平成3年2月 和歌山県議会定例会会議録 第4号(中村利男議員の質疑及び一般質問)


県議会の活動

○議長(岸本光造君) 質疑及び一般質問を続行いたします。
 4番中村利男君。
 〔中村利男君、登壇〕(拍手)
○中村利男君 通告順に従いまして、二、三の点について質問をいたしたいと思います。
 まず第一点、燦黒潮リゾート構想の推進についてお伺いをいたします。
 「熊野に參らむと思へども 徒歩にて參れば道遠し すぐれて山きびし 馬にて參れば苦行ならず 空より參らむ 羽給べ若王子」──幾ら広大慈悲の道とはいいながら、熊野へ参るには、紀路も伊勢路も、やはり遠い。山は険しい。そうかといって馬に乗ってお参りすると、それは苦行ではなくなり、余り御利益はない。それなら空からお参りしましょう。どうか私に羽を下さい、若王子の神様。
 さしずめ今なら、「さらばジェットフォイルを与えん 海より参られよ」、これが私の今の率直な心境でございます。
 那智勝浦─鳥羽間、二時間三十分で結ばれる高速艇ジェットフォイルの実験航海が、去る二月二十二日、和歌山港から勝浦港、そして紀伊長島港、鳥羽港間で行われました。浜口、下川両先生とともに私も勝浦から紀伊長島まで乗船いたしましたが、一口に言って快適そのものでありました。そして、その名称も「サンベルト゛燦゛黒潮航路」であって、これはまさに太陽がさんさんと降り注ぐ黒潮の海をイメージし、「黒潮と遊ぶリゾート空間」を統一テーマにしている燦黒潮リゾート構想の先駆けではないかと思います。数年後には和歌山から関西国際空港へ、そしてまた関空から和歌山県への海上交通体系の整備という意味からも、この際、那智勝浦─鳥羽間を定期航路として定着していただきたいと思いますが、知事の御所見をお伺いいたします。
 次に、燦黒潮リゾート構想では、重点整備地区を七地区に分けて各地区それぞれの特色を生かした整備を行うこととしておりますが、勝浦・太地地区につきましては、「本地区は、日本人の心のふるさとである熊野、多くの観光客が訪れている勝浦温泉、日本一の落差を誇る那智の滝、鯨の町で有名な太地など、個性ある地域資源が豊富な地区であり、これを活用し、心身のリフレッシュを図る『人間回復型リゾート空間』を創出する」となっております。
 今、日本人は、押しなべて物には恵まれておりますが、心は病んでおります。人生の疲れをいやしたい、おのれの魂も少しは休ませたい、そういう願いをかなえてもらえる場所を熊野に、そして熊野文化に求めていると思うのでありますが、どこに行けば熊野文化が見えてくるのか。
 約二年半前に行われた日本文化デザイン会議は、仮谷知事初め関係各位の御協力によって大成功をおさめたわけでありますが、そのときの仮谷知事の最後の言葉として「まかれた種は大事に育てていきたい。熊野に文化の灯がともされた」、こう締めくくったのでございます。
 せっかくともされた熊野文化の灯を育てていくために、そして熊野文化の真髄に触れることができるような、例えば熊野文化コンタクトセンターのようなものをぜひとも熊野地方につくっていただきたいと思うのでありますが、知事の御所見をお伺いいたします。
 次に、サンマ船の遭難百周年を迎えて。これは、遭難の状況を交えながら申し上げてみたいと思います。
 「あはれ 秋かぜよ 情あらば伝えてよ ──男ありて 夕餉にひとり さんまをくらいて 思いにふける と」、佐藤春夫の「秋刀魚の歌」であります。また、郷土の料理研究家・梅田恵以子さんも、「味な味」という本の中で、「焼きたてのサンマに大根おろしやスダチを添えて秋を思うのが日本の味の心。一般には秋の魚として知られているサンマが、紀州では冬の味として親しまれる。冬の寒風吹きすさぶころ、サンマが陸地近くに来ると言われ、翌春までサンマ漁が続く」、このように書いております。
 サンマのすしとして、またサンマのなれずしとして、広くふるさとの味として親しまれているサンマではありますが、この紀州のサンマにも過去に悲しい歴史がございました。このことについて、「東牟婁郡誌」に基づいて紹介をしてみたいと思います。
 「明治二十五年の歳末に於ける勝浦漁船の遭難は仝十二年の太地捕鯨漁船遭難に劣らさる慘事なりとす。同地は秋刀魚の漁獲の本場とも稱すへき所なるも、土着の漁民僅少なるか故に漁季に當りては四五百名の漁夫を雇入るるの習慣なり。されは單に勝浦漁民のみの遭難に非すして、實に左表の如く各郡村に亘れり」。
 お手元に「明治二十五年十二月二十八日秋刀魚漁船遭難調」という表をお届けしておりますけれども、行方不明者を随分出しております。勝浦村が二百四十四人のうち七十五人が行方不明です。三輪崎では、二人出て二人行方不明。田辺も随分と多く、四十八名。また田並村に至っては、五十名出漁して三十五名行方不明となっております。知事さんの出身地・和深は七名亡くなっていらっしゃいます。また日高郡の白崎村に至っては、八人出漁して全員八人とも亡くなっております。合計七百四十九名出漁いたしておりますが、二百二十九名が行方不明ということになっておるのでございます。「かくの如く縣下三郡十數町村に亘りて遭難者出せしことなれは、其の報の四方に達するや、其の驚愕實に名状すへからさるものありき」。
 実は、私も若かりしころにサンマ船に乗りまして、熊野灘はもちろん、遠く北海道までサンマをとりに行った経験がございます。そのときに襟裳岬の沖で台風に遭いました。二十四時間、生死の間をさまよいました。へさきボスビットは吹っ飛びましたし、胴回りもすかっと取られて難破船同様になって八戸の鮫港に入れた経験もございますので、この遭難事故は私にとっては人ごとのように思えないのでございます。
 さて、その当時の模様を「東牟婁郡誌」は、おおむね次のように述べております。
 明治二十五年十二月二十八日は曇天であったが、「風波靜穏にして一点の波浪なく眞に恰好の漁獲日なれは、各船共正午頃には已に捕魚を滿載し、衆皆得々然として正に歸船を艤せんとするの際」、突然、土地の漁師達の最も恐れている北西の風が吹き荒れてまいりました。「人々天候の險惡なるを知り、漁獲物を海中に投して船腹を輕くし三艘相連結して極力陸地に漕き戻らんとせり、時に午後二時過なり、然るに風濤益々猛烈にして操縦意の如くならす、止むを得す針路を三木崎沖に取り、大約二里余を漕き進みたるも、日は既に暮れ四方暗黒にして咫尺を辨せす、風威は彌か上に加はり、舟は動もすれは顛覆せんとす、茲に於て搭載せる漁網を悉皆海中に投棄し、必死の勇を皷して漕舟に從事するも到底風涛の力に抗する能はす、茲に於て運命を天に委して又櫓櫂を操らす唯た舟の顛覆せさらんことに意を用ひ、以て萬一を僥倖せり」。
 このような状況の中で辛うじて帰ってきた漁夫の話では、自力では帰ってくることが到底無理であるとのことであったから、ちょうどこの突風を避けて勝浦に入港していた沿岸航路の汽船「黄金丸」ほか二隻に依頼して捜索してもらったところ、波間に漂流していた百二十三名の漁夫が救助されております。
 翌日、村の吏員が郡役所へ赴いて実情を説明し、遭難者捜索のため軍艦派遣の稟議ありたき旨申し述べたところ、首席郡書記、大いにこれを了とし、郡長の旨を受けて県庁に電報を入れました。
 また、勝浦村村長、三輪崎村村長からも軍艦を派遣していただくよう電報を入れたところ、翌日県庁から、漁船遭難のごときに軍艦の派遣はできない、すなわち県庁の内務部長書記官から「軍艦派遣詮議に及ひ難し」と、こんな返電を受け取ったのであります。
 このことが当時の中央政界でも問題となりまして、柴四郎代議士外二名が提出者となり、犬養毅外三十名がこれに賛成の署名をして、政府に対して質問書を提出いたしております。また、明治二十六年一月十日発刊の「日本新聞」には、「今や我 天皇陛下の知らし召す大八州の中縣廳なきの縣民あり之を和歌山縣とす。 明治二十五年十二月二十八日此縣瀕海の漁民無慮五百名は海上颶風の凶變に會し一出して皆還らず是實に悲痛惨憺人心ある者の聞に堪えさる所なり而して其當時帝國軍艦の紀海に赴きて之を捜索するの擧あるを見す、今衆議院議員の質問に對し海軍大臣の答辨する所に據れは去十二月二十八日紀州熊野沖に於て漁民遭難に際しては軍艦救護を要するの報告に接せさるを以て即時軍艦を派遣せさりしなりと是に據て之を觀れは當時和歌山縣廳なる者も亦た之を知らさりしか将た知るも視て遭難と爲さゝりしか或は之を遭難と認むるも以て保護するに足らすとせしか三者必す其一に居るへきなり」。このような口調で当時の新聞は報道をいたしております。
 さて、話を遭難現場に戻しますが、翌二十九日、三十日と黒潮に乗って波任せ、風任せで流されるわけでございますが、三十一日になって、「暫くして一小港に達す、即ち八丈嶋八重根港にして遭難船中已に漂着せるものありて、火を焚き暖を取り居りしか、本船の着するや、嶋民は愈火を熾んにし、且つ多人數海濱に來り粥を椀に盛りて施與せられ、人々始めて再生の思を爲せり、聞く三十日の夜、八重根港は祭禮にして提燈、燈篭を樹の梢に掛け、ありし故、遭難船は之を目標として漕き着けたるなりといふ」、「八丈島の島民は都て純朴にして而も義侠心に富み、土地の役人は勿論、大いにその災害を憐み、爲に金品を募集し、頗る救恤──難しいので字引を引きましたら、『貧しい人だとか罹災者などに救い恵むこと』とあります──に盡力せり」。
 このようにして、お金や米、しょうゆ、カンショ等、救援物資をいただいたわけでありますが、中でもしょうゆは「本嶋に於て醸造する能はす、遠く関東諸國より輸入する所にして嶋民漫りに用ゆることなく、最も貴重せるものなりという」と。こういう大変貴重品であるしょうゆまでもいただくという接待を受け、ようやく二月一日、軍艦「天城號」が八丈島への漂着漁民を乗せて横須賀港に入港。二月三日、軍艦「浪速號」がこの漁民二百十名を乗せて横須賀港を出発し、二月四日午前八時、勝浦港外の山成島付近にいかりをおろして無事に漁民を引き渡した。
 以上が「東牟婁郡誌」による勝浦サンマ漁船遭難の概略でありますが、ことしはサンマ船が遭難してから百周年に当たると聞いております。勝浦漁業協同組合初め遭難者を出した各漁協も、何らかの形で供養等について考えているようであります。県といたしましても、今なら絶対そんなことはあり得ないことでございますけれども、あの当時の対応が必ずしも適切ではなかったように思われますので、この際、懇ろに供養されてはいかがかと存じますが、知事の御所見をお伺いいたします。
 また、遭難漁民に対して献身的な手厚い援護の手を差し伸べてくださった八丈島に対しても、何らかの形で感謝の意をあらわすべきではないかと思いますが、いかがでしょうか。そして、これを機に八丈島との交流のきずなをより深いものにしてはと思いますが、あわせて知事の御所見をお伺いいたします。
 以上で、私の質問を終わります。
○議長(岸本光造君) ただいまの中村利男君の質問に対する当局の答弁を求めます。
 知事仮谷志良君。
 〔仮谷志良君、登壇〕
○知事(仮谷志良君) 中村利男議員にお答え申し上げます。
 燦黒潮リゾート構想の推進の中で、紀南地域の海上交通の整備についてでございます。
 先日の試験航海に乗船し、つぶさに現状を見ていただいて、心から感謝申し上げる次第でございます。
 この整備につきましては、本県は燦黒潮リゾート構想でございますし、三重県はサンベルトゾーン構想と、ともに海をテーマとしておりまして、両県のリゾート構想の推進、さらには古い伊勢文化と熊野文化の交流促進といった観点から高速交通機関の導入が重要であると考え、一昨年の五月に紀伊半島知事会議で三重県の田川知事と検討を進めていくということで合意してまいったところでございます。その結果に基づいて試験航海をやりましたけれども、乗船された皆さんから非常に乗り心地がよいということを承っております。
 航路開設につきましては、採算性の問題、また集客力の課題がございますけれども、こうした試験航海の成果を踏まえつつ、三重県や関係企業とともに具体化に向けて積極的に今後協議を進めていきたいと思っております。
 次に、文化問題として、熊野文化を残すためのコンタクトセンターのような文化施設の設置を考えたらどうかということでございます。
 お話のございましたように、昭和六十三年に文化デザイン会議を開催いたしまして、全国から一万五千有余の多数の皆さんに参加していただき、熊野文化についての認識を日本的に理解していただいたところでございますし、また熊野の自然、文化のすばらしさも理解していただきました。
 その後、熊野古道──昨年は古道ピアを開催いたしました。また、中上健次さんを中心にして、地元において熊野大学ということでいろいろな研究討議もしていただいております。
 御提言の問題につきましては、おっしゃられますように、日本人の心のふるさとでもある熊野でございます。そうした点から、御提言の趣旨を関係市町村と十分相談させていただいて今後とも協議してまいりたいと思っております。
 それから、サンマ船の遭難百周年を迎えて、昔からのいろいろな遭難の状況等についてのお話を承りました。
 私も、これを余り詳しく知らなかったわけでございます。先日、二階代議士が政務次官をしておられた際に八丈島へ参りまして、八丈島の皆さんから和歌山の遭難の話を聞いたということでお話を承り、また今、中村議員からその話を承ったわけでございます。
 昔から特に、紀南から黒潮に乗って千葉や銚子の方へ行ったならば生き延びるけれども、遭難して八丈島やハワイへ行ったら亡くなるという話が伝わっております。そうしたことも、これらの大きな遠因でもあろうかと思います。
 お話ございましたように、今、田辺の竜泉寺にも菩提寺があるようでございますし、勝浦にも菩提寺があるということでございます。また関係の漁業協同組合や町村でも、そうした霊を慰めるということでいろいろ協議しておるということでございますので、そうした地元の皆さんの意見を聞きながらこれの対策について考えていかなければならないと思っております。
 昨年はトルコ軍艦の遭難百周年が大島で行われまして、それより一年おくれてサンマの遭難があったということにもなるわけでございます。そうした点につきまして、関係の町、漁業関係並びに地元の皆さんと十分対策を検討させていただきたいと思っております。
○議長(岸本光造君) 答弁漏れはありませんか。──再質問を許します。
 〔「なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(岸本光造君) 以上で、中村利男君の質問が終了いたしました。
 これで、午前中の質疑及び一般質問を終わります。
○議長(岸本光造君) この際、暫時休憩いたします。
 午前十一時十三分休憩
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