平成27年6月 和歌山県議会定例会会議録 第5号(尾﨑太郎議員の質疑及び一般質問)


平成27年6月 和歌山県議会定例会会議録

第5号(尾﨑太郎議員の質疑及び一般質問)


汎用性を考慮してJIS第1・2水準文字の範囲で表示しているため、会議録正本とは一部表記の異なるものがあります。

正しい表記は「人名等の正しい表記」をご覧ください。

  午前10時0分開議
○議長(前芝雅嗣君) これより本日の会議を開きます。
 日程第1、議案第96号から議案第116号までを一括して議題とし、議案に対する質疑を行い、あわせて日程第2、一般質問を行います。
 14番尾﨑太郎君。
  〔尾﨑太郎君、登壇〕(拍手)
○尾﨑太郎君 議長の許可を得ましたので、一般質問をいたします。
 私も、いろいろとありまして、随分、ちょっと深手を負いましたけれども、選挙の洗礼こそ政治家にとってのみそぎであります。心機一転、御支援を賜った皆様方の御期待に沿えるべく、微力を尽くしてまいりたいと思います。
 あの事件については、不可解なことも多く、私も可能な限り法曹関係者や捜査関係者OBの方からいろいろな意見を拝聴し、また、事件の参考となる多くの書籍にも目を通してまいりましたが、いまだ公の場で私見を述べるのは時期尚早ではないかと思います。ただ、国家権力の恐ろしさというものは、身にしみてわかりました。
 社会契約論で有名なホッブズは、国家権力をリバイアサンに例えました。リバイアサンとは旧約聖書のヨブ記に出てくる海の怪獣ですが、国家権力とは何らかのたがをはめておかなければ暴走する可能性のある極めて危ない側面を持ったものです。このたがこそ、近代国家における憲法であります。
 青木英五郎氏の「日本の刑事裁判─冤罪を生む構造─」に、アメリカの連邦最高裁判事の言葉が紹介されています。いわく、「私は、ソ連の手続でアメリカの法律によって裁かれるよりは、むしろアメリカの手続でソ連の法律に従って裁かれるほうを選ぶであろう」。近代国家の強大な政府権力を国民にあだなさぬよう発現せしめるには、手続と運用が何よりも大切です。
 我が国の刑事訴訟法は、まことに立派な手続法でありますが、運用において十全になされているとは言いがたいのではないでしょうか。恐らく、大学で法律を学んだだけで特に法曹関係の仕事にはついていない場合、自分が刑事事件にかかわるようになってしまったら、大学で学んだことはほとんど実際の役には立たないことを思い知るでしょう。
 法学部の学生ならば一度は読むように推薦される本に、川島武宜氏の「日本人の法意識」があります。日本の法典は、明治政府が西洋列強と渡り合い、不平等条約を撤廃せしめるために急ごしらえで整備されたものです。各法典と伝統的な日本人の規範意識とは乖離した面も多くありました。
 江戸時代に切り捨て御免の法があったといって、実際に武士が町人を無礼打ちにする、今日の法概念で言うところの権利があったわけではないですし、実際にそんな例はほとんどありませんでした。もちろん、三くだり半を突きつけて気に入らない嫁を離縁できた亭主もいなかったのです。うちの主人とは名ばかりで、事実上、家を牛耳っているのは奥さんであるのは、今も昔も変わりません。伝統的な社会では、成文化された法以上に慣習や道理といった規範があり、物事の正否は成文法によってというより、それらによって決められていたのです。
 何より、権力者たる武士自身が、そのような目に見えぬおきてでみずからを厳しく律していましたし、ある意味がんじがらめになっていったと言ってもいいでしょう。庶民も権力者も物事の理非を判断できる規範を共有し、社会は極めて安定したものでありました。国際社会と向き合うのでなければ、これでよしであります。
 しかし、我々は、国の独立を守るため、近代国家となって国際社会を形づくっていた西洋列強と渡り合わねばならなくなりました。そして、今は、自由と民主主義の価値を共有する国際社会と協働して、お互いに安全保障を図っていかなければなりません。
 いずれにせよ、近代国家となりますと、その権力はむき出しの権力ですから、惻隠の情というわけにはいきません。個人は政府権力の前では余りにも無力であるのです。ですから、これを憲法、手続、運用でがんじがらめにしておかなければならないのです。
 郵便料金の割引制度を不正利用するため証明書類の作成にかかわったとして、厚生労働省の当時課長であった村木厚子氏を大阪地検特捜部が逮捕した事件がありました。毎週のように、村木さんは東京から事情聴取のために大阪へ呼び出されたそうです。交通費はもちろん自費、子供2人を抱え、本省で仕事をしていた村木さんの心労は察するに余りありますが、350万円ほども借金ができたといいます。
 絶望的な状況でも決して根を上げなかった村木さんの精神力には驚嘆しますし、その後、彼女が厚生労働省の次官に就任なさったのもむべなるかなではありますが、あのような状況下で果たして普通の人は検察の求める証言を拒むことができるのか、甚だ疑問であります。
 国会では安保法制の審議がなされているところですが、6月4日の衆議院憲法審査会で、我が党が推薦した憲法学者の長谷部恭男先生が、集団的自衛権を違憲とする意見を述べておられました。前にも申し上げたことがありますが、長谷部先生は私の大学時代の憲法の先生でした。久しぶりに見る先生は随分頭も白く薄くなっておられましたが、学者として堂々と思うところを述べられたのはさすがでありました。
 ただし、違憲か合憲かを最終的に判断するのは学者ではありません。また、違憲とする学者が多いからといって、その学説が妥当だとは限りません。およそ学問における正しさほど、多数決になじまないものもないでしょう。
 ロッキード事件では、東京地検は贈賄側の副社長コーチャン氏と東京支社長クラッター氏の刑事免責を確約し、最高裁も不起訴を明らかにしました。その上で、両名には、ロサンゼルス連邦地裁で嘱託尋問が行われましたが、その調書を東京地検は証拠能力ありと認めました。そして、何と弁護側からの反対尋問の請求は却下されたのです。
 憲法第37条の第2項「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。」とあります。明らかに、反対尋問を認めないのは憲法違反であります。
 しかし、当時、この裁判が憲法違反であるとの論陣を張った憲法学者がいたでしょうか。私の知る限りでは、英文学者の渡部昇一先生と政治学者の小室直樹先生ぐらいでありました。
 憲法第81条は、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」としています。言うまでもなく、違憲かどうかの最終的な判断は最高裁が行います。
 ただし、我が国では、具体的な訴訟事件を前提として、その訴訟に必要な限りにおいて憲法審査が行われます。付随的違憲審査制と呼ばれています。
 残念ながら、ロッキード事件の上告審では、田中被告が鬼籍に入ったため公訴棄却となり、審理は打ち切られました。当時のオピニオン誌には、最高裁は嘱託尋問調書の判断をしたくないために、田中被告が亡くなるのを待っているのではないかとの論考が出ていたように思います。
 巨悪を裁くためには憲法をじゅうりんしてもやむを得ないというのが当時の世論、日本人の法意識であったのか。憲法学者まで、そろってこの暗黒裁判に異議を唱えなかったことは、記憶しておかなければなりません。
 ロッキード裁判の1審有罪判決の後、田中角栄氏が議員辞職を拒み控訴をしたことを、「朝日新聞」は「1審の重みを知れ 居座りは司法軽視 逆転無罪あり得ない」との大見出しで報じました。
 憲法第32条「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。」、護憲派をもってなる朝日ですら、いや、朝日だからか、この始末です。
 昭和32年、基地拡張に反対するデモ隊の一部が米軍立川基地に立ち入りました。これは日米行政協定に伴う刑事特別法違反に該当する行為でありましたが、被告は、日米安保条約そのものが憲法第9条に違反するので、日米行政協定に伴う刑事特別法そのものが無効であるから無罪だと主張しました。
 昭和34年、東京地裁はこの主張を全面的に認めました。伊達判決と呼ばれています。しかし、国は、高裁には控訴せず、いきなり最高裁に上告しました。超スピードで裁判は進み、何とその年のうちに判決が出ます。判決の要旨は、「憲法の平和主義は無防備、無抵抗ではない。自衛権は国家固有の権利である。集団的自衛権は禁じられていない。憲法9条が禁止する戦力は日本国の軍隊であり、外国の軍隊は対象外である。米軍の駐留は憲法9条の平和主義に合致する。日米安全保障条約のように高度な政治性を持つ条約は、一見して極めて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について法的判断はできない」です。
 私の大学時代のもう1人の憲法の先生であった芦部信善先生は──この先生は、安倍総理がその名を知らないのかとやゆされた日本の憲法学の泰斗ですが──統治行為論を展開しました。統治行為とは、直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為であり、裁判所による法律的な判断が理論的には可能であるのに、事柄の性質上、司法審査の対象から除外される行為と定義されています。
 この判決は集団的自衛権を認めるものではないとの意見が国会でも出ていますが、判決理由に、「我が国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式または手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことはできることはもとよりであって、憲法9条は、我が国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではないのである」とあります。他国に安全保障を求めることは、すなわち集団で自衛するということでしょう。そうでなければ、日本はただの属国、保護国です。
 ちなみに、個別的自衛権については、我が国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、我が憲法の平和主義は、決して無防備、無抵抗を定めたものではないと判示されています。
 昭和35年3月31日、参議院予算委員会で林修三法制局長は、
  集団的自衛権という言葉についても、いろいろ内容について、これを含む範囲においてなお必ずしも説が一致しておらないように思います。御承知の通りに、国連憲章では、集団的自衛権を固有の権利として各独立国に認めておるわけです。あるいは平和条約におきましても、日ソ共同宣言におきましても、あるいは今度の安保条約におきましても、日本がいわゆる集団的自衛権を持つことをはっきり書いてあるわけです。そういう意味において国際法上にわが国が集団的、個別的の自衛権を持つことは明らかだと思います。ただ、日本憲法に照らしてみました場合に、いわゆる集団的自衛権という名のもとに理解されることはいろいろあるわけでございますが、その中で一番問題になりますのは、つまり他の外国、自分の国と歴史的あるいは民族的あるいは地理的に密接な関係のある他の外国が武力攻撃を受けた場合に、それを守るために、たとえば外国へまで行ってそれを防衛する、こういうことがいわゆる集団的自衛権の内容として特に強く理解されておる。この点は日本の憲法では、そういうふうに外国まで出て行って外国を守るということは、日本の憲法ではやはり認められていないのじゃないか、かように考えるわけでございます。そういう意味の集団的自衛権、これは日本の憲法上はないのではないか、さように考えるわけでございます。
 集団的自衛権をめぐる混乱は、実は定義の問題なのです。集団的自衛権は、まさに権利でありますから、それをどのように行使するかは適宜判断すればよいのです。米軍に基地を提供することはやるが外国には出ていかない、そういう判断があってもいい、しかし、集団的自衛権を一切持っていないというのは論理的ではないでしょう。
 その後、内閣法制局では、他国に基地提供することは国際法では集団的自衛権の行使になるが、日本国憲法の解釈では、在日米軍はもとからあるのだから集団的自衛権の行使には当たらないとの解釈がなされ、田中角栄内閣の吉國一郎内閣法制局長官は、集団的自衛権は保持するが行使できないとしました。
 ついには、平成26年、参議院憲法審査会で横畠裕介内閣法制局長は、「今日におきまして、自衛権とは、個別的であれ集団的であれ、実力の行使に係る概念であり、その意味で基地の提供は自衛権の行使に当たるものではないと整理されております」と答弁するに至ります。おいおい、日米同盟は軍事同盟ですよと突っ込みを入れたくなります。誰がそんな整理をしたと言うのでしょう。
 日米安全保障条約の前文には、こうあります。「両国が国際連合憲章に定める個別的または集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、両国が極東における国際の平和及び安全の維持に共通の関心を有することを考慮し、相互協力及び安全保障条約を締結することを決意し、よって、次のとおり協定する」。
 小話を1つ。「世界には鹿という動物がいるが、日本にもいますよね」、「いやいや、我が国はいません」、「そんなことはないでしょう。沖縄や厚木、横須賀、三沢にもいるじゃないですか」、「あれは我が国では馬と呼んでいます」、「どう見ても鹿ですが」、「鹿でも呼び方は馬なんですよ」、「何のためにそんなことをするんですか」、「いやあ、深い意味はないんですけどね、鹿の中には凶暴な種類もいると言う人もいるんで、うちにいるのはそんな鹿じゃないんですが、住民が馬と言っておけばとりあえず凶暴なやつではないと安心するんですよ。ですから、我が国には鹿はいません。あれは鹿の姿をした馬なんです」、「お久しぶりです。馬と読んでいる鹿は元気ですか」、「ややこしいので、今はもうカバと呼んでいます」。
 憲法第98条に、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」とあります。確立した国際法規では、基地提供は集団的自衛権の行使、解釈の余地はありません。
 砂川事件の裁判長であった田中耕太郎最高裁判事は、補足意見で「我々は、その解釈について争いが存する憲法9条2項を含めて、国際社会の現状並びに将来の動向を洞察して解釈しなければならない。字句に拘泥しないところの、すなわち立法者が当初持っていた心理的意思ではなく、その合理的意思に基づくところの目的論的解釈方法は、あらゆる法の解釈に共通な原理として一般に認められているところである。そして、このことは、特に憲法の解釈に関して強調されなければならない」と述べ、憲法解釈がどうあるべきかを示しています。
 さらに、自国の防衛を全然考慮しない態度はもちろん、これだけを考えて他の国々の防衛に熱意と関心を持たない態度も、憲法前文に、いわゆる自国のことのみに専念する国家的利己主義であって、真の平和主義に忠実なものとは言えないとしていますが、これぞまさに積極的平和主義そのものではないですか。
 同盟国の危機に知らぬ存ぜぬでは国家的利己主義であり、憲法の精神に反します。行政府の一機関である内閣法制局が憲法の解釈を独占していいはずがありません。憲法は国民から政府権力への命令なのですから、解釈は主権者たる国民がするべきです。安倍総理は、集団的自衛権の憲法解釈のあり方を争点に掲げ、解散総選挙に訴えるべきであったのでしょう。
 1000年に一度の災害に備えようとする我が国が、隣国の脅威に備えないのは何たることか。災害への備えは装備だけでは不十分で、組織の動かし方や関連する法律などのソフトの整備が不可欠であるのは言うまでもありません。自衛力も全く同じ。イージス艦やF15をそろえただけで国を守れるわけではありません。
 この際、知事の憲法観をお聞かせいただきたいと思います。
○議長(前芝雅嗣君) ただいまの尾﨑太郎君の質問に対する答弁を求めます。
 知事仁坂吉伸君。
  〔仁坂吉伸君、登壇〕
○知事(仁坂吉伸君) 憲法は、国民の権利や自由を保障するために、国家がやってはいけないこと、あるいはしなければならないことを定めたものでありまして、自由を制限することが多い他の法律とは一線を画する我が国の最高法規であります。
 国家というものは非常な大きな権力を持っておりますから、憲法は国家を律し、原則として個人の権利や自由を不可侵のものとして保障したものであると理解しております。我が国は、こうした立憲主義に基づく民主主義国家であります。
 さきの大戦を経験した我が国は、不幸な歴史への痛切な反省と恒久平和を希求する強い決意から、現在の憲法下で国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3原則を堅持しているわけでございます。この平和主義をうたった憲法のもと、我が国は、これまで他国と武力衝突を起こすことなく、国民はみんな懸命に働き、国際社会にも積極的に協力し、その結果、平和国家としての現在の高い評価と信頼をかち得るに至ったものと認識しております。
 ただし、その中で日米安全保障条約を含めた外交的立ち位置も、平和国家を維持していく上で、紛争の抑止力とその目的の達成のために大いに効果があると思っております。
 司法の判断、特に最高裁判所の判断は、我が国の法治国家としてのあり方から当該案件については絶対的な効力を有するものでございますので、皆が従わないといけません。法制局の見解、学者の見解はそういうことはありませんけれども、十分に傾聴しないといけないと思います。
 しかし、大事なことは、日本人の幸せのために平和を守る、人権を守る、安全を守るということでございますので、未来永劫にある時点の見解が絶対的であるということではないと思います。時代とともに判例も変わることもあるし、法制局の見解もしかりでありましょう。あるいは、憲法や法律も正文化されたものも、正当な手続のもとで変え得るものであろうかと思います。
 国の安全保障に関することに関しましては、私は確たる見識を有しているわけではございませんが、極めて大事な事柄でありますので、常に国の将来を考えておくという観点から議論をしておくことは大切であります。議論もしてはいけないというようなことを言う人もいますが、それは間違いではないかと思っております。私も含め、国民一人一人がみずからの問題として真剣に考えなければならないと考えております。
○議長(前芝雅嗣君) 尾﨑太郎君。
  〔尾﨑太郎君、登壇〕
○尾﨑太郎君 まさに、憲法というのは国民が政府権力を縛るための法律で、我々国民が主体的に憲法を考えるということはすごく大事なことではないかと思うんです。
 今、安保法制のことで国会で審議されておりますけれども、我々も、ただテレビを見て、ああ、あんなこと言うてるな、こんなこと言うてるなと言うだけではなくて、この機会に憲法というものについて一度立ちどまって考えてみるということは、すごく大事なことなんではないかと思っております。
 安保法制についてはそんなに詳しく見識をお持ちではないと知事はおっしゃいましたが、そうでもなくて、よく勉強なさってると思うんです。知事も含めて、我々も一緒に勉強していきたいと思いますので、よろしくお願いをいたします。
 さて、選挙がありますと、どうしても読書の時間が確保できません。読みたいと思っていた本がたまっていたのですが、ようやくそのうちの1冊を読むことができました。トマ・ピケティの「21世紀の資本」です。昨年から大きな話題となった本ですので、お読みになった方も多いのではないかと思います。700ページに及ぶ大著ですが、この手の本としては異例の売れ行きだそうです。
 「ワーキングプア」という言葉が生まれ、小林多喜二の「蟹工船」がまた読まれ出し、1億総中流と言われた我が国も、国民の間には忍び寄る貧困、格差が大きな関心事となってきました。
 格差の拡大は資本主義の宿命か否か。ピケティの主張は、資本収益率rは常にGDP成長率gを上回るので、格差は拡大し続ける、訂正するには累進性の強い税率が効果的だとするものです。
 ピケティは、これを数学的なモデルで証明しようとはしていません。膨大なデータで実証しようとしているのです。ピケティは言います。「経済学という学問分野は、まだ数学だの、純粋理論的でしばしばきわめてイデオロギー偏向を伴った臆測だのに対するガキっぽい情熱を克服できておらず、そのために歴史研究や他の社会科学との共同作業が犠牲になっている」。これは「21世紀の資本」の初めにある一文ですが、これを読んで、私はこの分厚い本を最後まで読む決心をしました。
 私は、以前から経済学、特に新古典派と呼ばれる人たちの唱える学説に多少違和感を持っておりました。しかし、この学説は近年の経済学の主流であり、世界中の政策立案者の考え方の基礎をなしているのは間違いありません。
 彼らによれば、人間の経済活動は合理的であり、合理的活動の結果として立ちあらわれる市場のパフォーマンスは数学によって記述できる。理論経済学者である彼らによって、経済学は自然科学の装いをまとうことになったのです。あたかも、かつてマルクス経済学が真理だとみなされたのとそっくりではないでしょうか。どちらも類いまれなる知性には違いありませんが、神の見えざる手を数学的に解き明かしたのでも、歴史の運動法則を発見したのでもないのです。
 ハイエクは、「人は、ささやかな身の回りの局所的な関心や知識しかない不完全な存在であるが、その寄せ集めが結果として1つの大きな秩序を生み出す。それは、自生的秩序──スポンテニアスオーダー──である。市場は、限られた知識しかない人々が集まって、よりよい状態を発見していくプロセスである。そこには計画性は一切ない。これは、人間の理性や合理的計算によって生み出されたものではない」と言い、学生時代に明治大学の教授で後に衆議院議員になられた栗本慎一郎先生の影響で知ることになった経済人類学者のカール・ポランニーは、「人類の長い歴史から見れば、あるいは世界の多様な経済構造の中で見れば、市場経済など、いわば歴史的産物であり、近代に入って意図的につくり出された1つの経済様式にすぎない」と述べています。
 数学ができないことのひがみも多分にありますが、私が保守を標榜しているのは、社会は決して理性だけでは捉え切れないものであり、底の浅い合理主義で政策を立案することは、かえって社会を壊すとの信念からです。社会は、それぞれの生理を持つ1つの有機体であり、その振る舞いは個性的なものであると思います。我々は、歴史の英知の中に、瑞穂の国の資本主義を手探りで見つけていかなければならないと思っています。
 経済学者であり思想家でもある佐伯啓思先生の言葉をかりるならば、独自の文化を形成する企業をただ金融市場で証券として評価したり利潤の対象にしたりする投機的資本こそが生産体としての企業の一大敵対者なのです。
 もちろん、私は、市場による競争を否定しているのではありません。それどころか、激しい競争こそがよりよい生産物、よりよいサービスを生み出す原動力だと確信しています。例えば、我が国のコンビニのコーヒーのおいしさはどうでしょう。もしコンビニ業界やどこか1社で寡占されていたら、決して到達できなかった水準でしょう。各社の切磋琢磨があってこそなのです。
 私は、競争になじまないものもあるだろうと言いたいのです。社会的土台、例えば教育、医療、環境等は、過度な市場競争にさらすべきではないと考えるのです。
 「21世紀の資本」を読むまで知らなかったのですが、サイモン・クズネッツという経済学者は、資本主義の初期段階では所得格差は拡大するが、経済成長によって所得格差は縮小していくとする理論を打ち立て、ノーベル経済学賞を受賞しています。現実がこの理論どおりであるならば、まことに結構なことで、資本主義の未来はバラ色であったのですが、世界はそうなっていなかったし、今後もそうなりそうもない、それがピケティの主張です。
 しかし、資本収益率rがGDP成長率gより高いのは、ピケティの言うがごとく論理的必然ではなく歴史的必然だとしても、であれば、格差は拡大すると常に言えるのかどうか。ピケティの資本主義の第1法則――資本分配率αは資本収益率rと資本/所得比βの積――は、法則というより定義です。資本/所得比βが上がるということは、資本が労働投入以上にふえるわけですから、資本の生産性は下がります。すなわち、資本収益率rは下がります。労働と資本と大体の弾力性について、ピケティは1.3から1.6としていますが、この値が常に1を上回ると言えるのかどうか、読解力の不足もあり、私にはわかりませんでした。
 ともあれ、フランス人のグランゼコール出で、わずか22歳で博士号をとった超エリート、0.1%の富裕層へも楽々入れるであろうピケティの世の中を公正・公平なものにしていきたいとの真摯な思いは、全編を通じて感じることができます。また、この本は19世紀の仏英文学の解説も効果的になされており、バルザックを読んでみようという気にもさせてくれます。
 実をいえば、経済学者なんて、どんなことについてもほとんど何も知らないというのが真実なのだと語るこの本は、経済学の新たな可能性を探るものでしょう。未読の方には、ぜひ御一読をお勧めしたいと思います。
 さて、我が国の現時点における格差はどうなのか。世界各国と比べるならば、まだまだ低い格差にとどまっています。日本のトップ10%の保有資産シェアは48.5%で、アメリカやスイスなどの70%台とは随分差があります。意外なことに、福祉国家で有名な北欧3国も、そろって60%台後半です。資産格差については、今のところ優等生であるようです。
 では、所得格差はどうか。残念ながら、我が国の相対的貧困率、これは簡単に言うと真ん中の所得の半分に満たない低所得の人の比率ですが、平成24年で16.1%、既に現在ではアメリカに次いで2番目の高水準にあるそうです。ちょっとびっくりするような数字です。
 そこで、知事にお尋ねします。
 知事は、格差というものをどのように捉えているのか、また、本県における格差の現状はどうか、県の施策に知事の考えはどのように反映しているのか、あわせて答弁願います。
○議長(前芝雅嗣君) 知事。
  〔仁坂吉伸君、登壇〕
○知事(仁坂吉伸君) 格差問題についての3つの質問に、一括してお答えしたいと思います。
 まず、私は、頑張れば報われるような社会の実現を目指すのがよいと思います。その中で、格差を生じさせないことが大目標で、生じるくらいなら経済社会を発展させてはいけないとか、あるいは経済政策の目標をいきなり格差是正に持っていくというのは、経済の活力を失わせることになるのではないかと私は考えております。
 経済が活況を呈してまいりますと、企業などの業績が上がります。資産価値も上がりますが、その結果、需要が増加して、生産も増加するインセンティブがふえてまいります。生産が増加いたしますと人手不足になりまして、雇用需要がふえます。それをつなぎとめるために、従業員をつなぎとめるためとか新しい従業員を雇うために労賃が上がって、格差も縮まる可能性があります。もっと正確には、貧困が縮小するという可能性があります。
 プロセスのいかんによっては、ただし、そこまでいかないこともあります。したがって、あるプロセスにおいて格差が生じ、貧困層が拡大するなどの問題が発生した場合、貧困に伴うさまざまな弊害を是正するため、例えばもうけた方から還元していただくような社会全体の仕組みが、私は依然として必要だと考えております。
 例えば、昨今、経済的なインセンティブを高めるために累進課税を、極端なことを言えばなくしてしまえと、あるいは是正をかなりすべきだというような議論もございますけれども、私は、ある程度は残しながら、もうけた方から税として徴収し、低所得で困っているような方々を政策的に支援していくことは必要だと考えております。
 県内での格差につきましては、それを明確にあらわす統計はありませんけれども、各種の統計等を調査した範囲では、所得の低い層が若干ふえているような気がします。経済成長がずうっと和歌山はあんまりはかばかしくなかったからだと思いますが、そういう意味では格差がより生じていると言ってもよろしいと思います。
 和歌山県では、県民皆が幸せを増進させることができるように経済発展に資する政策をとっておりますけれども、その中で貧困が緩和されるような工夫と、それに伴う弊害の手当ては十分行っていく所存でございます。
○議長(前芝雅嗣君) 尾﨑太郎君。
  〔尾﨑太郎君、登壇〕
○尾﨑太郎君 感覚的には、だんだんだんだんちょっと格差が広がってきたんじゃないかと思って、国民の間にも不安感が広がっておると思うんです。トリクルダウンとよく言われまして、ぽたぽたぽたと滴が、もうかったら落ちてくるんじゃないかというような経済理論があります。大方どうなんでしょう、今のところ、和歌山県民の中には、アベノミクスの果実がぽたぽたっと落ちてきたというような印象は、正直まだないんではないかと思います。
 和歌山に住んでおりますと、いろんなところで食事したり物を買ったりするわけですけど、そのたびに「どうですか」とお聞きしましたら、「いやいや、全然そんなん、全く何にもよなってないよ」ということをよく言われますね。
 これは、まだ時間がそこまで来てないのか、もうちょっと時間がたってアベノミクスが浸透すれば果実が我々にもめぐってくるのか、それとも根本的にこの政策は誤っているのかどうか。これは、先ほど私も述べた中にもありますけれども、もともと経済学というのは自然科学ではありませんから、ある種のイデオロギー的な側面もないわけではありません。
 ですから、これ、どうなるのかというのは、ある意味で大きな実験みたいなところもあるわけですね。長いことデフレでやってきて余りようならなかったんで、今回このような政策なんですけど、果たしてこれが正しいのかどうか。これはこれからもうちょっと待ってみなければわからないわけでありますけれども、しかし、少なくともマインドというのはちょっと好転してきてるというような統計的な指標もありますから、ぜひこの日本の経済が再び力強さを取り戻して格差が縮小し、国民みんなが少しでも幸せになれるように願っておるところでございます。
 次の質問にまいります。
 いわゆる従軍慰安婦の虚構性については、これまで何度も本会議場で論じてきたところでございます。
 軍が、慰み者にするために、朝鮮半島から年端もいかない少女も含め、8万人とも20万人とも言われる女性を強制連行したなどという話が荒唐無稽であることは、もとより明らかでありましたが、御承知のように、昨年の8月5日、「朝日新聞」が「慰安婦問題を考える」と題し、これまでのみずからの報道に対する検証記事を掲載しました。
 あの大朝日がまさか記事を取り消すとは思っていませんでしたので、まさに感無量であります。何せ最初の報道から32年たっているわけですから。「朝日新聞」のOBの方々でさえ、遅きに失したと述べておられます。
 確かに、米国下院がこの問題で日本は謝罪すべしとする決議を採択し、慰安婦の碑があちこちに建てられ、慰安婦は性奴隷との認識が世界中に広まってしまった今となっては、遅きに失したと言いたくはなります。
 しかし、検証の内容にも不満はたくさんあるにせよ、ともかくも検証記事が出て一連の報道が取り消されたことは、慰安婦問題解決に大きな前進となったことは間違いなく、その意味ではまことに喜ばしいことではあります。
 「朝日新聞」が、済州島で200人の女性を狩り出したなどと、吉田清治氏がみずからの体験を証言したとの記事を掲載したのが1982年でありました。検証記事では、「吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏づける話は得られませんでした」と書いています。
 また、1991年には、「日中戦争や太平洋戦争で、女子挺身隊の名で戦場に送られた朝鮮人慰安婦の実態」なる記事を掲載していますが、これについては、「当時は慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同が見られたことから、誤用しました」としています。
 「朝日新聞」の記者もしていた本多勝一氏と山本七平氏が、百人斬り論争を繰り広げたことがあります。
 山本氏の「私の中の日本軍」によりますと、野田少尉は大隊副官であり、向井少尉は歩兵砲の小隊長であった、2人は指揮系統も職務も全く違う、日本軍は厳格な縦社会で、直属の上官の命令以外、絶対に聞いてはならない、実戦の最中に向井少尉が砲側を離れ、小隊長の職務を投げ出して野田少尉と私的な百人斬り競争をすることなどあり得ないのだそうです。
 山本氏の主張には、実体験に基づく説得力があります。軍が組織的に慰安婦とするため数万人規模で女性を強制連行するなど、軍関係者には想像すらできないことでしょう。現に、そんなことを証言した元軍人は1人もいないではないですか。当時、帝国陸軍は世界最大級の組織なのです。口を封じるには、あるいは贖罪意識からみんな口を閉ざしていたというには人数が多過ぎます。大体、吉田清治氏自身、元日本軍人と語っていましたが、軍人ではありませんでした。たくさんいた軍関係者に話を聞く、たったそれだけのことで吉田証言の真贋に当たりがついたはずなのです。
 渡部昇一先生は、御自身も中学3年生のときに学徒勤労動員を経験されたそうですが、男子の場合、これを動員といい、女子の場合はこれを挺身隊と呼んだのだそうです。サムライジャパンとなでしこジャパンみたいなものです。渡部先生の世代は、御自分が経験しているので、挺身隊と慰安婦を同一視することなどあり得ないのだそうです。
 ですから、こんなよた話は、大朝日が取り上げなければ決して世界中に広がることはなかったと思うのです。韓国の盧泰愚大統領にしてから、1993年の「文藝春秋」3月号で、「日本の言論機関の方が問題を提起し、我が国の国民の反日感情をたきつけて国民を憤激させてしまいました」と語っています。
 日本のクオリティーペーパーといえば、やはり朝日なのです。これは皮肉で言っているのではありません。政府権力を果敢に批判するマスコミでなければ、民主主義は危機にも瀕します。
 私の実体験からも、朝日には良心的で優秀な記者がいることは確かです。現代日本社会には、軍は遠い遠い存在になってしまいました。軍を経験した方も年々少なくなってきています。歴史学者の方々には、でき得る限り当時を知る人の生の声を拾っていただきたい。帝国陸海軍とはどのような存在であったのかを深く知ることは、とても大切なことだと思うのです。
 記事は取り消されました。しかし、世界中へ拡散されてしまった誤解を解き、我々が我が国の名誉を取り戻すことは、まだまだ遠い道のりではあります。しかし、諦めるわけにはいきません。
 日下公人先生は、朝日が記事を取り消すはるか前、東京工業大学で行われた慰安婦問題のシンポジウムで孤軍奮闘し、「日下さんが言うようなのだったら、あの慰安婦たちはうそをしゃべっていることになります」と詰め寄られましたが、「そうです。彼女たちはうそを言ったんです」と平然と返しました。また、「彼女たちの心の傷についてわびなければいけない。女の尊厳の問題だ」との発言に、「違います。男の名誉の問題です」と答えています。しびれるではありませんか。男子とはこうありたいものです。
 ともあれ、全ての中学校の歴史教科書からは既に慰安婦の記述は消えていますが、高校の教科書はさにあらず。朝日の検証記事の後、教科書出版会社の中には自主的に記述の変更を文科省に申し出たところもあるようですが、高校教科書の検定はまだ2年先です。現時点では、幾つかの教科書で「従軍慰安婦」が用語として使われております。これでは、高校生は慰安婦問題の本質を誤解しかねないではないですか。軍による強制連行はなかった、女子挺身隊は慰安婦ではない、この2点がはっきりしているのなら、もはや教科書で慰安婦を語ることにどれほどの教育的価値があると言うのでしょうか。いわゆる広義の強制性については、「朝日新聞」の第三者委員会においても、吉田証言の危うさが明らかとなって、河野談話をてことして論点をすりかえたと指摘されてもやむを得ないとされています。
 かつては、本県にも、俗に赤線と呼ばれる地域がありました。先輩方から、そこで遊んだという話も聞いたことがあります。誰から聞いたかはもちろん言えませんが、慰安婦問題とはその程度の問題であったのです。そして、そんなことは、軍人であった方々には余りにも当然のことでありました。
 平成25年9月議会における私の質問に、当時の西下教育長は、「いわゆる従軍慰安婦問題につきましては、1993年に当時の河野官房長官が出した談話が政府の公式見解となっております。ただ、この問題につきましては、今後とも国内外でさまざまな議論がなされていくと思いますので、その状況を真摯にしっかりと見守ってまいりたいと考えております」と答弁しております。
 朝日の検証記事を受け、高校におけるこの問題の取り扱いはどうあるべきなのか、教育長の見解を問います。
○議長(前芝雅嗣君) 教育長宮下和己君。
  〔宮下和己君、登壇〕
○教育長(宮下和己君) 県立高等学校で使用されている日本史と現代社会、政治経済の教科書は合わせて30種類あり、そのうち9種類には、いわゆる従軍慰安婦について記述しているものがございます。
 地理歴史、公民の学習指導要領では、「客観的かつ公正な資料に基づいて、事実の正確な理解に導くようにするとともに、多面的・多角的に考察し公正に判断する能力を育成する」ことや「社会的事象に対する客観的かつ公正なものの見方や考え方を育成するとともに、学び方の習得を図る」ことなどを重視することとしてございます。
 県教育委員会では、こうした学習が適切に行われるよう、学校訪問や教育課程に係る研修会等、機会あるごとに各学校や教科の担当教員を指導しているところでございます。
 議員御指摘のとおり、いわゆる従軍慰安婦は、過去の新聞記事等において新たな事実が確認されてございます。今後、「従軍慰安婦」という用語は、この事実をもとに教科書の改訂や検定基準の変更等も考えられることから、慎重に取り扱わなければならないと認識してございます。
 本県といたしましては、学習指導要領にのっとり、子供たちが主体的に適切な情報を収集し、正しい判断と行動ができる社会人となるための資質を、さまざまな教育活動を通じて身につけさせてまいります。
○議長(前芝雅嗣君) 尾﨑太郎君。
  〔尾﨑太郎君、登壇〕
○尾﨑太郎君 わかったような、わからんかったようなちょっと答弁ですけれども、学習指導要領にのっとって客観的に判断をしていくと。客観的に判断をしていくその判断の中に、一遍、河野談話というものが妥当であったのかどうか、これ、格好の教育の材料になるのではないかと思うんですね。
 単に、政府の偉いさんが言うたから、それはそのまま真実だと思い込むようでは、これぞ正しい判断をみずから主体的にしていくということから大きく外れたことではないのかなと思うんですね。
 ぼちぼち、マスコミとかそういうところで報道される中にも、「いわゆる従軍慰安婦」という言葉の表現から「慰安婦問題」というふうに既に変わってきております。学校現場でも適切に配慮されて、この問題に取り組んでいただけますよう御要望申し上げまして、質問を終わります。
 ありがとうございました。(拍手)
○議長(前芝雅嗣君) 以上で、尾﨑太郎君の質問が終了いたしました。

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