平成20年2月 和歌山県議会定例会会議録 第6号(尾崎太郎議員の質疑及び一般質問)


県議会の活動

  午前10時0分開議
○議長(中村裕一君) これより本日の会議を開きます。
 日程第1、議員提出議案第1号、議員提出議案第2号、議案第1号から議案第16号まで、議案第31号から議案第61号まで、及び議案第63号から議案第76号までを一括して議題とし、議案に対する質疑を行い、あわせて日程第2、一般質問を行います。
 18番尾崎太郎君。
  〔尾崎太郎君、登壇〕(拍手)
○尾崎太郎君 おはようございます。議長の許可を得ましたので、一般質問をいたします。
 昨年、さきの大戦での沖縄における集団自決の記述に対する文部科学省の検定における修正意見をめぐって一連の騒動があり、もう随分以前のことになりますが、高校時代の友人と口角泡を飛ばして議論したことを思い出しました。友人は、大江健三郎氏の「沖縄ノート」を読んでいたようで、私は曽野綾子氏の「ある神話の背景」を読んでいたのです。議論はかみ合わず、平行線をたどりましたが、心優しいこの友人が、日本軍イコール悪と考えることこそ良心的であると思い込んでいることには閉口してしまいました。
 旧帝国陸海軍は、当然のことながら反社会的な集団ではありません。そもそも、我が国が明治維新を経て近代国家に生まれ変わったのは、帝国主義が吹き荒れる世界情勢の中で独立を維持するためでありました。世界のほとんどの国が植民地にされていく中で、辛うじて独立を保っていたとはいえ、我が国は不平等条約のくびきに苦しんでいました。当時、対等の外交を展開できたのは、列強と呼ばれる白人の国だけであったのです。
 我が国が治外法権から脱却したのは、明治も27年になってからであり、日清戦争の前日でありました。関税自主権の回復は、日露戦争に勝ってようやくなし遂げられましたが、本県出身の陸奥宗光がこれに貢献したことはよく知られているところです。
 我が軍はよく戦いました。日清、日露戦争を戦い、日本は有色人種の国としては唯一、白人の国と対等になり得たのです。また、大東亜戦争は、結果として世界から植民地を一掃し、日本以外の有色人種の国々を初めて白人の国と対等、平等にしたと言えるでしょう。このことの歴史的意義は極めて大きいと言わねばなりません。まさに世界のありようを一変させたのです。
 旧帝国陸海軍には、愚かで反省すべき点は山のようにあります。戦史を読めば切歯扼腕することしきりであり、日本軍の失敗から学ぼうとしないのは、それこそ愚かだと言うべきです。しかし同時に、日本軍には誇ってよいところもたくさんあるのであり、世界的には相当高く評価されているのではないでしょうか。
 ところが、規則正しく、精強で士気旺盛な日本軍の復活を恐れた米軍と我が国の革新勢力の奇妙な利害の一致が、日本軍をおとしめるプロパガンダを容易に浸透せしめ、他の国々には全く類例のないことながら、戦後の我が国では自国の軍は悪であるとの図式が成り立つ風潮にあります。いわゆる従軍慰安婦問題も南京事件も、そして沖縄の集団自決の軍命令も、この風潮の中でこそ成立した神話だと言えるでしょう。
 大江健三郎氏に「沖縄ノート」の中で「人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、彼はなんとか正気で生き伸びたいと願う」と書かれた、渡嘉敷島で住民に集団自決を命じたとされる赤松嘉次大尉は、海上挺身隊、すなわちベニヤ板でできた船に爆雷をつけて敵艦に体当たりする水上特攻隊の隊長でありました。
 「ある神話の背景」を読んで、初めてこの事実を知りましたが、生き延びたいと願うどころか、赤松大尉にとって死ぬことは任務の一部であったのです。しかし、さまざまな困難を乗り越え、出撃準備を整えたにもかかわらず、無念にも作戦は中止され、特攻舟艇は自沈を余儀なくされます。
 赤松隊長は、「正直言って、初め村の人たちをどうするかなどということは頭にありませんでした。なぜかとおっしゃるんですか。我々は特攻隊です。死ぬんですから、後のことはだれかが何とかやるだろうと思っていました」と後年語っています。しかし、彼は、全精力を傾けてきた作戦が無に帰し、茫然自失となりながらも、装備も訓練も行き届いていない隊を率いて、渡嘉敷島を死守せよとする絶望的な任務を全うしようとしたのでした。
 「沖縄ノート」が引用している本に「沖縄戦史」がありますが、この本は、「沖縄戦記・鉄の暴風」に依拠していると思われます。私は通読したことはありませんが、ある有名な場面はよく引用されます。「そのとき赤松大尉は『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食料を確保して、持久戦態勢をととのえ、上陸軍と一戦交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している』ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」というところです。
 何とも文学的というか、映画の一場面を見るようですが、それだけに現実感が希薄です。しかし、よくできているといえばよくできているので、このくだりは人口に膾炙され、神話の一部となりました。もちろん事実ではなく、これを聞いたとされる知念少尉本人が全面的に否定しています。しかし、一度成立してしまうと、神話は容易なことでは覆りません。
 同じような例を挙げてみます。吉田満の「戦艦大和ノ最期」です。天声人語にも引用された一節、「ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払イ、犇ク腕ヲ、手首ヨリバッサ」、「敢エナクノケゾツテ堕チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン」はよく知られていますし、私も小学生のころに児童向けの「戦艦大和ノ最期」を読んで、手首切りを知ったときは随分衝撃を受けたものです。
 この本も名文の誉れ高く、手首切りは神話になっていきました。しかし、当の艇指揮であった松井一彦氏の手記が、平成17年の「文藝春秋」8月号に掲載されました。それによると、そもそも救助艇内に軍刀などを持ち込むはずもないこと、たとえ持っていったとしても、バランスの悪い艇内で、しかも足元は重油で滑りやすいので、とてもそんなものを振り回せるものではないことなどが語られており、いずれもなるほどとうなずけるものでした。さらに、私が感心したのは、現実には将兵は海上に漂いながら整然と救助を待っていたということでした。
 我々は、つい今日の常識で当時のことを判断しようとしてしまいます。自分が海にほうり出されたら、きっと無我夢中で船べりにしがみつくのではないか、それこそ手首でも切られなければとても引き離せるものではないのではないかと。
 しかし、極限状況の中でも、日本の将兵は我先に救助艇に殺到するようなことはしなかったのです。乗員2498名が戦死した大和の戦いは悲惨であり、艦内は酸鼻をきわめた地獄であったでしょう。その中にあっても、なお品格ある振る舞いをし得た我が軍の将兵に驚き、畏敬の念を抱くものです。
 沖縄は戦場となり、さまざまな悲劇が起こりました。けれども、とらの子の大和は沖縄を守るために出撃したのではなかったのか。どれだけの特攻機が沖縄の空に散っていったのか。沖縄は、紛れもなく日本であり、まさに祖国日本を守るため彼らは散華したのではなかったのか。沖縄の人々も軍も、ともに協力し、よく戦ったのではなかったのか。であればこそ、大田実少将は、自決前に「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と有名な電報を打ったのでありましょう。
 現代の日本では、軍は限りなく遠い存在になってしまいました。今や、軍は一般市民からかけ離れた、わけのわからない異質なものなのです。軍を不当におとしめてきた結果であると言えます。
 しかし、大戦当時の我が国では、軍はごく身近な存在であり、あこがれであり、道徳の体現者でありました。実際、日本軍の下士官、尉官のレベルは、あらゆる面で世界一であったと思われます。軍民の一体感は、今日では想像もつきません。
 沖縄における集団自決については、それが軍命令によるとは少なくとも実証的には裏づけ得ないということはさまざまな研究で明らかになっていますし、軍命令があったことにしなければ戦傷病者戦没者遺族等援護法が適用されない可能性が高かったということなども関係者が告白しています。
 こうした近年の動向を見て、昨年の高校教科書の検定では修正意見がつきました。例えば、実教出版「日本史B」では、「日本軍は、県民を壕から追い出し、スパイ容疑で殺害し、日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいをさせ、800人以上の犠牲者を出した」との記述は、修正後、「日本軍は、県民を壕から追い出したり、スパイ容疑で殺害したりした。また、日本軍のくばった手榴弾で集団自決と殺し合いが起こった。犠牲者はあわせて800人以上にのぼった」となり、三省堂「日本史A・B」では、「さらに日本軍に『集団自決』を強いられたり、戦闘の邪魔になるとか、スパイ容疑をかけられて殺害された人も多く、沖縄戦は悲惨をきわめた」との記述は、修正後、「さらに追い詰められて『集団自決』した人や、戦闘の邪魔になるとかスパイ容疑を理由に殺害された人も多く、沖縄戦は悲惨をきわめた」となり、東京書籍「日本史A・B」では、「そのなかには、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で『自決』を強いられたものもあった」との記述は、修正後、「そのなかには、『集団自決』に追い込まれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった」となりました。
 控え目過ぎるぐらい控え目な修正であり、一体どこに大騒ぎするほどの問題があるのか全く理解できません。むしろ、私などは、手りゅう弾を配ったのが日本軍かどうかも未確定だし、自決には手りゅう弾も使われたと記述すべきだと思ってしまいます。
 高等学校教科用図書検定基準に、「未確定な時事的事象について断定的に記述しているところはないこと」との一条があります。私は、個人的には軍命令はなかったと確信しておりますが、少なくとも軍命令があったかどうかは未確定ではありましょう。したがって、今回の修正意見は、法令にのっとり最低限付されてしかるべきものであったのです。
 ところがであります。あろうことか、「沖縄県民の気持ちを受けとめ、何ができるのか検討する」などと言い、法令を恣意的に運用してまで特定のイデオロギーに奉仕することをいとわない文部科学大臣が、検定制度を事実上崩壊せしめてしまいました。歴史的事実が県民の気持ちによって変わるなどということはあるはずもありません。もちろん、事実だとされていたことが、新たな発見や証言により見直されることはあるでしょう。歴史の研究が進むとはそういうことであり、例えば今や「いい国つくろう鎌倉幕府」ではありません。鎌倉幕府の成立は1185年と教えられているのです。今回のケースがまさにそうであり、実証的な研究の成果が検定に生かされただけなのです。
 訂正申請の結果は、一例を挙げるならば、実教出版「日本史B」では、「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」が、「日本軍は、住民に手榴弾をくばって集団自害と殺しあいを強制した」となってしまっており、これでは検定前以上に軍命令であることを強調してしまっているではありませんか。
 日本軍は、どこまでも悪逆非道な存在でなければならない。──もういいかげんにしてもらいたい。日本軍は、大方の我が国の組織がそうであるように、愚かでまたすばらしく、度しがたくまた誇るべき存在なのです。
 高校の教科書なのですから、負の面は負の面として淡々と書けばよいでしょうし、美点は美点として書いてもいいでしょう。取捨選択はすればいいことですが、最低限歴史的に疑義があることを書いてはならないことは余りにも当然であります。
 集団自決がなぜ起こったのか、それを今日の常識で推しはかることはできますまい。家族や友人が殺し合い、あるいはみずから命を絶つなどということは想像を絶することであります。しかし、だからといって、我々はこの余りにも悲しい事実から目を背けるわけにはいきません。きちんと後世に伝えていくべきでありますが、願わくば当時の時代精神に迫る歴史教育であってほしいものです。
 今回のてんまつを見るにつけ、以前取り上げました昭和57年の「侵略」を「進出」に書きかえたとした歴史教科書誤報事件を想起します。書きかえられた事実はなかったのです。そんなことは、少しでも調べてみれば明らかなことでした。
 この誤報を受けて、中国は日本に猛烈な抗議をし、余りのけんまくに恐れをなした宮沢官房長官は、事実無根であるにもかかわらず、近隣諸国条項なるものを定め、自国の教育に他国が容喙する道を開いてしまいました。たとえ事実に基づかなくても、騒げば日本政府の腰は砕けることを内外に知らしめたのです。
 いわゆる従軍慰安婦問題も同じ構図にあります。軍が強制連行したものではないことは政府の調査が明らかにしたにもかかわらず、まさにその政府の一員たる官房長官が、韓国に騒がれて河野談話を出してしまいます。今や、米国下院に続いて、オランダ下院、カナダ下院、欧州議会で、これを根拠に対日非難決議が採択されているのです。このまま放置すれば、いわゆる従軍慰安婦の強制連行は世界の新たな神話となっていくでしょう。
 そして今回は、昨年9月の2万人足らずの県民集会が11万6000人結集と報じられたことがきっかけとなっています。熊本大学の学生グループが、新聞に掲載された県民集会の会場の全景写真に写っている人を1人1人数えたところ1万3037人でありましたし、さらに別の航空写真をもとに警備会社のテイケイが数えたところ1万8178人でありました。控え目過ぎる修正意見を、あたかも深刻な問題かのように思わせるためには、11万人というとてつもない数字が必要だったのでありましょうか。ともあれ、虚構の11万という数字は、票欲しさの政治家や基地問題で住民の機嫌を損ねたくない政治家を動かすことができるであろう。虚構であることはさほど問題ではない。騒げば無理が通るのは実証済みなのであります。果たして検定制度には政治介入がなされ、歴史はゆがめられてしまいました。
 そこで、教育長にお尋ねいたします。
 第1点、教科書検定制度の意義をどのように考えているのか。
 第2点、検定制度に政治が介入することについてどう思うか。
 第3点、日本史を教えることの意義をどのように考えているか。
 一昨年、本県は官製談合事件に揺れました。知事の逮捕という最悪の事態を招いてしまいましたが、仁坂知事のもと、再発防止に向け新たな入札制度の検討が進められ、本年6月から、原則的に一般競争入札により公共調達が行われます。
 もともと、公共調達のあり方は、明治22年に会計法により、予定価格以下で最も低い札を入れた者と契約をするよう定められています。また、地方自治法は、234条で契約の締結については一般競争入札によることとしており、指名競争入札や随意契約は、政令で定める場合に該当するときに限り、いわば例外的に認められているものなのです。したがって、本県が進める入札制度改革は、もともと法令で定められた姿に入札制度を戻すことにすぎないと言えなくもありません。
 では、なぜ本県のみならず多くの自治体で、談合を助長するとされる例外にすぎない指名競争入札が常態化していたのでしょうか。談合は、我が国の社会で極めて広く行われてきた商慣習のようなものであり、事業者にも発注者にも違法性の意識は希薄でありました。近年、スーパーゼネコン数社が談合決別宣言を出しました。それはそれで結構なことではありますが、それまでは談合を繰り返していたことを告白したようなものです。
 実際には、談合は、違法性は別として、公共調達のシステムとしてはすぐれたところもあったと言えます。発注者側としては、まず施工管理を徹底する必要がありません。きちんと施工能力がある業者が選定されているからです。また、仕様書等も厳密に書かれたものである必要もありません。仮に不十分なものであっても、仕事が不十分になることはまずありません。入札後でも適当に変更すればよいですし、発注者は事業者との独特の貸し借りで個別の仕事の不都合を円滑に処理してきました。予算の積み残しの心配もありません。
 一方、事業者の側にも、受注計画を立てることができる、無駄な見積もりのコストをかけずに済む、ある程度の利潤を確保することができる等のメリットがあります。また、社会全体としても、公共事業は富の再配分や地方経済のカンフル剤であるとの認識から、極端な安値受注につながる一般競争入札では、むしろこの役割を十全には果たし得ないと考えられてきました。
 昭和59年に、公正取引委員会が公表した「公共工事に係る建設業における事業者団体の諸活動に関する独占禁止法上の指針」によりますと、事業者団体が構成事業者から公共工事についての受注実績、受注計画などに関する情報を任意に収集し提供することや、事業団体が採算性を度外視した安値での受注に関し自粛を要請すること自体は違法ではないとしています。この指針が出た背景には、談合は、会計法上は問題であるが、その果たしている役割は決して小さくはないので、直ちに独禁法上違法ということにはしたくはないという社会的要請があったと思われます。
 役所は業界に仲よくせよと言い、業界は談合にくみしない事業者──これらの事業者は必ずしも建設業法を遵守している優良事業者とは言えないのですが──を行儀が悪いと役所に注進していました。
 談合は、和をもってとうとしとなす我が国の国柄と相性がよかったことや、日本人独特の法意識に支えられ機能してきましたが、競争を国是とする米国とのいわゆる日米構造協議の中で、談合はやり玉に上げられます。国際建設市場に我が国のゼネコンや機械メーカーが多数進出していることや、米国のリーガルマインドからいえば、これは当然の要求であったと言えます。ただし、米国は談合を深く研究しており、それが日本のゼネコンや機械メーカーの高い技術力の源になっていることや、公共調達のシステムとしてはそれなりに洗練され、ある意味で極めて効率的であることを知っていました。
 こうした流れの中、独禁法は強化され、平成6年には昭和59年の事業者団体ガイドラインは廃止されます。談合は、形式的な犯罪ではなく社会悪であるとの世論が高まり、全国各地で摘発が続き、その延長線上に本県の事件もあったと言えるでしょう。本県の事件の場合は、知事がその知人を通じ、業界団体と特異な関係にあったことが特徴的ではありますが、談合そのものは木村知事の時代になって初めて行われたものではないことはもはや明らかであります。
 さて、以上述べてきましたとおり、談合は違法ではありましたが、かつては反社会的なものではなく、それなりに広く日本じゅうで有効なシステムとして機能してきたことを考えますと、談合を完全に封じ込めた場合、従来談合が担ってきた機能をどのように代替するかが問われます。また、事業者だけを悪者扱いし、行政側は一方的な被害者であるかのような姿勢には感心できません。
 初めの問いに戻ります。なぜ、地方自治法234条があるにもかかわらず、本県は一般競争入札を採用してこなかったのか。罪なきもの、まず石を投げよ。本県も事業者も、ともに襟を正さなければいけないのです。
 新たな制度は、法令の遵守、公正な競争、透明性の確保、適正な価格、品質の保持、地元企業の育成、本県の実情等を勘案し、構築すべきであります。単に談合の抑制だけを目的として入札制度をつくり、安かろう悪かろうの公共事業であってはいけません。
 また、地元経済が冷え込んでしまってはいけないでしょう。競争は、自由主義経済の命ではありますが、どのような場合にでも常に必ず善というわけでもなく、過度の競争は競争の大前提である市場の荒廃を招きかねません。競争の強度は、事業者の規模に応じて変えてもよいでしょうし、価格だけを競争の基準にする必要もないでしょう。
 ともあれ、どのような制度も法律も、それだけで完全に取引の安全を図ることなどはできはしません。よき商道徳や慣習の存在が大前提なのです。例えば、発注者側に「仕事を出してやっている」というおごりがあれば、よき公共財を県民に残すことは難しいし、事業者によい意味での職人かたぎがなくなれば、やはりそれは難しいでしょう。
 我々自由民主党県議団も、政務調査会に公共調達検討委員会を設け、本県のあるべき入札制度について勉強を重ねているところであります。
 そこで、県土整備部長にお尋ねします。
 第1点、本県における建設業の就労人口はどれだけか。また、それは本県の就労人口の何割に当たるのか。
 第2点、本県における建設業の全売り上げのうち、公共事業の占める割合はどれだけか。
 第3点、地元企業の保護、育成についてはどのように考えているのか。
 第4点、本県における公共事業の品質保持は十分であるのか。
 第5点、予定価格とは何であるのか。また、予定価格に近い落札とは何を意味するのか。
 第6点、一般競争入札を実施した場合、いわゆる企業舎弟の疑いのある者や、実態を伴わず丸投げをする会社をどのように排除するのか。
 第7点、国土交通省が実施している総合評価方式と本県のそれはどう違うのか。
 第8点、県産品登録制度は、公共調達にどのように生かされているのか。
 昨年、自由民主党の青年局は、約100名の団を結成し、深せん、マカオを視察いたしました。団長は、自由民主党青年局長で観光特別委員会カジノ・エンターテイメント検討小委員会の事務局長を務める萩生田光一先生であり、私も副団長として参加をいたしましたが、カジノをてこに爆発的な発展を遂げているマカオの姿には唖然とさせられました。
 ラスベガス資本が展開する新たなカジノエンターテインメントは、マカオを一変し、以前の少々うさん臭げなマカオのイメージは過去のものとなりつつあります。昨年の時点で、既にマカオのカジノの売り上げはラスベガスを凌駕しているそうです。
 マカオでは、オープン前のベネチアンホテルで経営陣と話す機会があり、日本の幕張メッセが世界的なコンベンションを呼び込めないのは、ゲストが夜遊びに行くところがないからだというような極めて示唆に富む話を聞くことができましたが、彼らは国際的なコンベンションを収益の大きな柱と考えているのです。実際、ラスベガスではそうであり、ショッピングモールでの収益もカジノの収益を上回っているそうであります。カジノはツールの1つであり、それを他のツールと複合的に組み合わせた新しいビジネスが創出されています。
 国際会議等も、その数は年々増加しておりますが、日本での開催は減少の一途をたどっています。アジア諸国のハード整備が進んだこと、我が国には24時間空港がないことなども大きな理由でしょうが、日本では大人の遊ぶ場がないというのが本当のところかもしれません。
 また、環境に特に配慮しているとのイメージが強いシンガポールでも、カジノ解禁にかじを切りました。自国の産業の多くを中国に持っていかれ、得意であった金融センターも上海にお株を奪われつつあります。どのようなカジノをつくり出し復活を期すのか、興味深いところであります。
 豊かさを享受できるようになった現代社会においては、エンターテインメントは人々の大きな関心事であり、大人が楽しくエキサイティングに、かつ安全に遊べる空間の創設は社会的要請であるとも言えます。アジアでは一足先に豊かになった日本人は、世界じゅうに出かけていき、カジノも大いに楽しんできました。悪いことではないでしょう。
 しかし、今や世界各国の人々、とりわけ人生を楽しみ出したアジアの人たちに、いかにして日本に来ていただくかが問われる時代であります。
 そのためには、ゲストの視点に立った利便性や快適性の向上に努めなければなりません。例えば、空港なども、我々が外国へ行きやすいかどうかよりも、外国の方が日本に来やすいかどうかという視点から整備することも必要でしょう。本県も、観光立県を目指すのであれば、生活者としての県民の視点とホストとしての県民の視点という必ずしも利害が一致しない方程式を解いていかねばなりません。ありていに言えば、観光客の増加には、いろいろと不都合ももたらすが、改善や整備できる点は善処し、受け入れるべきところは受け入れていく覚悟も必要だということであります。
 我が国では、カジノというとまだまだ頭から否定する人がいますが、お酒と同じで、適度であれば、それは人生を豊かに楽しくするものであり、過度になれば身を滅ぼすたぐいのものでありましょう。
 今やカジノは、国連加盟国192カ国のうち120カ国余りが導入しているエンターテインメントであり、青少年に与える影響や犯罪の増加率なども極めて科学的に研究されており、対策も講じられております。国際観光立国を宣言する日本にとって、カジノは必須のエンターテインメントだと言えるのです。
 報道によりますと、いよいよカジノ法案が、来年の通常国会への提出を目指し動き出しました。前知事の時代には、地方自治体カジノ協議会に参加し、積極的に勉強していく姿勢を見せていましたが、平成20年度予算案には、カジノエンターテインメント誘致可能性検討費200万円が計上されています。
 自民党のカジノ法案の骨子によると、施行主体は地方自治体かその一部事務組合で、当面2~3カ所に設置し、最大10カ所程度に段階的に拡大していくなどとなっており、本県がカジノエンターテインメントを展開するには、他県との競争に勝ち抜かなくてはなりません。もし展開を目指すのであれば、周到な準備と世論の形成が必須であります。
 そこで、知事にお尋ねいたします。
 第1点、カジノについてどのようなイメージを持っているか。
 第2点、カジノを本県で展開することについてどのように考えるか。
 第3点、ダイナミックに変貌するアジアを体感し、カジノエンターテインメントを勉強するために、積極的に職員をマカオやシンガポールに派遣すべきだと考えるがどうか。
 以上、お尋ねして質問といたします。(拍手)
○議長(中村裕一君) ただいまの尾崎太郎君の質問に対する答弁を求めます。
 知事仁坂吉伸君。
  〔仁坂吉伸君、登壇〕
○知事(仁坂吉伸君) カジノについて、知事にお尋ねがございましたので、お答えさしていただきたいと思います。
 その前に、尾崎議員の御質問というか、その前の御見解につきましては、極めて示唆に富む、しかも共感を呼ぶようなお話であったかというふうにお聞きしておりました。
 さて、お尋ねでございますが、まず私のイメージということでございます。
 カジノエンターテインメントは、御指摘のような海外の成功事例に見られるように、観光客の増加による雇用の拡大など大きな経済的メリットがありまして、また、本県においても、地域の活性化に十分資するものであると考えております。当県は、観光立県を目指し、何とか雇用の種をもう少し一段とふやさなきゃいけない、そのためにはいろいろなことを考えていかないといけないということの中で、これは1つのメニューになり得るのかなというふうに思っております。
 一方で、もうこれも御指摘でございましたけれども、カジノについては、犯罪組織の資金源にならないかとか、青少年に悪い影響を与えないかとか、ギャンブル依存症の方がふえないかとかなどの懸念もあることも事実でありますので、これらをうまく克服することを考えていかなきゃいけないということも大事であると考えております。
 カジノエンターテインメントの誘致につきましては、こういう意味での県民の理解が何よりも重要であると考えておりまして、その上でカジノに伴う諸懸念が払拭されるのであれば、本県への誘致にもぜひ前向きに対応していきたいと考えております。このために、平成20年度は、県民に向け、カジノエンターテインメントに関する情報を十分提供し、講演会や研究会を行い、県民の方々に理解をしていただきたいと考えてございます。
 誘致に向けての諸条件が整った場合、他府県でも誘致の動きが活発化しておりますが、それに負けないような魅力的な誘致策を展開していかなければならないと考えております。
 尾崎議員のお話の中で、カジノはカジノとして独立しているのではなくて、ほかの要素と複合して初めて生きてくるというような趣旨の御発言あるいは御指摘がございました。そういう点で、和歌山でそれをつくっていくことが可能かどうかということも考えないといけないと思いますし、これはまた、余り申し上げたくありませんが、これまでの資源から考えると、ほかのところのほうが優位であるということもまた事実であるかなというふうに思います。それをどうやって考えていくかというのは、知恵の絞りどころかなというふうに考えております。
 海外のカジノエンターテインメントに関しましては、研究会を通じまして海外の事例や情報の収集に努めているところでございますけれども、より具体的な内容把握の必要が生じた場合には、御指摘のように職員を海外に派遣することも検討したいと考えております。
○議長(中村裕一君) 県土整備部長茅野牧夫君。
  〔茅野牧夫君、登壇〕
○県土整備部長(茅野牧夫君) 議員から、入札制度について8つの御質問がございました。
 まず、1点目の建設業の就労人口及び就労人口に占める割合でございますけれども、平成17年の国勢調査によりますと、本県における建設業に係ります就業者は約4万1000人、全就労者数は約47万8000人であり、全就業者に占める建設業就業者の割合は約9%となっております。
 2点目の建設業の売上高に占める公共事業の割合でございますけれども、平成17年度の建設工事施工統計調査における完成工事高は、本県全体で約2450億円、そのうち公共発注工事は約880億円となっておりまして、全体に占める割合は約36%でございます。
 3点目の地元企業の保護、育成についてでございますけれども、発注に際しましては県内業者を最優先することとし、施工可能な県内業者がない工事についても、県外業者に県内業者とのJVを義務づけることといたしておりまして、地元業者の保護、育成に努めております。また、建設工事に係ります委託業務につきましても、建設工事と同様に地元業者へ優先的に発注することに努めております。
 4点目の県における公共事業の品質保持についてでございますけれども、本年6月から実施いたします新しい業者評価制度におきまして、過去の工事成績、それから技術者を適正に評価する、こういったことによりまして品質の保持を図るとともに、価格と品質、その両方で落札者を決定いたします総合評価方式につきましても積極的に導入することとしております。
 5点目、予定価格と予定価格に近い落札の意味についてでございますけれども、予定価格とは、標準的な材料を使って標準的な工法で施工した場合に要する経費と考えております。地方自治法では、予定価格を超える価格では契約できませんが、予定価格に近い金額での落札につきましては、標準的な材料を使って標準的な工法で積算が行われたものと考えられ、発注者が求める性能を持った工事の完成が期待できるものと考えてございます。
 6点目のいわゆる企業舎弟の疑いのある者や丸投げをする会社の排除についてでございますけれども、新業者評価制度におきましては、従前の法人役員に加え、5%以上の株式を保有する株主につきましても、暴力団関係者が含まれる場合は入札参加資格を与えないこととしております。また、自社ではほとんど施工を行わない事業者の排除を進めるために、外注比率が著しく高い、かつ技術者が少ない、こういった場合につきましては、一定のペナルティーを与えることとしております。
 7点目の総合評価方式における国土交通省と本県の違いでございますけれども、国土交通省と本県の実施いたしております総合評価方式については、制度としては大きな違いはございません。
 最後、8点目の県産品登録制度の活用についてでございますけれども、施工に当たりましては、これまでに登録されました約700品目の建設資材等の優先使用を求めるとともに、使用した場合は工事成績評定におきまして加点しているところでございます。なお、積極導入いたします総合評価方式におきましても、県産品の使用を評価項目の1つとして今後検討してまいりたいと思っております。
 以上でございます。
○議長(中村裕一君) 教育長山口裕市君。
  〔山口裕市君、登壇〕
○教育長(山口裕市君) 御質問の教科書検定制度の意義についてお答えいたします。
 学校で使用する教科書は、児童生徒が学習するための主たる教材であり、その教科書が客観的で公正な記述で著されているか、かつ適切な教育的配慮がなされているかを検定することは大変重要な意義のあることであると認識してございます。
 また、その検定は、教育水準の維持向上、適正な教育内容の維持あるいは教育の中立性の確保などの要請にこたえるために、法令で定められた機関におきまして、慎重な手続を経ながら行われなければならないということは言うまでもございません。
 また、検定制度への政治介入という御指摘につきましては、教育は、あくまでも教育基本法にうたわれておりますとおり、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力のもと、公正かつ適正に行われなければならないというふうに考えてございます。
 次に、日本史を教えることの意義については、新しい教育基本法を踏まえ、先般示されました中教審の答申におきましても、我が国の伝統や文化に関する教育の充実が重視されておりまして、また今後、それを基盤として、国際社会を生きる上で、日本人としてのアイデンティティーを確立するためにも、自国の歴史を学ぶことは重要であり、意義があるものと考えてございます。
 以上でございます。
○議長(中村裕一君) 答弁漏れはありませんか。
  〔「なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(中村裕一君) 再質問を許します。
 18番尾崎太郎君。
○尾崎太郎君 何点か要望と、それから意見を申し上げておきたいと思います。
 まず入札制度、いろいろと御検討いただいておりますけれども、先ほど質問でも申し上げましたが、私どもも、自由民主党県議団でも、いろいろと議員それぞれにいろんな意見の相違はあるんですけれども、やっぱりその議論を重ねて、こうあるべきじゃないかというようなものをまたお示しをしていきたい、それをやはり当局の皆さん方もぜひ参考にしていただきたいなと思っております。
 一番、私、個人的に懸念しますのは、例えば平成15年に朱鷺メッセの連絡通路崩落事故というのがございました。そういうのは、今までの日本の公共事業では考えられないような事故だったわけですけれども、これがいわゆる、俗な言い方ですが、たたき合いによって行われた入札の結果、そういうことが起きてきた可能性もないとは言えないわけでありまして、仕様書に従って、設計図書に従って、きちっと施工せないかんのですけれども、しかし、その管理を、果たして、ずっと見てるわけにいかないので、徹底できるかというと、疑問に思うところもあるわけなんです。
 ですから、その辺のところ、品質の保持、施工管理をどのようにしていけるのかということも、ぜひ新しい入札制度をつくっていく上で御留意をいただきたいと思います。これは要望しておきます。
 それから、教科書検定の問題につきまして教育長に答弁いただきましたが、この教育基本法の不当な支配ということ、これは我々自由民主党が安倍内閣のときに教育基本法を改正するときに、この文言をなくすかどうかで随分もめました。
 結局は残ったわけですけれども、皮肉なことに、こういう不当な支配というのが、この文言は、今まで私ども保守の立場からいうと、それこそ不当にこの文言を解釈に使われてきたというような思いがあって、これはもう削除せな教育の中立性は保たれへんと、こういうふうに考えてきたんですけども、今回まさにこういうことがあるんで、やっぱり置いといたほうがええんかいなと、変にこう思ったわけでありますけれども、まさにこの不当な支配には断固として服しちゃいかんわけでして、それが仮に見た目上、何か同情を呼ぶようなものであっても、やっぱり歴史的な事実というものに対して敬意を払っていく態度じゃないと、何かわあっと騒擾したものが正しいというようなことではいかんわけであります。そういう断固たる姿勢というものも、教育者たる者お持ちをいただきたいと、これも要望をしておきます。
 それから、カジノについてであります。
 仁坂知事も、いろいろと動いていただけるかなという思いを持ちました。もともとカジノというものは、東京みたいにもともと発展してるところにまたつくる、これも国際競争力を保持する上で大事なことなんですが、もともとは、そういうラスベガスのネバダ州の砂漠みたいなところに、何も地域振興するものがないから持ってきたというところから始まってると思いまして、この自民党の法案の立案の趣旨にもそういうことがうたわれております。むしろ、過疎的にあんまり産業が興ってこないような地域にどうかというようなことを盛り込まれておりまして、決して用意ドンで競争して、必ずしも和歌山が負けるとは限らないと思っております。
 仮に、今、関西で手挙げてるのは、和歌山、大阪、滋賀の一部も挙げてるらしいですけれども、仮に大阪にできたとしても、それを利用してといいますか、それを拠点に、また和歌山に新たな産業が勃興してくるということも考えられますので、このカジノ法案について、常に注意をしていただいて、そして情報収集していただいて備えていくと、こういう姿勢でやってもらいたいと思います。
 以上、要望して終わります。
○議長(中村裕一君) ただいまの発言は要望であります。
 以上で、尾崎太郎君の質問が終了いたしました。

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