町を過きて熊野浦に注く」となっております。
 以上、「熊野川」、「新宮川」について申し上げましたが、この際、「新宮川」の行政名称を「熊野川」にしていただきたい旨の新宮市議会の決議、さらに植野為隼元県議の質問に対する仮谷前知事の答弁では流域住民の意見の統一を見て対処すると言われていることをあわせ、県当局の所見をお伺いいたします。
 続きまして、和歌山県の長期総合計画における各地域の定義づけについてお伺いいたします。
 このたび、和歌山市が中核市の指定に向けて新たな都市づくりへ向かおうとしております。将来の和歌山市の発展を考える上で、これらの決定はその推進に大きく前進するものと思われます。私の認識において、あらゆる可能性を秘めた都市とも言えます。
 その大きな要因は、大阪市を中心とした関西都市圏を構成する一員となったことであります。すなわち、二十一世紀はアジアの時代と言われる中、日本にとって関西新空港は最も重要な国際空港となりつつあります。その波及効果の期待があり、また明石海峡大橋の完成や紀淡連絡道の実現により大阪湾ベイエリア構想が大きく前進するものと思われます。さらに京奈和道路も早期に推し進められ、将来の日本国土形成に大きな変化をもたらすであろう太平洋新国土軸の基幹都市として大きく期待されるところであります。
 このような観点から地域振興を考えますと、単一の事業だけをもって活性化は図れないと思います。すなわち、一事業の波及効果が他事業に結びつき、それぞれが鎖となり、また輪となってこそ大きくその地域に根づくものであり、事業の関連性が活性化の一大要因になると思います。
 そのような意味から、紀北地域の周辺整備が考えられる中、中核市としての和歌山市が動き出した今日、どのような地域を考えておられるのか、お伺いします。また、知事が提唱された百万都市構想についても、あわせてお伺いいたします。
 次に、田辺・御坊地方拠点都市についてお伺いいたします。
 地方拠点都市法とは、人・物・情報等の東京一極集中の是正と地方の活性化を図り、国土の均衡ある発展を目指し、地方拠点都市地域の整備及び産業業務施設の再配置の促進に関する法律として、平成四年八月に制定されたものでございます。
 当地域は、国土庁、農林水産省、通産省、郵政省、建設省、自治省の支援策をもとに、「にぎわい溢れる自立的発展圏の創出『文化・産業・交流のハーモニー』」を基本理念とし、地域の特性、自主性、及び創意工夫を生かし、構成十八市町村の役割分担を明確にしながら地域の一体的な整備を進め、都市的なにぎわいを初めとする多様な都市機能の集積、魅力ある就業機会の創出、さらには生活の豊かさを実感できるような良質の住宅地や住宅、レクリエーション空間、高い水準の公共サービスの提供など、職・住・遊・学の諸機能及びその前提となる都市基盤が整備された、住民にとってゆとりと潤いのある地域の創出とともに、県下第二の都市圏の形成を図り、県都和歌山市との均衡ある発展を目指すとなっております。
 そこで、その目指すところの目標と基本計画との関連性において統一された施策になっているのかどうか、所見をお伺いします。
 なお、橋本・伊都地域も本年三月二十二日に地域指定されたと聞いておりますが、当地域をどのような地域にしていこうと考えておられるのか、あわせてお願いいたします。
 さて、新宮・東牟婁地域についてでありますが、地方拠点都市は都市法の趣旨から申しますと、すべての地域が当てはまるものとは考えませんが、現在、当地域につきましては、熊野地域活性化対策の実行、熊野学研究センターの設立、紀南地方大規模イベント、さらに三重・奈良・和歌山三県知事によるサミット等、地域活性化に向けての県当局の取り組みがなされており、地域住民の一人として期待と感謝を申し上げるところであります。
 今、まさに二十一世紀を間近に迎えようとしているこの時期、国内外が大きく変動しているところでもあります。特に日本国内におきましては、大震災を初めとする防災問題、国内産業の空洞化による失業の増大、さらに金融システム破綻等の経済問題、オウム事件に代表される凶悪事件やエイズ薬害等、これまでにない社会悪が広がりつつあります。その中、国土の均衡ある発展のため、地方分権や規制緩和、首都機能移転等、さまざまな地域振興策が打ち出されているところであります。
 この際、特色ある地域として新宮・東牟婁に対してどのような位置づけをされようとしているのか、また三県による一点集中の振興策を打ち立て、なおかつ二十一世紀ビジョンを踏まえて新たな地域づくりに進むべきかと思いますが、ご所見をお伺いします。
 近年ますます財政的に弱体化している市町村がそれぞればらばらの事業をしていたのでは、その波及効果なり時代に即応した町づくり、地域づくりができないのではないか、大いに危惧するところであります。一度市町村の枠をぶっ壊して地域を考えるのも新たな発想として受け入れられるものと思いますが、いかがでしょうか。
 先日、老人福祉施設が中学校の階上に設置されているのをテレビで見ましたが、これから既成概念を超えた施策がますます増加するものと思います。県当局の特色ある町づくり、地域づくりのために和歌山県長期総合計画の果たす役割とその実施について所見をお伺いいたします。
 三点目の熊野学研究センターについてお伺いいたします。
 まず、熊野学の定義ということでお伺いいたします。この問題については以前の議会において質問しましたが、抽象論になったため質問と答弁が一致しなかったように思います。今回は具体的提案とし、県民の皆さんが理解できる質問にしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
 現在、研究センター設立のため努力されているようですが、熊野学の実践の場となるこの研究センターは、新しい発想のもと、中央の碩学の先生方が広い視野に立って地域学としての熊野の歴史文化を幅広く研究する施設であろうと理解いたします。この設立の基本となる定義についてお伺いいたします。
 なぜ私が定義にこだわるかということでありますが、この施設を単なる熊野の歴史文化を研究するだけの箱物にするならば、維持管理が精いっぱいで、地域における新たな可能性を引き出すことなく従来型の施設整備に終わってしまう、そのような気がいたすからであります。当然、地域学としての歴史文化の研究も大切ですが、さらにこの施設があらゆる社会問題にも対応できるものにすることが本来の熊野学の実践につながるものと考えます。
 熊野地域は心をいやす場所であると位置づけされております。つまり、心をいやすということを熊野学の実践としていかに具体的施策に結びつけるかであると思います。この質問を行う前に、あるビデオを担当課に見ていただきました。そのビデオの内容は、フランスの学者、アンドレ・マルローが国宝「那智滝図」を東京の美術館で鑑賞し、その後、現地で那智の滝と対面したときの模様を映したものであります。絵と現物との対比や自然について語っている部分、またフランス大統領ド・ゴールとの人生観のやりとりもあり、さらにアインシュタインが述べた「宇宙の存在には意味がある」との指摘に、彼はこの熊野の地を訪れて何かをつかんだようで、次のような言葉を残しています。「二十一世紀は再び精神的時代になるであろう。そうでなければ二十一世紀は存在しない」。この「精神的時代」とは具体的にどのようなことを指しているのかわかりませんが、熊野地域が二十一世紀における精神的時代に対応できるとしたら、熊野学の定義を明確にし、研究センターの活用を推進すべきと考えます。
 このセンターがこれまでの日本社会におけるゆがみやいじめ問題への対応、高齢化社会におけるもろもろの問題における解消等、歴史・文化・福祉・医療・教育の分野でこの熊野学を取り入れて、マルローの言う二十一世紀の精神的時代に船出すべきと考えます。
 最後に、このセンターの構成員である上田正昭先生が講演の中で次のように言われております。「この熊野学研究センターは、過去の歴史や文化を学ぶだけでは余り意味を持たない。この地域の歴史や文化を踏まえてこれからの時代に役立つ人づくり、地域づくりを目指すべきである」。当局の所見をお伺いします。
 以上で、終わります。
○副議長(木下秀男君) ただいまの上野哲弘君の質問に対する当局の答弁を求めます。
 知事西口 勇君。
 〔西口 勇君、登壇〕
○知事(西口 勇君) 上野議員にお答えをいたします。
 まず、「熊野川」の名称についてでございます。
 現行の「新宮川」の名称につきましては、大正五年に河川に認定されて以来、「新宮川」として行政上使われてきております。ご質問にもございましたが、一方、この川は昔から「熊野川」という呼び名で人々から親しまれ、使われてきたこともまた事実でございます。地域に親しみのある河川名を用いるということは、地域と密着した河川行政を行う上でも好ましいことではないかと考えてございます。
 しかし、いろいろの経過がございましたけれども、この問題に関しましては、本年六月に新宮市の議会において「新宮川」の行政名称を「熊野川」にしてほしい旨の決議があったことも聞いてございます。
 私といたしましては、関係する流域の住民の皆さん、さらに市町村等が「熊野川」という名称を行政名にしてほしいという意見の統一がなされるならば、関係する県あるいは国等に働きかけてまいりたい、そのように考えてございます。
 次に、和歌山百万都市圏構想と和歌山市に期待される役割等についてでございます。
 和歌山百万都市圏構想と和歌山市に期待される役割について、まず泉南地域と紀北地域は経済的にも文化的にも大変深いかかわりを持っておるということでございます。また、近年の関西国際空港の開港、あるいは近畿自動車道紀勢線、府県間道路の整備、そういうことによって両地域の緊密性はより高まってきていると思っております。さらに今後、関西国際空港の全体構想、あるいは太平洋新国土軸構想の推進などによりまして大いに発展が期待される地域であろうと思っております。
 今後、和歌山県が関西圏の一翼としてその役割を果たしながら発展していくためには、紀北地域と泉南地域が連携をして一体となった関西圏の新たな核となる都市圏を形成していくことが必要であろうと思います。
 私が提言させていただいている百万都市圏構想は、紀泉地域を「みどり」で結ばれた一つの都市圏としてとらえまして、自然と共生のできる国際的な複合機能都市の形成を図っていこうというものでございまして、そのためにはお互いの地域を結びつける交通網の整備を進めるとともに、和泉山脈や紀の川流域を初めとする魅力的な自然や文化資源を活用しながら、居住・文化・交流機能を適正に配置いたしまして、同時に産業の高度化と集積を図っていく必要があろうと思っております。
 和歌山市は、今後、交通ルートの結節点となるわけでございます。さらに、港湾整備や和歌山マリーナシティを核としたウオーターフロントの開発、そして多目的ホール等の複合拠点施設、住宅、下水道、公園、医療施設等の整備を進めることにより、高度な機能を持った国際都市として紀泉地域の中核都市となるものと考えておりますし、またならなければならないと思っております。
 今後、関係市町村並びに大阪府とも一層の連携を図りながらこの構想の推進に当たってまいりたいと存じます。
 他の問題につきましては、関係部長から答弁いたします。
○副議長(木下秀男君) 土木部長長沢小太郎君。
 〔長沢小太郎君、登壇〕
○土木部長(長沢小太郎君) 上野議員にお答えいたします。
 河川名のつけ方について、私の方から申し述べさせていただきます。
 まず、現在の新宮川について行政上どういう表現になっているかを申し上げますと、昭和四十五年、一級河川として官報に掲載された表現は、「新宮川(川迫川、天川、及び十津川を含む)」となっております。
 河川の名称のつけ方についてでございますが、行政上の名称は上流から下流まで統一した名称である方が管理が容易であるため、河川管理者としては一般的な慣行として下流の本川の名称を使用していると理解しております。
 なお、現在の新宮川は一級河川でございますが、一級河川の名称を変更する場合には、建設省が河川審議会の意見を踏まえて決定し、関係自治体の同意を得て告示するという手続を経るものと聞いております。
 以上でございます。
○副議長(木下秀男君) 企画部長藤谷茂樹君。
 〔藤谷茂樹君、登壇〕
○企画部長(藤谷茂樹君) 上野議員にお答えいたします。
 田辺・御坊地方拠点都市地域は、「にぎわい溢れる自立的発展圏の創出『文化・産業・交流のハーモニー』」を基本理念とし、若者等の定住を促進する魅力ある県下第二の都市圏の形成を目指しているところでございます。この目標に沿って地域の一体的な整備を進めていくために地元市町村が基本計画を策定いたしましたが、この基本計画は地域内の役割分担を明確にした上で各市町村の整備を進めていくものとなってございます。現在、各種事業が着実に推進されておりますが、これらの施策は基本計画の方向性に沿って地域の一体的な整備を計画的に進め、前段申し上げた目標の実現を図っていくものでございます。
 次に橋本・伊都地域でございますが、本県北東部玄関口の役割を担う職・住・遊・学のバランスのとれた都市圏として自立的な発展が促されることを期待して指定を行ったところでございます。
 本地域をどういう地域にしていくかにつきましては、地元の市町村の考え方が最も重要で、現在、地域内の市町村が共同して基本計画の策定に取り組んでいるところでございます。県としては、この基本計画における目標、整備の方向性に沿って事業が推進されるよう、積極的に支援してまいりたいと存じます。
 次に、新宮・東牟婁地域の振興施策についてであります。
 新宮・東牟婁地域を取り巻く環境は確かに厳しいものがございますが、その一方で、当地域は海・山・川に恵まれた美しい自然や熊野三山を核とした信仰文化など、すばらしい個性と地域資源を持った地域でございます。国民的な価値観が文化志向、自然志向へと向かう中で、今後熊野地域の魅力は一層重要な価値を持ってまいるものと考えており、将来は市町村それぞれの特性を生かしながら、地域全体として統一感のある熊野文化保養圏とも言うべき地域を形成してまいりたいと考えてございます。こうした考えのもと、熊野地域活性化計画においては、産品販売や地域交流などの分野で、従来の行政を一歩踏み出した事業展開について検討を進めているところでございます。
 また、五月に行われた奈良県、三重県との三県知事会議におきましては、広域連携プロジェクト検討事業の実施など、今年度から県域を超えてお互いに協力し合いながら各種事業を進めていく旨の確認がされたところであり、そうした新たな取り組みも進めつつ、新宮・東牟婁地域の活性化を推進してまいりたいと考えてございます。
 次に、特色ある町づくり、地域づくりのため和歌山県長期総合計画の果たす役割とその実施についてであります。
 現在、新たな県長期総合計画の策定に向けて作業を進めているところでございます。新計画に盛り込む地帯別計画では、各地域の個性や特色を最大限に生かしつつ、議員ご指摘のように、市町村の枠や従来の行政分野にとらわれない広域的、総合的な発想に立って、地域相互の交流・連携を図ることにより、産業や文化の新たな創造を目指し、圏域が全体として発展していくことを基本理念とし、今後、市町村や地域住民のご意見をお聞きし、圏域のグランドデザインを作成いたしたいと考えてございます。
 計画を推進するに当たりましては、交流・連携を支える交通や情報通信の基盤整備に努めるとともに、地域の自主的、主体的な取り組みを支援し、県、市町村、県民が一体となった魅力ある地域づくりを実施していきたいと存じます。
 以上でございます。
○副議長(木下秀男君) 生活文化部長中村協二君。
 〔中村協二君、登壇〕
○生活文化部長(中村協二君) 上野議員にお答えをいたします。
 熊野学研究センターにおける熊野学の定義についてでございます。
 熊野には、信仰の聖地として注目を集めてきた歴史文化という時間の流れと、開発の波をかぶることなく保存されてきた自然環境という空間的な広がりがありますが、熊野学とは、このような熊野地域が持つ特性に着目し、学問として体系づけていこうとする新しい試みの地域学でございます。純粋な学術研究だけではなく、住民はもとより、学者、文化人、芸術家、観光客など、広く熊野を愛する者、熊野に関心を抱く者によって支えられ、人文科学や社会科学等、広範な分野を対象とするというのが熊野学の大きな特色と認識してございます。
 熊野地域のすばらしさを称賛するだけではなく、今後の熊野の発展、本県の発展にも寄与させようとするものであり、「再生の地」、「いやしの地」としての熊野のイメージを現代的な意味において活用する方法なども研究していければと考えております。
 いずれにいたしましても、地域学は全く新しい領域の学問でもございますので、学識者や関係者の方々等、多方面からのご意見を承りながら熊野学の形成に努めてまいりたいと考えてございます。
 以上でございます。
○副議長(木下秀男君) 答弁漏れはありませんか。──再質問を許します。
 〔「なし」と呼ぶ者あり〕
○副議長(木下秀男君) 以上で、上野哲弘君の質問が終了いたしました。
 これで、本日の質疑及び一般質問を終わります。
 明日も定刻より会議を開き、質疑及び一般質問を続行いたします。
○副議長(木下秀男君) 本日は、これをもって散会いたします。
 午後一時四十一分散会

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