平成4年2月 和歌山県議会定例会会議録 第3号(中村利男議員の質疑及び一般質問)


県議会の活動

○副議長(平越孝哉君) 質疑及び一般質問を続行いたします。
 30番中村利男君。
 〔中村利男君、登壇〕(拍手)
○中村利男君 お疲れのこととは存じますが、しばらくご辛抱願います。
 私は、ちょうど一年前の二月定例議会において、本議場を通じ、明治三十五年十二月、勝浦沖で起こったサンマ漁船の遭難事故は、単に勝浦漁民だけの遭難ではなく、出漁者七百四十九名中行方不明者が二百二十九名、その内訳は新宮・東牟婁地方で百四名、田辺・西牟婁地方で百十名、日高地方で十五名という大きな遭難事故であり、また地域も紀南地方全域に及んでいただけに、そしてその当時の県の対応が必ずしも適切ではなかったように思われたので、県としても何らかの対応をされてはいかがなものかとお願いをいたしましたところ、昨年十二月、勝浦漁協と田辺漁協が主催してそれぞれ百年忌の法要を営み、県としても知事の弔辞をささげる等、適切な対応をしてくださったことに対し、心から感謝を申し上げます。
 紀州の漁民にとって大きな遭難コースは二つあります。その一つは、黒潮に乗って房総半島方面へ流されるコースであります。これは、千葉県に白浜あるいはまた勝浦という地名があるように、古くから交流もあり、助かる率も比較的高いのでありますが、八丈島方面へ流されるコースは非常に危険であって、八丈島及びその周辺の島々に漂着できなければハワイ行きであり、即、絶望ということでございます。したがって、紀州の漁民にとって八丈島は生死を分ける最後の島となるわけでございます。
 その八丈島及び周辺の島々に、今を去る百年前、紀州の漁民二百二十九名が漂着いたしました。飢えと寒さのため半死半生の状態であった紀州の漁民に対し、浜辺では火をたいて暖をとらせていただき、またわんに盛られたおかゆをすすって初めて生きた心地になったようであります。そしてその後、約一カ月間にわたって八丈島の皆さんから貴重な衣類や食料等を与えられるという献身的な救援活動を受けた後、迎えに来た軍艦に乗って無事紀州に帰ってきたのでありますが、あれからちょうど百年に当たる昨年十二月、勝浦と田辺の各漁協が主催して百年忌の法要を行うとともに、その当時大変お世話になった八丈町に対し感謝の誠をささげるべく、勝浦漁協と田辺漁協が中心となり、田辺市と那智勝浦町が協賛をして、去る二月二十三日、二十四日の二日間、八丈町を表敬訪問いたしました。私も、この遭難事故に関して善処方を提案した一人として、仮谷知事から奥山八丈町長にあてたメッセージをお預かりして訪問団一行に参加いたしてまいりました。
 八丈島は今も大変人情豊かなところであり、町長さん初め大勢の方々から大変な歓迎を受けたわけでありますが、中でも、我々一行が訪問するということで菩提寺の住職さんが当時の遭難状況を和讃に読んでいただき、遭難者の法要を営むに当たって、あらかじめその和讃を檀家の皆様方がリハーサルまでしてくださったということを伺い、我々一行はその人情の厚さに胸を打たれ、感謝を申し上げるとともに今後の交流をお願いして帰ってまいりました。
 八丈島へ行く途中、マグロ船の船主さんから聞いた話でございますが──その船主さんというのは今はおかに上がっていますけれども、その当時、船主船長と言って自分の小さな船で船長をやっていたので非常に海に詳しい方です──近海マグロでは、まず潮岬沖ではえ縄を行い、それを船へ取り込んで、潮に流されているのでまた潮岬を向いてかなり上るといったことを三回繰り返すと八丈島が見えてくるそうでございます。私は、この話を聞いて、紀州と八丈島は一衣帯水というのか、黒潮を川に例えるならば紀州が川上であり八丈島が川下なのかなという感じも受けたわけでございます。今は船も大きくなっているし、また機械器具等も大変精密にできているのでめったに遭難事故等は起こりませんが、相手が海であるので、またいついかなるときに八丈島にお世話にならないとも限らないと思うのでございます。そういう意味から、また紀州の漁民のためにも八丈島との交流を深めていただけたら大変ありがたいことだなと感じながら帰ってまいりました。
 申しおくれましたけれども、知事から託されたメッセージを確かにお届けいたしました。八丈町の奥山町長さんには大変喜んでいただき、仮谷知事さんにくれぐれもよろしくとのことでございました。
 以上でございます。答弁を求めるようなものではございませんが、知事のご感想等あればお聞かせいただければ幸甚に存じます。
 次に、英国汽船ノルマントン号事件についてであります。
 去る三月五日、NHKの「歴史誕生」という番組──私は残念ながらよう見なかったのですが、この中でノルマントン号事件と神戸とを結びつけて放映していたようでございます。私は、このノルマントン号事件と和歌山県という観点から考えてみたいと思います。
 「東牟婁郡誌」によれば、概略、次のように書かれております。
 「明治十九年十月二十四日、英船『ノルマントン』号、熊野沖に沈没し、船長以下乗り組み外人二十六名は端艇(ボート)に乗じ、串本及び大島の両地に漂着し、倉皇として神戸に向かい出発せり。当時、交通不便にして通信の機関備わらず。したがって、離破の真相を知悉するあたわず。世人はただ外舶(外国船)の不幸を弔するのみにすぎざりしが、日を経て乗客のうち日本人二十三名は一人の助命せる者なく、ことごとく行方不明となりたるもの、事実あまねく知れ渡るに及び、世論はようやく動き始め、時の元老院議官たりし大鳥圭介、真っ先に書を飛ばして、『これ、ゆゆしき大事なり。一船の主管者たる船長、水夫が無事避難して乗客を放棄するがごときは、事理においてあるべからざることに属す。このこと、もし欧米各国にて起こりたらんには、世論はごうごうとしてあくまでも船長の責任を問わずんばやまざるべし。海事思想乏しき我が国民の冷淡さよ』と述べしかば、世論紛然として起こり、当時、我が国はいまだ欧米諸強国と対等の交際をなすあたわず。いわゆる治外法権のもとに屈辱し、ひそかに外人のばっこを憤慨するの折がらなりければ、今回の事件をもって外人横暴の結果なりとし、乗り組み日本人を船の下層に密閉し、鎖鑰を施し、ほしいままに甲板上に出ざらしめたるがため、この惨事を来せるものと言い、天下に檄して遺族の義援金を募るあり。あるは遺族にかわり、無報酬にて船長に賠償を訴うる弁護士あり。あるは新聞紙上に、あるは演説会に、英人の傲慢を攻撃する者、月余にわたりてなおやまず。まさに国際関係を起こさんとするの勢いとなれり。ここにおいて我が政府はまず沈没船を捜査し、場合によりてはこれを引き揚げ、日本人死体を実験せんものと同省参事官黒田綱彦を特派し、捜査に従事せしむ」。政府としてもこのままほうっておくわけにはいかないということで、沈没現場に潜水夫を入れて捜査に従事したのでありますが、水深が五十ひろ余りもあり、当時の潜水技術としては二十八ひろを限度としていたことと、潮の流れが急であったために、「これ以上、もはや捜査の方法なく、ようやく諸報告によりて勝浦港外一海里四分の一の一地点を沈没の場所と推定し」──この「推定し」でございますが、私、親子代々一本釣りをしている漁師さんから聞いた話では、その沈没しているところを彼らは「蒸気」と言っています。そして、船のへさきがどちらの方へ沈んでいると。聞いたところ、やっぱり五十四、五ひろあるということで、勝浦の沖どのくらいということが想像できます。そして、その当時は魚もよう食ったけれども、そのかわり、道具も大分底がかりしてとられたと。私、この原稿を書くに当たって、その船はまだそこにあるかと聞いたところ、まだあるが、もう大分砂に埋まってしまったということです。そして、今でもそこへ釣りに行っているということでした。この「推定」は、推定じゃなしにほぼその現場であり、現在もこのノルマントン号が沈んでおるところでございます。その「同地赤島温泉──今はホテル浦島です──の上、狼煙山に木標を建設し、黒田参事官の一行は後事を郡村吏に託し、同月二十五日午前六時、勝浦港を発して帰京せり」と、これが概略でございます。
 私は、最近このノルマントン号の沈没石碑を訪れたことがないので久しぶりに現場へ行ってまいりましたところ、周囲の木々はもう非常に大きくなっており、また草も生えていて、なかなか見つけにくかった、そんなような状態でございます。このままほうっておいたならば地元の人々たちからも忘れ去られてしまうんじゃないかなと、そんなような感じを受けて帰ってまいりました。
 今を去る約百年前、いわゆる不平等条約のため、ふんまんやる方なく亡くなられた二十三名の日本人の死をむだにしないためにも、そして、今でこそ経済大国だ、何だかんだと言っている日本国ではありますが、それまでは不平等条約を強いられ、治外法権を許していた一小国にすぎなかったということを再認識するとともに、紀州熊野沖で起こったノルマントン号事件がきっかけとなり、時の外務大臣陸奥宗光の尽力によって治外法権の撤廃を認めさせた日英通商条約の締結に成功したということの経緯を思うとき、日本国をして近代国家へと脱皮させていったその源が我が和歌山県ではなかったかと思うのでありますが、このノルマントン号事件を小・中・高等学校の教科書においてどのように取り扱われているのか、教育長にお尋ねをいたします。そして、取り扱われているとするならば、いわゆる一般的な取り扱いからさらに一歩踏み込んで、和歌山の歴史、郷土の歴史という視点に立って取り扱いをされてはいかがかと思うのでございますが、あわせてお答え願います。
 次に、熊野学研究センターの建設についてお伺いをいたします。
 「もう何度熊野を訪れたことであろう。憑かれたように熊野を訪れた院政時代の上皇・後白河上皇三十四回、後鳥羽上皇二十八回、鳥羽上皇二十一回にはいささか及ばないけれど、少なくとももう十数回は熊野を訪れたはずである。そして、訪れるたびごとに熊野は私に新鮮な感動を与えた。一体、この熊野の魅力の正体は何か。私は、他のどの土地にも用なくしてこれほどしばしば訪れたことはない。よほど深く熊野に魅せられているのであろう」──梅原猛先生の著書「日本の原郷 熊野」の一節でありますが、去る二月六日、熊野を語るフォーラムが、梅原猛先生を座長として、神坂次郎先生ほか多数の学識経験者のご出席をいただき、那智勝浦町で開催されました。県側からは、西口副知事初め市川知事公室長、川端企画部長ほか関係課長さん方も出席されまして、約三時間、幅広い視点から貴重な提言が行われ、我々新宮・東牟婁選出の議員も全員出席いたしました。せっかくのフォーラムですから真剣に傍聴をさせていただきました。
 傍聴させていただいてまず感じたことは、あれだけの豪華メンバーによるフォーラムがどうして那智勝浦町という遠隔の地で開催できたのかということであります。それは、何といっても昭和六十三年十月に行われた日本文化デザイン会議''88熊野のおかげであり、これを誘致するのに三年越しの地道な運動をされた仮谷知事のご努力のたまものであって、改めて敬意と感謝を申し上げます。
 そして仮谷知事は、日本文化デザイン会議の閉会に当たって、「まかれた種は大事に育てていきたい。熊野に文化の灯はともされた」と締めくくったのであります。
 せっかくともされた熊野文化の灯を育てていくために、熊野文化の真髄に触れることができる熊野文化コンタクトセンターのようなものをつくってはどうかということを本会議場を通じて提言させていただいたこともありましたが、去る二月六日の熊野を語るフォーラムにおいて一つの方向づけ、例えば熊野博物館のようなものが輪郭として浮かび上がってきたように思います。
 今、全国で「熊野」と名のついている神社やお寺が三千三百六社もあるそうです。どうしてこのように熊野三山の分霊が全国で三千三百余も祭られるようになったのだろうか。それはただ熊野信仰ということだけでは説明し切れない、すなわち先人たちの知恵と努力、例えば熊野比丘あるいは熊野比丘尼という説教師が熊野曼荼羅──今で言うパンフレットのようなものです──を持って全国に布教宣伝に回ったり、また先達──添乗員のようなものだと思います──を使って熊野もうでの人々にいろいろと利便を図ったという宣伝上手であったり、また歓迎上手でもあったということも大きな原因ではなかったかと思います。そして、既に七、八百年も昔の平安時代に、我々の先人たちが全国各地に熊野という名前と、そして何らかのつながりを三千三百余りも残してくれておるのであります。
 熊野学研究センターの建設を考えるとき、学問としての熊野、すなわち理念、思想といった哲学的分野もさることながら、先人たちがいわば絵説きのようにして使った熊野曼荼羅の手法も大いに生かされてしかるべきであると思いますが、県としてどのような熊野学研究センターをデザインされようとしているのか、お伺いをいたします。
 これは、知事にというよりも、そこへ出席しておられた副知事さんがそのときの空気などを一番よく知っておるんじゃないかと思いますので、今回は特に副知事さんからご答弁をお願いしたいと思います。
 以上で、私の質問を終わります。ご清聴、どうもありがとうございました。
○副議長(平越孝哉君) ただいまの中村利男君の質問に対する当局の答弁を求めます。
 知事仮谷志良君。
 〔仮谷志良君、登壇〕
○知事(仮谷志良君) 中村利男議員に感想を述べさせていただきます。
 まず最初に、サンマ船遭難の百周年に当たり、地元の漁協や市町、また中村議員にもご出席を賜って慰霊祭を開催していただきましたこと、心から厚く御礼を申し上げる次第でございます。
 また、八丈島につきましては、事故の際はもとより、今回の訪問に際しても皆さんから心温まるもてなしを受けたということで、本当に感謝にたえないところでございます。
 現在でも八丈島周辺に和歌山県の漁船は出漁しております。そうした関係もありますので、そうした恩顧に感謝しながら、お互いの友愛・交流をなお一層深めてまいりたいと思っております。
○副議長(平越孝哉君) 副知事西口 勇君。
 〔西口 勇君、登壇〕
○副知事(西口 勇君) 熊野学研究センターに関するご質問でございますけれども、まず現在までの経過について簡単にご説明したいと思います。
 昨年策定・公表した第二次中期実施計画におきまして、紀南地方の活性化の一つとして盛り込んだのが、仮称でございますが、熊野学研究センター構想でございます。これを受けて、昨年から庁内のワーキング会議などにより、熊野の歴史、意義、さらに熊野学研究センターのイメージ構想の検討を行ってきたところでございます。
 また、ご案内のとおり、専門的な分野からご提言、ご意見をいただくために、日本文化研究センター所長の梅原猛先生を初め、熊野の歴史・文化についてご造詣の深い先生方にお集まりをいただき、熊野を語るフォーラムを開催したところでございます。
 中村議員を初め、新宮・東牟婁選出の県議会の先生方全員にご参会をいただいたので当日の模様はご承知いただいていると思いますけれども、講師の各先生方からは、それぞれ熊野への熱い思いが語られたところでございます。熊野を研究し、熊野を知ってもらい、さらには熊野から発信する何らかの施設が必要であるという賛成の意見も出されております。
 当センターの構想につきましては、まだ具体的に、これだといったものはありませんけれども、梅原先生からは博物館構想などのご意見もございました。今後、お説のような、単なる学説的な調査研究機能のみならず、熊野を訪れる人々のために、ここに来れば熊野全体のことがおおむねわかってもらえるような展示機能あるいは情報機能などを備え、また、お話の熊野曼荼羅の手法などにも倣いまして、観光面にも活用できるようなものが適当ではないかと考えております。
 今後、さらに当センターの内容について検討を重ねるとともに、設置場所、建設主体、運営組織などについても研究をいたしたいと思います。
 熊野は、私たち県民が誇る貴重な文化でありますし、日本の原郷でもございます。そういった意味で、このセンター構想については、今後、県議会の先生方あるいは地元の市町村のご協力を得ながら、実現に向けて努力を続けたいと考えております。
 以上であります。
○副議長(平越孝哉君) 教育長西川時千代君。
 〔西川時千代君、登壇〕
○教育長(西川時千代君) 子供たちが歴史に対する興味や関心を持ち、主体的に学習を進めることが求められている今日、身近な地域の歴史に関心を持たせながら各時代の特色や移り変わりを理解させることは大切なことであります。
 議員ご指摘のとおり、ノルマントン号事件はイギリスの貨物船の海難事故に伴う出来事であり、当時、このことがきっかけとなって幕末に結んだ不平等条約に対する反対運動が広まり、その後、本県出身の陸奥宗光外務大臣の尽力によって条約の改正に成功したという経緯がございます。
 このように、ノルマントン号事件は我が国の近代における極めて大きな意味を持つ歴史的事象であり、小・中・高等学校を通じ、不平等条約下の日本、条約改正の努力等々とかかわって、多くの教科書がこの事件を取り扱っております。
 新しい学習指導要領では具体的な活動や体験が一層重視されているところであり、県教育委員会としては、歴史的な内容に関する学習において身近な地域の遺跡や文化財等を観察したり調査したりする活動を取り入れることを大切にしてまいりたいと考えます。
 今後とも、より地域に根差した社会科学習やふるさと教育等を積極的に推し進め、児童生徒が郷土和歌山の歴史に目を向け、これを誇りにすることができるよう、議員ご指摘の事柄も十分踏まえながら指導してまいりたいと考えてございます。
 以上でございます。
○副議長(平越孝哉君) 答弁漏れはありませんか。──再質問を許します。
 〔「なし」と呼ぶ者あり〕
○副議長(平越孝哉君) 以上で、中村利男君の質問が終了いたしました。
 これで、本日の質疑及び一般質問を終わります。
○副議長(平越孝哉君) お諮りいたします。都合により、明十一日は休会といたしたいと存じますが、これにご異議ございませんか。
 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○副議長(平越孝哉君) ご異議なしと認めます。よって、明三月十一日は休会とすることに決定いたしました。
○副議長(平越孝哉君) 次会は三月十二日再開し、質疑及び一般質問を続行いたします。
○副議長(平越孝哉君) 本日は、これをもって散会いたします。
 午後二時二十二分散会

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