平成21年9月 和歌山県議会定例会会議録 第4号(須川倍行議員の質疑及び一般質問)


県議会の活動

  午後1時1分再開
○副議長(坂本 登君) 休憩前に引き続き、会議を開きます。
 質疑及び一般質問を続行いたします。
 12番須川倍行君。
  〔須川倍行君、登壇〕(拍手)
○須川倍行君 先進地事例の御報告を申し上げるときには、写真を資料として添えたほうがより一層質問の内容がわかりやすいんじゃないかということに気づきましたもんで、今回もたくさん写真の資料を添えさしてもらってます。どうか御参照いただければ幸いです。
 それでは、質問に入ります。
 十和田の奥入瀬渓谷、紅葉の季節はとってもきれいで観光客も非常に多いところなんですけど、行ったことのない方はぜひ一度行っていただければなあと思いますんで。
 まず、皆様に、新宮市の初代名誉市民である佐藤春夫先生について紹介させていただきます。敬称は略させていただきます。
 佐藤春夫は、明治25年、和歌山県東牟婁郡新宮町に生まれました。医師である父・豊太郎が文芸にも造詣が深く、また当時木材業で栄えた新宮には、大石誠之助、西村伊作、沖野岩三郎ら先進的な文化人が活発に活動しており、そうした環境の中で春夫は文学少年として成長していったと言われます。
 明治43年、中学卒業と同時に上京、慶應義塾大学予科文学部に入りますが、後に中退。雑誌「三田文学」、「スバル」などに詩歌を発表、また、「西班牙犬の家」を発表してその才能が注目されつつありましたが、大正7年、谷崎潤一郎の推挙により文壇に登場。以来、「田園の憂鬱」、「お絹とその兄弟」、「美しき町」などの作品を次々に発表して、たちまち新進流行作家となり、芥川龍之介と並んで時代を担う2大作家と目されるようになりました。
 その著作は多様多彩で、詩歌、小説、紀行文、戯曲、評伝、自伝、研究、随筆、評論、童話、民話取材のもの、外国児童文学翻訳など、あらゆるジャンルにわたっています。また、詩人、作家として文化勲章を受章するなど、ふるさとを愛した望郷詩人であります。もちろん、新宮市歌も春夫が作詞したものです。
 昭和39年5月6日、自宅でラジオ録音中、心筋梗塞のため72歳で死去しました。
 新宮市では、佐藤春夫が市民の敬愛する人として、長年の功労を顕彰する強い思いがかない、東京の邸宅を新宮市に移築し、平成元年11月に記念館として開館しています。この建物は、昭和2年、東京都文京区関口町に建てられ、昭和39年、春夫が72歳で亡くなるまでを過ごした家で、設計は大石七分、同じく新宮出身で、東京にある文化学院を創設した教育者であり、建築家でもある西村伊作の弟であります。
 さて、本題に入ります。
 本年5月14日、新宮市議会議員7名一行が青森県十和田市を視察いたしました。視察の目的は、十和田八幡平国立公園の奥入瀬渓流の魅力を詩歌「奥入瀬渓谷の賦」で賛美した詩人・佐藤春夫の詩碑があるということをデーリー東北新聞社の報道で知ったのがきっかけでした。
 当日、詩碑に詳しい湖畔休屋の土産物店経営の鈴木博さんの案内で視察されたそうです。詩碑は銚子大滝付近の遊歩道から外れたところにあり、天然石に詩文が刻まれています。
 昭和28年、国立公園指定15周年記念事業として十和田湖湖畔休屋の「乙女の像」と同じ日に除幕式が行われたようです。しかし、十和田湖のシンボルである「乙女の像」と除幕されながら訪れる人もなく、奥入瀬渓流の銚子大滝付近に埋もれていた詩碑もこの鈴木さんが54年ぶりに確認、発見されたもので、詩が掘られた天然岩の周囲は草木が生い茂り、容易に人が近づけないありさまで、鈴木さんは、せっかくの貴重な詩碑を多くの観光客にも見てもらいたいと整備を訴え続けていると言われています。
 詩碑は、銚子大滝下流約100メートルの遊歩道から約20メートル離れた天然の岩にあり、佐藤春夫の直筆の詩が彫られています。その大きな岸壁は、佐藤春夫みずからが探し当てたものだそうです。「おちたぎり 急ぎ流るる なかなかに 見つつ悲しき 行きゆきて 野川と濁る 汝が末を 我し知れれば」と刻まれています。
 新宮市議会一行も何とかしなければとの思いを強くしたようでありますし、整備しようとする場所は距離的にも短いので何とかならないかという悔しい思いをして帰ってきたそうであります。また、春夫がこの地を訪れた経緯やそのときの心境、また地域の人の春夫の詩碑に対する熱い思いに触れ、「十和田では春夫に対して手厚くしていただいている印象を受けた。今回の訪問を第1に、行く行くお互いの都市の交流が盛んになれば」と期待しつつ、市長に視察内容を報告したそうであります。
 その後、7月11日、佐藤新宮市長も初めて十和田市を訪問し、渓流の銚子大滝付近の天然石に刻まれた「奥入瀬渓谷の賦」の詩碑を視察し、翌日、小山田久十和田市長と懇談し、お互いが今後とも文化的な交流を活発にするという前向きな姿勢が確認されています。
 ここで、十和田での春夫のエピソードを少し紹介します。
 佐藤春夫といえば、当時は大変に有名な詩人で、三本木高校の校歌の作詞をお願いすることになり、校長が2度にわたって上京し、お願いしてもだめだったそうで、とうとう3回目には当時の生徒会長まで一緒に陳情に行き、こうした関係者の熱意がついに大詩人の心を動かし、佐藤春夫の承諾をようやく得る運びとなったのだそうです。こうして三本木高校の新校歌は昭和26年2月に完成。ぎりぎり3月に校歌制定に奔走した生徒たちを新校歌で見送ることができたと言われています。
 さて、昭和26年の5月の末、佐藤春夫が新校歌発表会の席に、右足が不自由であったにもかかわらず、御夫婦でわざわざ三本木高校を訪れたそうです。実はこの三本木高校と佐藤春夫の出会いによって、青森県にとって重要な記念像、そして新たな音楽作品が後に十和田の地に生み落とされることになるのです。
 三本木高校の校長の案内で、十和田湖の大自然に佐藤春夫は触れることになりました。遊覧船で子ノ口から休屋まで行き、校長らが十和田湖についてあれこれ説明したところ、佐藤春夫は少し不機嫌な表情となり、「黙っていてくれませんか。自然の英知をかみしめていたいのです」と厳しく一喝されたそうです。このとき十和田湖の湖面をじっと見詰めていたそうです。そして、最後に遊覧船をおりるとき、「これだけの自然が残っているとは」と一言ぽつりと語ったと言います。こうして大変な感銘をこのとき十和田の大自然から受けたと、佐藤は後に語ることになるのです。
 帰途、佐藤春夫は太宰治とも親交があったため、太宰氏の兄であった津島文治青森県知事に会い、打ち解けた関係をつくったと言います。
 昭和28年、十和田国立公園指定15周年を記念して、十和田湖を世に紹介した3人の功労者を顕彰する記念モニュメントを制作する話が進められていたようです。この顕彰記念碑制作の依頼をするため、当時副知事であった横山武夫氏がある芸術家とコンタクトをとっていました。その人の名は高村光太郎。当時高村氏は妻の智恵子を亡くし、一切の芸術活動から遠ざかり、岩手県の山中、太田村に引きこもっていたそうです。その高村氏に横山副知事が幾度も依頼しますが、承諾を得ることができなかったそうです。
 こうした状況に強力な味方があらわれるのです。それが佐藤春夫でした。佐藤春夫は、高村氏と親交が厚く、高村氏の説得役を引き受けてくれたわけであります。不自由な体をいとうことなく、佐藤春夫は昭和27年の7月、わざわざこのためだけに太田村近くの志戸平温泉に行き、高村氏と会うこととなり、春夫の説得を聞き入れ、高村氏は「十和田湖の自然が自分の創作意欲をかき立ててくれたならやりましょう」と、ついに重い腰を上げることになったそうです。
 昭和27年、高村光太郎氏は詩人の草野心平氏らとともに十和田湖を訪れ、十和田湖の大自然にたちまち心を奪われたようです。そのときの感動を彼は「十和田湖は永遠に汚れを知らない乙女の姿である」と語ったと言われています。そして、ついに「乙女の像」の制作に取り組むこととなったのでした。
 余り知られていませんが、十和田湖の象徴である「乙女の像」制作の背後に佐藤春夫の尽力があり、彼の高村氏への働きかけがなかったら恐らく「乙女の像」は生まれなかっただろうと言われています。
 さて、「乙女の像」の完成に佐藤氏もお祝いとして詩を青森県に寄託することとなりました。それが「湖畔の乙女」です。「乙女の像」が2人対峙しているのは、十和田湖で高村氏が船に乗ったときに湖水に映った自分の姿からの発想だと言われています。「乙女の像」の肉体的モデルは、当時25歳前後のプロのモデルの藤井照子さんですが、顔は亡き妻・智恵子さんの面影をとどめているそうです。
 ところで、佐藤春夫の「湖畔の乙女」ですが、春夫と関係の深い三本木高校の生徒たちに歌ってもらいたいという希望が出て、ついに完成した曲は、昭和28年の10月21日、「乙女の像」除幕式で歌われることになり、三本木高校30名ほどの女子音楽部の皆様による「湖畔の乙女」の歌で「乙女の像」が除幕されたそうです。その歌を来賓席で佐藤春夫、そして高村光太郎氏が、さらには、はかま姿の詩人・草野心平氏が聞き入っていたそうです。
 この3年後、「乙女の像」に精魂を傾けた高村氏は世を去りました。高村氏にとってこれは最後の大きな仕事で、その遺作となった像が十和田湖畔に「湖畔の乙女」の歌とともに誕生。それ以来、この「乙女の像」は十和田湖の象徴となってきたと言えます。
 このように春夫が十和田のために尽力した経緯から、十和田湖畔の観光業者の一部からは、春夫の詩碑であればそれなりの観光資源となるはずなのに、なぜ忘れ去られたのかと。詩碑がこけや草木に覆われている状況を見て、詩碑の周辺整備を求める声が上がっています。しかし、岩には無許可で詩が掘られた可能性が高いということで、青森県は整備に慎重な構えを示しているとも言われています。
 また、周辺整備が原因かどうかわかりませんが、2003年8月に遊歩道沿いの女性観光客が昼食中にブナの枝が落下し、女性が下半身不随の重傷を負い、国と県を相手取り損害賠償の訴訟を起こし、裁判中とも聞いております。これも慎重な構えになっている原因の1つかもしれませんが、管理面について世界遺産の私たちの県でも起こり得る話だなと思いました。
 先ほどから述べたように、十和田八幡平国立公園の奥入瀬渓流を詩碑で賛美した文人・佐藤春夫の縁で、十和田市と春夫の生誕地、和歌山県新宮市が文化交流を進める動きも出ています。また、観光関係者を中心に春夫の詩碑の存在をPRしようという動きが持ち上がってきており、先ほどの理由も手伝って、佐藤春陽新宮市長は、7月12日、十和田市で小山田久市長と懇談し、ともに今後の交流に前向きな姿勢を見せています。十和田市では、世界文化遺産熊野古道の玄関口として知られる新宮市との交流は、日本有数の自然観光地である十和田湖と奥入瀬渓流を抱える十和田市にとっても有意義であると言われています。
 そこで、県当局にお尋ねしたいと思います。「奥入瀬渓流の賦」の歌碑は、詩人の春夫がこの渓谷のすばらしさ、自然のすばらしさを詩に歌い、いつまでもその姿であってほしいとの願いが込められているものと思うのです。郷土が生んだ偉人である佐藤春夫が取り持つ縁を契機として、青森県との文化交流や地域間交流のための情報交換を進めていくことや、新宮市と十和田市との間で進められているような文化交流が一層深まるよう、県においても支援はできないものか、仁坂知事のお考えをお聞かせください。
 次の質問に入ります。
 高野・熊野が世界遺産登録されてから本年で5年が経過いたしました。県から出された平成20年和歌山県観光客動態調査報告書を見てみますと、宿泊客、日帰り客とも県全体として過去最高を記録した平成19年に少し及ばなかったものの、高野山や本宮などの世界遺産登録地域では、宿泊客、日帰り客ともに引き続き好調ということで、これは和歌山県の歴史、文化、そして豊かな自然の魅力が全国に浸透しつつあるというあかしであり、都市と山村の交流という視点からもまことにすばらしい成果であると考えているところです。
 しかしながら、一方でこのような観光客が好調な地域もあれば、そうでない地域もあります。世界遺産登録に係る市町村別の入り込み客の推移を見ますと、特に旧熊野川町については世界遺産に登録される前年の平成15年と平成20年を比べますと77%まで減少しています。これは世界遺産登録市町村の中で最も高い減少率となっています。これについてはさまざまな理由が考えられるところですが、やはり地域の魅力を発信する拠点となる施設が少ないことが原因ではないかと私は考えております。
 御存じのとおり、熊野川町には、その名が示すとおり、太古の昔より神々しい美しさをたたえる熊野川が流れております。この清流を活用し、平成17年から熊野川町田長の道の駅下の河原から速玉大社裏の河原まで川舟下りが行われております。私も、これまで議会において幾度となくこの川舟下りの充実に向けたさまざまなお話をしてまいりました。おかげをもちまして、これまで2万人近くの方々が利用していただいており、大変ありがたく思っているところです。
 この川舟からは、満々とした水をたたえた熊野川を眼前にしながら、少し距離を置いてゆっくりとした時間の中で緑あふれる樹木が茂る山々を堪能することができます。いわば川舟は熊野川町の持つ川の自然という魅力を満喫できる施設と言えます。また一方、熊野川町の山に一歩足を踏み入れますと、肥沃な森林土壌と全国屈指の降雨量によって育てられた雄々しい樹木が生い茂っています。場所によっては巨木群が林立し、いにしえの神々をほうふつさせるような人を寄せつけない荒々しい自然を感じさせる森もあります。このいわば山の自然という魅力も熊野川町にはあると思います。
 しかしながら、私は、この山の自然を訪れた人に十分に味わっていただくための施設がないと感じておりました。私は、学童や中高年齢層の方々を険しい森林内に安全に案内する施設として乗用モノレールが適していると考えております。
 実は、森林内に設置する乗用モノレールにつきましては、徳島県に優良な先進事例がありまして、去る7月22日に新宮市議会の産業振興対策特別委員会の方々とともに調査に行ってまいりましたので、ここで御紹介、御報告をさせていただきたいと思います。
 概要から申しますと、当施設は名称を「奥祖谷観光周遊モノレール」と言いまして、徳島県の三好市において市が事業主体となり、平成18年度に事業費約2億9000万円をかけて整備を行った4600メートルの森林を周遊するモノレールです。4600メートルの長さは全国一と聞いております。
 このモノレールは、遠く剣山を望む山ろくにおいて標高790メートルから1380メートルの約600メートルの標高差を周遊する形で設置されています。周遊の所要時間は1時間6分となっており、2名乗りの台車が全部で15台ありました。モノレールの利用者数は、平成19年度、20年度ともそれぞれ約1万2000人であり、売り上げは年間約1600万円、雇用は4人で、年間の人件費、維持管理、電気代等計約1000万円の必要経費となっていますので、黒字経営ということであります。
 シーズン中は利用客が非常に多く、待ち時間が長いことから地元の新聞に苦情の記事が載ったこともあると、三好市役所の方から聞きました。私も乗ってみたんですが、この地域は昔から余り人が入っていない森林で、いわゆる手つかずの自然が残されており、本物の自然という感じがして見ごたえがありました。先ほども申し上げましたが、標高差が約600メートルもあり、山の下のほうと上のほうでは植生が違っておりまして、ゆっくりと移動するので植生の移り変わりがよくわかりました。
 また、周遊する森林のほとんどが広葉樹などの豊かな自然林であったこと、さらに山頂付近では湧水などによる大きな湿地が広がるなど、森林地形が変化に富んでいて、約70分間の乗車時間は長く感じませんでした。利用者数の多さや森林の魅力を満喫できる点などから、うまく成功させていると思うと同時に、熊野地域においても世界遺産への観光客が堅調なことや、豊かな森林、自然が残されていることなど、こちらに引けをとらないポテンシャルがあると考えます。
 徳島市から大体車で2時間半強かかるんです。高速道路をおりてからが1時間半ぐらいかかるんですけど、私が行ったときは大型バスだったもので、インターをおりてから3時間ぐらいかかったわけです。なぜかというと、とにかく道路がむちゃくちゃ狭くて曲がりくねってまして、ぱっと右を見ると断崖絶壁なわけなんです。物すごいスリルがあるんです。恐怖感もあるんです。そういった道をずっと通っていくんで、これは物すごく観光地としては非常に不便なとこだなと感じました。その点から考えると、熊野は、道はここに比べるとずっといいんで、かなりの集客力アップは見込めると思うんです。
 それから、ここは周辺の観光名所といっても、祖谷のかずら橋とか奥祖谷の二重かずら橋、そういったとこぐらいなんですよね、観光名所といっても。ほかにあんまり見るとこがないのに、どうしてこんなに人が来ているんかなと思うのと、それからこのモノレール施設の隣に宿泊地があるんですけど、この写真にもありますけど、これは恐らく三好市役所の3セクのようなもんだと思うんですが、中はもうふんだんに木材を使ってる、もう木材でほとんどできてる宿泊地という感じで、料金は2人で泊まると1泊1万3800円、2食込み。食事も大変おいしかったです。ほかにも5~6名の観光客の方が泊まっていました。ここはちょっと採算的には余りとれてないのかなというお話がありましたけれども、先ほども申し上げました川舟下りと連携をして、相乗効果を図れるような形で森林の魅力を大いに生かすことにより、観光にも視点を置いた山村地域の活性化に効果を発揮すると考えます。
 そこで、この乗用モノレールのような自然を見せる仕組みづくりを念頭に置きながら、森林を生かすことにより地域振興を図ることについて、仁坂知事のお考えをお尋ねいたします。
 以上で、私の一般質問を終わります。ありがとうございました。(拍手)
○副議長(坂本 登君) ただいまの須川倍行君の質問に対する答弁を求めます。
 知事仁坂吉伸君。
  〔仁坂吉伸君、登壇〕
○知事(仁坂吉伸君) 佐藤春夫さんは、ちょっとまた議員に倣いまして敬称略で言わせていただきますと、佐藤春夫は、我が国を代表する大文学者、詩人として、大正、昭和の文学界に大きな足跡を残す偉人でありまして、和歌山県の誇りであります。和歌山県では、この文豪の偉業をたたえ、平成17年以来、県のすぐれた先人として「きのくに志学館」にて顕彰事業を行ってるところであります。
 今回、同氏の詩碑が残されていることを契機に、出身地である新宮市と十和田市との間で交流に取り組まれているということについては、共通の文化やあるいは歴史的な資産を背景として地域の活性化や魅力の向上につなげていく試みでありまして、大変すばらしいことであると考えます。県といたしましても、こうした両市間の交流の深まりを注視しながら、この交流を促進する上で必要なことがあれば、青森県との情報交換など適切に対応してまいりたいと存じます。
 まず手始めに、今度、知事会等々で青森県知事に会いましたら、そのことを深く、申し上げておきたい、印象に残してもらうように申し上げておきたいと考えております。
 それから、熊野地域での森林周遊モノレールでございます。
 これも日本の原郷と言われる熊野は、自然と人間の営みによって形成された景観が評価されて世界遺産登録された地域でありまして、森林や渓谷、河川など豊かな資源に恵まれ、一方、古くからウバメガシを使った備長炭の生産やいかだ流しによる木材輸送の技術など、自然と共生した独自の地域文化を形づくってまいりました。
 このような豊かな自然と文化をしっかりと守り、生かしていくことが熊野地域の観光交流を進める上で重要であると考えておりまして、これまで熊野古道の整備あるいは熊野川川舟の運航を初め、都市と山村の交流施設の整備などに努めてきたところであります。
 また、特に川舟などに見られるように、地元の方々がこれを盛り立てていこうという機運が大変強いということもよく承知しておりまして、ありがたいことだと思うとともに、応援をしなきゃいかんというふうに思っております。
 議員御提案のお話につきましては、自然保護や景観保全の観点から留意すべきこともあるけれども、それから、ちゃんと採算がとれるかとか、観光客がどのぐらい来てくれるかとか、地元自治体が、議員御指摘のあるように、どういうふうに関与してくださるかとか、そういうことがあろうと思いますけれども、モノレールというものに着目して、それで観光客に魅力を提供しようというのは、基本的には大変いいアイデアだと思います。
 私も実は、北大の古座川の演習林がありまして、そこに行かしていただいたときに、学生が乗って山奥に行くそのモノレールに乗せてもらいました。ここは太古の原生林の中を通るモノレールでありましたので、ちょっとほかでは見られないような大変立派な雰囲気があったと思います。観光客もこれなら喜ぶなというふうに思いましたが、これは学術用でございますので、そのまま観光客用にというわけにはいかないと思います。同じようなものがあれば、宣伝のしようによっては採算がとれてはやるかもしれないなという感じは持っております。ただ、本当にそうかどうか。それは地元の方々がいろいろ考えて、それでどのぐらいそれをやろうとしていらっしゃるかと、そういうことによってくるんじゃないかなと考えております。
 以上でございます。
○副議長(坂本 登君) 答弁漏れはありませんか。
  〔「なし」と呼ぶ者あり〕
○副議長(坂本 登君) 再質問を許します。
  〔「なし」と呼ぶ者あり〕
○副議長(坂本 登君) 以上で、須川倍行君の質問が終了いたしました。
 これで、本日の質疑及び一般質問を終わります。
 明日も定刻より会議を開き、質疑及び一般質問を続行いたします。
 本日は、これをもって散会いたします。
  午後1時28分散会

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