平成3年2月 和歌山県議会定例会会議録 第2号(渡辺 勲議員の質疑及び一般質問)


県議会の活動

○議長(岸本光造君) 質疑及び一般質問を続行いたします。
 46番渡辺 勲君。
 〔渡辺 勲君、登壇〕(拍手)
○渡辺 勲君 私が和歌山市議会議員として地方政界に第一歩を踏み出しましたのは、昭和四十二年の春でございました。昭和三十五年の池田勇人内閣の所得倍増計画のもとに高度経済成長政策が達成されつつあった時期であります。
 我が和歌山県におきましても、住友金属和歌山製鉄所の昭和三十五年の粗鋼生産量はわずかに八十万トンであったものが、昭和四十三年には六百十五万トンと飛躍的な伸びを示しました。従業員数は三千人余りから一万数千人に膨れ上がり、第五高炉が完成した昭和四十四年には、単一規模では世界最大の生産能力を持つ八百五十万トンの製鉄所が完成したのでありました。県北部臨海には、富士興産、丸善石油、東亜燃料の石油精製工場や花王石鹸工場も拡張を重ね、夜半にはこれら工場の照明が夜空に海岸線をくっきりと浮かび上がらせ、不夜城の感がございました。
 本県の経済が成長したのも、この時期であったと思います。県下の産業構造も、従来の繊維産業中心から鉄鋼、石油精製といった重化学工業中心へと変わっていったのでありました。
 戦後の復興、開発期を終えて、ようやく成長期に至るのでありますが、やがて、産業の発展とともに、公害の発生が深刻な問題として顕在化する時代を迎えるのであります。住友金属和歌山製鉄所が本格的な操業を始めるとともに、周辺住民からは、粉じん、ばい煙、騒音、臭気などの除去・防止対策を行政や企業に対して強く要求する時代へと変わっていくのであります。
 当時、大橋知事は国に先駆けて昭和四十一年十月に公害防止条例を制定し、特定施設の届け出制やばい煙その他の排出基準を決めるなど、公害防止に乗り出しておりましたが、公害問題はさらに深刻なものとなり、昭和四十三年三月、和歌山市の旧市内全域が大気汚染地区に、和歌川流域が水質汚染地区にと、それぞれ不名誉な国の指定を受ける結果となったのであります。
 同年、住友金属和歌山製鉄所の公有水面埋立拡張工事計画に反対する「海を返せ運動」が激しく展開されました。和歌山市民六万人の署名が集められたり、地元民の座り込みやハンガーストライキが行われるなど、住民パワーが大きなうねりとなったのであります。
 一方、和歌山市内高松地区の住民は周辺の化学工場群の悪臭にたまりかね、地域ぐるみの反対運動が展開されました。製鉄所と一般住居が近接していたことや、中小企業の多い化学工場では公害防止施設を完備することがなかなか困難であったことなどのために、県域の公害被害が深刻なものとなったのであります。
 昭和四十六年四月、県会初当選。私の議会活動は公害問題の勉強から始まったのでありました。
 同年七月、公害防止条例が改正され、公害行政の本格的取り組みが開始されたのであります。当時の県議会の議論を回顧いたしますと、公害問題を取り上げない人は議員ではないがごときの雰囲気でございました。このように公害問題が県議会の議論の中心として推移する中、開かれた黒潮国体は県民の明るい希望であったと思います。
 ところが、同年の八月、ニクソンアメリカ大統領宣言により、円の固定相場制から変動相場制への移行が発表されたのであります。すなわち、ドルショックであります。輸出国である日本経済に与えた打撃は、まことに深刻なものがあったのであります。さらに、昭和四十八年十月の第一次オイルショックのダブルパンチを受けた我が国は減産体制を余儀なくされ、翌年の経済成長率はマイナスとなったのであります。その後、経済の主導部門を素材型産業で誘導してきた我が国は、自動車、電気製品等、二次加工産業に主力を移しながら高度成長を続けつつありましたが、素材産業に圧倒的比重を置いてきた和歌山県経済はその動きに取り残され、昭和五十年代に入ると不況の深刻化で従業員の解雇、一時帰休が相次ぎ、最悪の経済状況下に至るのであります。
 あれほど声高に叫ばれた公害議論も、いつしかこの議場から消えていきました。そのような背景のもとに、当時、第三期目を迎えた大橋知事が提唱する三大プロジェクト、すなわち紀北の研究学園都市、紀中の田園工業都市、紀南の福祉エリア構想の実現に県民の期待がかけられていたのでありますが、そんな五十年十月四日、大橋知事は急逝されたのであります。県民の悲しみと厳しい経済状況下にあって仮谷知事が誕生したのでありました。
 財政難の厳しい時代、「マイナスシーリング」などという聞きなれない財政用語が常用語として定着していく中で、前大橋知事の構想実現と財政難という現実との板挟みの中で仮谷知事は苦しみ抜かれたことでありましょう。
 昭和五十年は大きな節目の年となりました。和歌山県の大きな課題は何か。何よりも僻地性からの脱却が第一である、そのためには道路交通網の整備が最重点であり、高速道路網から取り残された地域であるがゆえに企業の進出も進展もしないことがだれの目にも明らかでありました。
 議会も議論するのみでなく行動しようではないかとの古田新蔵先生の呼びかけにより、同年十二月一日、高速自動車道紀南延長促進議員連盟が発足いたしたのでありました。以来、陳情回数は六十七回を数えました。苦しみの経験の中から私たちに与えられた教訓は、一時期の経済現象や社会風潮に左右されることなく、着実に県勢の基盤を確立しておくことがいかに大切かということであったと思います。そして、言葉だけでなく、直ちに実行に移された古田先生の政治行動に多くのことを学ばせていただきました。それまでの私は、ややもすれば、議員の役割というものを批判する立場に重点を置いていましたが、建設的な役割こそ大事であり、私たちにはそうした二つの使命のあることを学ばせていただきました。以来、県勢の浮揚は、当面、関西国際空港建設にかける以外にない、千載一遇のチャンスを逃してはならないと自覚し、勉強を続けてまいりました。もちろん、今後もさらに研究を続けたいと考えております。
 私が県議会の末席を汚させていただいたこの二十年間、日本経済に幾多の山坂がありました。あるときは列島改造ブームに沸き立ち、またある時期はドルショック、二度にわたる石油ショック、円高不況等、変遷を経てまいりました。そして昭和六十年代から平成の年へ、「高原景気」と称して五十カ月以上、経済成長率五%以上を維持してまいりましたが、ようやくその陰りも見え始め、来年度の政府の見通しは三・八%と踏んでおります。
 しかし、その間には東京一極集中が進み、近畿全体での工業出荷額は、昭和五十年には全国の二〇・六%を占めていたものが昭和六十三年には一八・一%まで低下していました。その中にあって本県の落差はさらに大きく、昭和五十年、一・四四%が六十三年には〇・七七%まで低下しております。さらに県人口の横ばい状況と高齢化は今後の大きな課題となるでしょう。
 私が県会議員として体験した二十年間を駆け足で回顧してまいりましたが、まさに「歴史は繰り返される」の実感を強くいたしております。世に課題の尽きるときはないでしょうし、課題なき社会などはあり得ませんが、過去の教訓に学び、やるべきチャンスは逃すな、先見性と信念を持って、批判を恐れず進むべきであるとの感を強くするものであります。今後の県政推進について、仮谷知事の御所見をお伺いいたします。
 さて、私ごとでまことに恐縮でございますが、私は、今議会を最後に後進に道を譲ることを決意いたしました。
 私は、和歌山市議会議員選挙を含めて、みずからの選挙を六たび戦いました。選挙に出る者はだれしも体験することでありますが、胸中に燃える使命感は有権者に理解されることが少なく、日常の世話活動や応対の姿勢、冠婚葬祭への出席頻度によって評価されることが多く、議員とは一体何なのかと自問することが多々ございました。
 識者に言わせれば、「政治屋は次の選挙を考える。政治家は次の世代を考える」と厳しい御批判があるわけでございますが、一方で有権者の素朴な意識を無視して選挙に勝つことは不可能であります。現実と理想のはざまで多々苦しむことはございますが、決して埋没することなく、みずからの命の中に次の時代への火を赤々と燃やし続けることこそが政治家にとって何よりも大切なことだと思います。
 走馬灯のごとくいろいろな思いが込み上げてまいりますが、限りある人生の中での二十余年間は、私にとって貴重な体験を積ませていただけたとの思いでいっぱいでございます。選挙に出馬し、二十四年間にわたり議会人として在職させていただいたからだと思います。
 きょうまで御支持、御支援をいただいた県民の皆様、同志の皆様、後援会の皆様に、深く深く感謝を申し上げたいと存じます。
 そして、二十余年間に得た私の何よりの宝は、多くの友であります。アメリカの詩人フランシス・ベーコンは「友なき人生は荒野のごとし」と言いました。また、「人生最大のぜいたくは、よき人間関係を持つこと」と表現した人もいます。こんなに多くの友ができました。御参席の議員の皆様、生涯のよき友としてよろしくお願いいたします。そして、二十年間、私の議員活動に御指導と御協力を賜りました知事初め県当局職員の皆さん、本当にお世話になりました。私は、今議会を最後に、新しい目標に向かって再出発をいたします。今度とも一層の御支援と御指導を心よりお願い申し上げます。
 最後になりましたが、和歌山県の大いなる発展と先輩・同僚議員並びに知事初め当局の皆様方の御健勝を心より祈念いたしまして、私の最後の質問とさせていただきます。皆さん、本当にありがとうございました。
 和歌山県議会、万歳。(拍手)
○議長(岸本光造君) ただいまの渡辺勲君の質問に対する当局の答弁を求めます。
 知事仮谷志良君。
 〔仮谷志良君、登壇〕
○知事(仮谷志良君) ただいま渡辺議員から今後の県政の推進についての指示をいただいたわけでございますけれども、答弁させていただきます。
 渡辺議員から、市会一期、県会五期の御経験を踏まえ、政治家としての立場から、和歌山県の社会、経済、環境の移り変わりについてお話を承りました。その話をお聞きしながら、私もまた、高度経済成長時代、ニクソンショック、ドルショック、低成長といった、当時のいろいろな思い出が走馬灯のごとく頭に浮かんでまいりまして、感慨ひとしおのものがございました。特に、私は昭和五十年に知事に就任させていただき、渡辺議員には四期御支援をいただいてまいりましたが、その四期の間の思い出にはひとしおのものがございます。
 ただいま話ございましたように、古田議員を先頭にしての高速道路の推進に当たっては大変いろいろとお世話になりましたし、また半島振興法、関西国際空港等についても県議会が一体となって推進していただき、これらが私にとって大きな支えになったのでございます。
 特に関西国際空港につきましては、空港対策特別委員会ができた昭和五十一年に渡辺議員が初めての副委員長になられました。また、五十五年には特別委員会の委員長として、当時、運輸省から三点セットが提示されましたが、そうしたときに県としての態度ということで中心になっていただいて、県議会の皆さんの御協力で関西空港推進にこぎつけたわけでございます。私、今にして思うのでございますけれども、あの当時、神戸市が反対していなかったならば果たして関西空港は泉南へ来れたであろうか、また県議会の皆さんの一致団結がなかったならば関西空港はできただろうかということが脳裏に浮かんでくるわけでございます。
 そうした思い出の数々がございまして、大変いろいろお世話になりましたこと、心から厚く御礼を申し上げる次第でございます。
 現下の問題といたしまして、先ほど来話ございましたように、低成長時代からの問題は、産業基盤、交通基盤等を整備することによって経済、福祉、文化、教育の面において和歌山県を発展させていかなければならないわけでございます。そうした点において、過去の歴史に思いをいたしながらも、やはり先見性を持つことが一番大事なことではないか、そしてその決断に踏み切ること、チャンスを生かすことが大事ではないかと思っております。
 現在、議会の皆さんの御努力によって数々のプロジェクトが芽生えております。そうしたプロジェクトを実行するとともに和歌山県のすばらしい資源をこれから見出し、発見して、これを和歌山県の発展の起爆剤にしていきたいと思っておるところでございます。
 最後に、政治家としての喜びと悲しみと言うたらどうかと思いますけれども、理想を掲げながらも現実の問題として有権者から票を得なければならないといった問題等、いろいろな悩みがあると思います。皆さんに及ばないものの、私にもそうした悩みがありますけれども、そうしたことこそ、あすへの活力の基だと思います。
 こうした政治生活を経験されて、渡辺議員のそのバイタリティーは別の世界へ行っても必ず花開いていただけると思います。私の教えていただいた政治の先輩の皆さんも、その意気込みで社会に出たなら必ず勝つ、あの体力と気力と頭脳をもってすれば何でもできるということでございましたので、なお一層の御健闘をお願い申し上げるとともに、今後、政治の先輩として県政についていろいろお教えいただき、また庶民としての立場からも政治に対する御示唆を賜りたいと思います。
 答弁になりませんけれども、お許しいただきたいと思います。
○議長(岸本光造君) 答弁漏れはありませんか。──再質問を許します。
 〔「どうもありがとうございました」と呼ぶ者あり〕
○議長(岸本光造君) 以上で、渡辺勲君の質問が終了いたしました。
 これで、本日の質疑及び一般質問を終わります。
 明日も定刻より会議を開き、質疑及び一般質問を続行いたします。
○議長(岸本光造君) 本日は、これをもって散会いたします。
 午後二時三十七分散会

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