平成19年2月 和歌山県議会定例会会議録 第7号(和田正人議員の質疑及び一般質問)


県議会の活動

 質疑及び一般質問を続行いたします。
 四十六番和田正人君。
  〔和田正人君、登壇〕(拍手)
○和田正人君 今任期最後の二月定例会一般質問の大トリの機会をいただき、万感の思いを持って登壇をさせていただきました。
 通告には「回想」と出てございます。七十一年間の我が人生、すべて振り返る時間はございません。三十四歳ごろから私自身の今日までの歩みを「回想」と題して申し上げてまいりますので、しばらく御協力をいただきたいと思います。
 一九七〇年、昭和四十五年であります、この一月十日、私はワシントンのダレス空港におりていました。大変な大雪であったことを記憶してございます。当時の羽田空港をプロペラ機で出発し、ハワイ、アンカレッジ、シカゴで給油休憩と機体整備をしながら、約二十九時間をかけた、初めて経験する海外へのフライトでした。アメリカ国務省とUSW──全米鉄鋼労組でありますが──この招聘にこたえ、IMF─JC(国際金属労連日本協議会)のお世話で鉄鋼労連が人選をされ、幸いにも六人のメンバーの一人に三十四歳になる前の私が選ばれたことは、先輩・宮田義二さんや今は亡き斉藤安正さんの御推挙であったと感謝をしながら、約三週間の北米を中心とした見聞や交流、経験は今日でも鮮明に思い出すことができますし、その後の私の人生に大きな影響を与えたことは否定できません。
 当時の日米関係は、日本製品に対するダンピング問題や貿易摩擦が幾つかの業種間で起こり始めたころでありました。公式為替レートは一ドル三百六十円の時代でしたが、四百円を出さないと一ドル札をもらえなかった、今日では考えられない力関係でありました。そして、今日でもアメリカ社会の大きな問題と言える人種問題を到着した最初のワシントンで、その次のニューヨークでは当時でも百五十の人種が生活しているという、まさにアメリカ国内の人種のるつぼを実感したのであります。このことは、その後訪問した幾つかの労働組合の幹部から紹介された問題点でもありました。
 それは、英語を話せないアメリカ人として、市民権を得て努力する人たちとは別に、アメリカンドリーム──アメリカには自由と仕事があると南米を中心に不法入国する人たちの話の中から、職場にいるその人たちが英語を話さないことをいいことに他の従業員よりも二時間の搾取をされていることに驚きました。それは、勤務時間で朝一時間早く、夕方一時間遅く働かされているということでありました。それを今日の日本社会に置きかえてみて、東南アジアや日系ブラジル人といった日本に働きに来ている人たちの中にそんなトラブルがないと言えない今日の日本社会、改めて思い起こしている問題であります。
 交流した人たちの中には、貿易摩擦に絡んで、「日本人の家はウサギ小屋のようなのか」、また「家庭には電気冷蔵庫があるか」との質問をする人も多く、実に腹立たしい思いもしたものであります。さらに、「日本人はアベレージが高い。だから、だれが総理大臣になっても余り変わらない。アメリカでは約二割の優秀な人たちがいて、その中から世界を動かすリーダーが出てくる」という、アメリカの姿勢が世界に与える影響を強調されたものであります。
 各地を移動しながら、率直に感じたことがありました。その一つは、南北戦争が何であったのか。リンカーンの奴隷解放という人道主義の側面が強調されても、国連識字年や日本の義務教育制度を対比してみて意識したのであります。広大なアメリカ各地を実感したとき、第二次世界大戦における戦死者はもとより多くの犠牲者には申しわけないけれど、もし日本が勝っていたとしてもこの国を統治できないのではないか、こういう思いでございました。大都市シカゴでは、その呼び名はインディアンの言葉で「風の町」という意味であること。そして、カナダから五大湖を吹き抜けてくる厳寒のマイナス二十三度を体験し、車内からでしたが、一等地にあるユダヤ系の人たちが住む立派な家々を見て、また驚いたものであります。帰国した後は、大阪万博に日本の戦後復興とそのエネルギーを世界に発信する年でありました。
 今、民放四チャンネルで日曜夜九時から「華麗なる一族」──これは一九七三年発表作品のリメークでありますが──放映されています。一九六〇年代後半、一九六五年の金融再編という時代背景と山陽特殊製鋼が経営破綻という社会的な大問題があり、住友金属も八幡製鉄や富士製鉄から銑鉄を購入しなければ粗鋼の生産ができないという苦しみから、通産省相手に高炉戦争という企業の命運をかけた取り組みを続けた経過がありましたから、戦後、日本の復興を支えた石炭産業がエネルギー転換により主役の座をおり、重厚長大の最たる鉄鋼が素材提供を技術革新とともに日本の金属産業に提供し続けたことが各産業の国際競争力を高め、「鉄は国家なり」と言われ、高度経済成長の基幹産業としてその役割を果たしてきたのであります。原作者の思いは別に、私はこのドラマを当時の状況を思い出しながら鉄の歴史を振り返っている一人であります。
 そして、旧八幡製鉄と富士製鉄の合併が実現し、その後、一九七三年、昭和四十八年暮れからのニクソンショック、続く石油ショックから、資源のない日本という意識と、そこから産業界に生まれる科学技術の発達は日本の産業に省資源技術や国際競争力を強める作用を必然的に強めさせたとも言えますが、戦後の日本の復興を支えた石炭産業は、中東の安い石油を購入し始めてから、国策としてのエネルギー転換に対して、三井三池を中心とした石炭労働者の闘いは今日では語る人も少なくなりました。国と産業が産業政策を考え、企業が従業員の雇用の安定や地域社会との共存を責任ある態度で果たしていくならば、経営者の不適切な姿勢と企業の社会に対するモラルの低下から起こる住民による訴訟事件など、情けない失敗は防げたと考えますが、他方、アスベスト被害の問題などは明らかに国の責任を問われるものだと思います。
 地球温暖化対策の課題とも関連して、一九七三年のニクソン大統領の一般教書に次の二点が発表されています。参考までに御紹介しておきますと、一つは、環境浄化への第一歩として、汚染との闘いは悪人を探すことではない。我々の環境に加えられた損害の大部分は悪人たちのしわざではないし、技術の進歩あるいは人口の増大の必然的な副産物でもない。汚染は、行われた選択よりも、むしろおろそかにされた選択の結果として生じる。悪意のある意図からではなく、我々の行動のあらゆる結果を考慮に入れないことの結果として生じる。二つ目に、遂行すべき課題として、それには費用と決意と創意が必要である。そして、それは政府だけで行うには余りにも大きな仕事である。それらの仕事は、土地、大気、水の使用についての根本的な新しい考え方、一層厳しい規制、政府の措置の拡大、より大きな市民参加、そして政府、産業及び個人がそれぞれこの仕事の持ち分を果たすこと。経費分担の保障計画が必要である。
 このアメリカ大統領の発言から三十年以上経過しているわけでありますが、石油にかわる代替エネルギーの進歩よりも、石油価格の上昇に苦慮する日本の産業界の今日の姿を考えるとき、アメリカに初めて行った一九七〇年、その当時、為替レートは異なりますが、一バレル──百五十九リットルであります──一ドル七十セントで購入できていたものです。三十数年経過した今日の石油価格は当時では想像もできない高騰ぶりであり、OPECや国際石油メジャー、産油国の思惑等々、日本の手が届かないところではあっても、石油ショック以降、日本経済は大変な経験をしてきたわけであります。
 けさの新聞で紹介されていますように、ゴア前副大統領がオスカーを受賞した。地球温暖化について警告をした「不都合な真実」、長編ドキュメンタリー賞ということで受賞したようであります。このゴア前副大統領の「不都合な真実」、この考え方が、ニクソン教書が発表されるころからもしアメリカ大国が手を組んで世界に呼びかけた温暖化対策をしておれば、私どもの地球は今ほど大きな問題には至ってなかったんではないか、こんな思いもしているところであります。
 一方、戦後十年の一九五五年、昭和三十年、私の高校卒業時でありますが、日本の社会には、車と名のつくものは、軍の使用していたものを含め、約二万台しか走っていなかった。国内に石油資源がほとんどないゆえに中東の安い石油を購入することができたことで、一九六〇年代以降の自動車産業の発展やマイカーの増加を含め、衣食住に関連する石油をベースにした科学技術の発達を促し、高度経済成長の大きな要因になったことは否定できないと思います。日本経済のひとり勝ちのような要因になったこの時代の安い中東の石油に対し、国内に資源のあるアメリカ、イギリス、ドイツはどんな対応をしたのか、経済成長に差が出た原因であります。仁坂知事は、その辺はよく御承知だと思います。
 今、日本社会を走る車は六千万台を超えて、国民二人に一台所有という世界に例を見ない車社会になっていることから、これに追いつけなかった道路行政、都市の過密と地方の過疎、東京一極集中、多くの課題を持ちつつ、社会や産業、そして働く場に光と影を、格差を生み出している今日であります。
 一九八一年、昭和五十六年であります。私は、サウジアラビアを訪れる機会がありました。四日間の滞在でしたが、砂漠の民の生活のさまや王制国家での産油国のオイルマネーの威力を見聞したこと、イスラム教の戒律の厳しさ、アラブ諸国のシーア派とスンニ派の対立、イスラエルとパレスチナ問題を頂点とする中東情勢の一端を勉強する基礎となりました。
 先日、仁坂知事をブルネイの大使が表敬訪問をされたようであります。和歌山県とどういうつながりを持っていくのか。財政的に恵まれた国だというふうに伺っています。仁坂知事には、過去の経験を生かし、表敬訪問をされたこのブルネイとの関係についても、和歌山県の今後のあるべきそういう課題の中で可能な限り生かしていただきたいというふうに要望しておきたいと思います。
 次に、和歌山県議会議員として、昭和五十八年、一九八三年四月、和歌山市選挙区から初めて当選をさせていただき、今日まで六期二十四年間、多くの皆さんに御支援、御指導、御交誼を賜りました。この場をかりて厚く御礼を申し上げる次第であります。議員としての今日までの評価はみずからできるものではありませんが、基本的なスタンスは変えなかったつもりであります。それは、永年在職二十年以上の議員表彰を受けた際にこの壇上からも謝辞を申し上げましたが、政治にかかわる者の先見性という課題を常に意識してきたということであります。
 そのとき申し述べた具体例は、県民文化会館を建設したとき、県庁との間になぜ地下通路と駐車場をつくらなかったのか、また、高野龍神スカイラインの建設時に、紀伊半島の南北にパイルやボタンの異業種交流のできる企業団地をつくるなどして産業道路としても活用する議論を県議会でされなかったのかという疑問を感じたからであります。限られた予算と費用対効果を意識し、先見性を持って県政に参画すべきであるという責任を強く意識したのであります。その後の道路公社のありようや毎年一般会計から補てんした金額を考えるとき、必要な議論であったと思います。
 これに関連して、一九八五年、昭和六十年のことでありますが、建設委員会の県内調査で、先輩議員が自分の選挙区でもある上富田の新川というところで地元の農業関係者を二十人ほど集められ、現地での陳情をされました。それは、田や畑を持つ皆さんが、そこで利用している農道を軽四で農機具を運びやすくするため拡幅舗装してほしいという内容でした。私は、同行していた当時の土木部長にどの程度必要か聞いたところ「約五億円」と答えましたので、その先輩に、将来環状道路になる計画があるのかと尋ねたところ「ない」とのことでしたので、即座に私は地元の皆さんに「申しわけないけれど、副委員長として認められない」と主張して、その先輩議員と口論になりました。(「わしやろ」と呼ぶ者あり)議場におられる町田先生ではございません。──先輩いわく、「そんな反対をする県会議員は君が初めてだ」と言って大変激昂されましたが、私はその場で、先輩議員が自分の口ききで予算をつけたと次の選挙にプラスである思惑であっても、約五億円でも、県内ではもっと早く手当てをすべきところがあること、天から降ってくるお金ではない上に打ち出の小づちもないわけでありますから、我慢をしてくださいと。先輩は地元の皆さんに県会議員として努力をしている姿を見せたいとの思いでしょうが、県議会に出席をされるとほとんどの議案に反対をすることの多い政党に属されている立場と地元への利益誘導という姿勢に強く反論をし、対費用効果と波及効果に期待できないとして認めなかったのであります。委員長は下川議員でございました。
 点から面整備へと継続した公共工事が、特に和歌山県には必要であります。その場の要望で点を整備するのではなく、その地域の特色を生かす、民活を引き出す、活性化につながる面整備へと、中長期の計画を持って投資をする事業に力を入れなければだめだと意識をし、機会あるごとに当局の皆さんに訴えてきたところであります。
 かつて和歌山県には、東燃、丸善の石油二社、そして住友金属、この三社で県税収入の多くを占める時代があり、財政力も悪くなかったと聞きましたが、一九八五年、昭和六十年を挟んで丸善石油がなぜ撤退したのか、当時、経済警察委員会でも議論のあったところですが、仁坂知事は御存じでしょうか。
 私の知る限り、参考までに申し上げますと、石油ショック以降の国策は国内での石油備蓄の強化であり、八十日分、それ以降、鹿児島などのタンク群をごらんになった方がいらっしゃると思います。当時、第一次、第二次田中内閣として田中角栄総理大臣は、日本の国内にある石油会社に対し、日産五十万バレルの精製能力を持つように設備増強の要請をされたわけであります。当時の丸善石油の和歌山工場はその十分の一の日産五万バレルの能力しかなかったために企業として埋立申請を労使一体となってお願いをしたわけでありますが、住民の理解を得られず設備増強できなかったことが大きな要因であると言われ、また経営体質に問題を抱えていたとも言われたのであります。
 余談でありますが、当時、日本と韓国両国にあった問題と国民感情から、韓国の軍隊関係者に「日本の自衛隊に負けないから戦争したらどうか」というふうな、うそのような勇ましい話が出ているということを、韓国を代表する財閥の方から紀の国会館の喫茶室でお伺いしました。その方は、「君たちは間違っている。近代戦争は石油の所有量で決まる。韓国は十八日分しか備蓄がないけれども、日本は八十日分持っているから、長期戦になれば韓国は勝てない。したがって、ばかな考えを持たないよう軍関係者を説得した」と伺ったときは、本当に驚いたものであります。
 企業誘致に意欲を燃やす仁坂知事と県民の意識に差がないか。県民性を考えるとき、知事就任後、住友金属の和歌山、鹿島の関係で周辺住民、県民性について触れられたやに聞きましたので、あえて丸善の撤退事情をお伺いしたのであります。
 次に、コスモパーク加太に関連してであります。
 私は、過去、コスモパーク加太の土地利用について、大きくは、一九八五年の本会議でありますが、大阪を中心にした近畿圏でオリンピックを誘致してはどうかと。このオリンピック誘致運動に対して、当時の宇野関経連会長にも私個人、関西の経営者団体として応援してほしいということをお願いに行った経過があります。残念ながら、国内では横浜市と競合し、IOCでは北京に決定され、来年開催される予定となっているのであります。
 また、関空開港後の和歌山県が騒音だけの扇風機や冷蔵庫の裏側にならないために、コスモパーク加太の土地利用と債務について幾つかの提言をしてまいりました。
 その一つは、ODA(政府開発援助)のあり方と窓口の誘致についてであります。
 これについては、たくさん言いたいことがあります。特にODA問題については、国会での議論が余りにも少ない。今開会されている国会においても、青木参議院会長しかこの問題を取り上げていない。このODA問題については、経営者団体を初め、いろんな提言が過去においてされてまいりました。私は、この議場を通して、関空の土地利用に関連をし、ODAの窓口を加太の土取り跡地に誘致してはどうかと。その場を通らなければ人、物、金は出ない、関空から来る外国からの人たちが必ず、ODA関連は和歌山に来ないとだめだと、こういうふうなあり方論と、そして同じ加太に常設展示館を設置し、日本の国際的な競争力を持つ機械、電機、自動車それぞれのメーカーに御協力をいただき、常時そこで新しい製品を見ることができる、バイヤーとして来られた人にはすぐ交渉ができる場をメーカー側に要請をしておく、このようなことを含め、ODAの窓口と常設展示館の設置について提言をしてまいりました。
 ODAは、円借款が外務省、当時の大蔵省、そして当時の通産省、経済企画庁の四省庁、技術協力が十七省庁にまたがるということで、大変難しい問題であるということが答弁として言われましたけれども、和歌山県にそれを誘致したいということを提唱するということをやってみてはどうだと。和歌山から発信をする、こういうことで具体的な地方分権の一つの取り組みとして、当時の仮谷知事以降、何人か知事がかわりましたが、申し上げてきたものであります。この提言など、特に経営者団体から出された意見書などを考えると、あの当時からこのODAのあり方をもっと真剣に議論をしていただいておれば鈴木事件というのはどうであったのか、こういう思いも今しているところであります。
 簡単ではない、多岐にわたる中央省庁の状況でありますが、私は、この考え方は今死に体になっているとは思いません。日本の国内、そしてODAのあり方、地方分権、加太の土地の有効利用、改めて検討して、だめであってももともとです。座してあの土地に金利ばっかり払っていくんであれば一回大きな声を上げていただきたい、こういうふうに願っている一人であります。
 二点目の常設展示場も、先ほどそういう考え方で申し上げました。
 三点目は、大学誘致をしたいということで、私学の問題について触れてまいりました。しかしながら、旅田元市長にこの計画はつぶされてしまいました。
 参考までに申し上げておきますが、当時、県の企画部と市の企画部を中心に、大学誘致をしてどのような学部をつくってもらうかという問題なども含め、八回の協議を重ねていただきましたが、和歌山市自身が創造大学を持ちたいというあの発表以来、完全に腰が引けた学校側の姿勢の中でまとまらなかったという経過があります。
 四点目は、総合運動公園として、二巡目国体に対して和歌山県が取り組んでいかなきゃならないわけでありますが、現在の紀三井寺競技場や野球場、ここに維持管理費を含め老朽化対策を続けながらメーンの競技場にしていくのかどうか。
 私は、この提言をした際、マリーナに連動してあの地域を再開発して、ハウスメーカーなどとも協力しながら住宅地として販売をし、その余力を持って加太に新しい設備、総合運動公園の投資をするというふうなことを考えてはどうか、こういう趣旨で申し上げてきたつもりであります。いろんな方の御意見もございましたが、このコスモパーク加太の土地利用について知事の御所見をお伺いしたいと思います。
 次に、安全・安心の問題に関してでありますが、時間が余りございません。回想で随分時間をとりました。
 日本にはかつていろんな神話がありました。それは、世界で一番安全であるという生活環境を言われたわけでありますが、オウム真理教の事件以来、本当に日本は安全であるのかどうか、こういう神話のつぶれた問題もあります。
 二つ目は、サンフランシスコやロサンゼルスの地震のときに、日本の高速道路や橋梁構造物は、その耐震性や技術、材料から見て大丈夫と保証するコメントを出された専門家もたくさんいたわけでありますが、あの平成七年一月の阪神・淡路大震災による被害状況は、その安全神話すら根底から打ち砕きました。新たな技術開発と多額の投資といったコスト増加を余儀なくされる、こういう事態を招いたことを考えれば、県民の命と財産を守る、社会資本を守るという立場から、避けて通れないこの安全に対する課題であることを提起したのであります。
 三つ目の安全神話は、銀行はつぶれないというその当時までの信頼関係が、住専処理問題等で国民の多額の税金を投入するという事態から金融機関に対する不信が生まれ、銀行もつぶれるという提起をしたわけであります。
 これらの三つの崩れつつある当時の神話問題に加え、当時、製造業を中心とした産業界の空洞化問題、いじめや児童生徒の自殺に象徴される教育問題、氷河期と言われる就職難問題、失業率や中高年の働き場所確保と高齢化社会への対応、過疎と後継者問題等々、経済大国とは名ばかりの、ゆとり、豊かさの実感できない、成熟していない不安定な社会環境と言わざるを得ないということを訴えたのであります。その後十一年が経過した今日、国会移転や地方分権、機能分散など、提起されて久しい課題に対し、具体的な取り組みや行動が現実の姿として国民の前に具現されてこないいら立ちを覚えるのは、私一人でしょうか。「失われた十年」という表現の中に、市町村合併や財源移譲など、地方自治体が住民のために議論をして一定の結果を出したものがあるとしても、これでよしとは言えないと思います。
 この平成八年二月の議会で提起をし、今なお持ち続けている自分の意見があります。それは、人間の幸せとは何か。毎日の生活において健康で、心の安らぎを覚える営みが続けられる安心感ある生活、居住地環境も含め、犯罪や事故の心配がない、安全が確保されている生活、貧しくとも明るく毎日が過ごせる職場確保によって将来に夢と希望を持てる安定した生活、この安心・安全・安定の三つを県民生活に保障していく責任が行政の課題であると、私は考えています。そして、県民生活にかかわる危険予知をする、徹底的に危機管理体制を確保しておく、夢と希望を県民と分かち合えるよう、和歌山県のイメージダウンを回復し、和歌山県のリーダーとして、県民の負託を受けた政治家として、決断する指導者として、県民生活の発展に基本的なスタンスを持っていただきたい。知事の所見を伺うものであります。
 三点目、将の将たるゆえんについて触れさしていただきます。
 仁坂知事、あなたは、県民に謝るべき事態の場合は率直に謝れますか。なぜ、このような投げかけをするのか。私は、前知事に対し、本会議場において県民に謝るよう求めた事態が二度ありました。一つは、官製談合としてみずから司直の手に裁かれる原点となったBig・Uの建設で、昭和設計との関係、建設現場の沈下による対策に追加補正約四億二千五百万円の支出をめぐって当時の建設委員会は他の議案と切り離して集中審議をするなど、その責任について、本会議場において県民に対し知事に謝っていただくという理解で、全国マルチメディア祭を誘致している会場でもあるということで補正予算の支出案件を承認したわけでありますが、中山副知事、当時の副知事に謝らせたのであります。
 いま一度は、白浜空港の用地買収に関する疑惑について。いろいろ審議をいたしました。当時の状況は企画部長であった野添公室長がよく御存じでありますが、いずれにしても二度とも中山副知事に謝らせたことに対し、私は、どうして知事が謝らないのか、審議の内容を考慮し、謝る文面まで届けた私としては納得ができなく、厳しく指摘をしたのであります。これに対し、前知事は、「謝るのが嫌いです」と言われました。謝るのが好きな人はいないでしょう。ましてや官僚育ちであるがゆえに余計に謝るのは嫌いであっても、県民のトップである知事が、県行政の運営で県職員が努力をしている経過の中で、予測できない事態や自身が直接その問題に関与していない場合でも、県民に対する説明責任とあわせ、将の将たるゆえんを知らないのかと厳しく追及したところ、ここからは余り言いたくありませんが、「謝るのも副知事の仕事のうちです」と答えられました。私は、この知事はだめだと思いました。
 私は、仁坂知事に、こういう事態が起こらないように御努力していただけるという大きな期待をしておりますが、もしこんな事態が起こったときに、県民に対する説明責任と、みずから将の将たるゆえんをもってどういう対応をするかということを常に心しておいていただきたいと願う立場から、この問題を投げかけさしていただいているわけであります。
 もう一つは、ことし三月末をもって、県職員として長年御苦労された皆さんが、定年される方が百六十一人いらっしゃるというふうに聞いております。この人たちの中で、働く能力があり体力もある、この人たちをいかにして和歌山県の社会の中において、地域においてどのように活躍していただくかということも県行政の大きなありようの問題だというふうに考える立場から、再就職あっせんに取り組んでおられるのかどうか、お伺いするものであります。
 一部マスコミ皆すべて「天下り」という表現の中に全部包含している、そういう向きもありますが、私は、過去の問題は過去の問題として、県職員が、自分は能力があり働く体力がある、そのことをすべて、民間に再就職した場合、天下りというふうなとらまえ方は大きなマイナスである、こういう見地から、過去、副知事を中心に再就職あっせん委員会等がされてきた歴史があります。今日は大々的にできないという萎縮した状態かもしれませんが、県職員の持つ、過去培ってきたこの財産を地域社会に生かすということを忘れてはならない。こういう観点から、積極的に優秀な人たちをいかに活用するか。民間は大変厳しい環境にあり、みずからの会社で定年する人たちをどうするのかという大きな問題もありますが、人材派遣という立場を考えながら、この問題についても知事あるいは副知事を中心に一生懸命考えていただきたいなと、こういうことをお願いする次第であります。
 最後に、仁坂学校を開設してはどうかという提言であります。
 前知事は、和歌山アドバイザー会議というものを設置したいということで予算化し、約三年ほど取り組まれましたが、この三月末をもって離職された方が期限が切れるということで、仁坂知事はそれ以上に多くの皆さんの声を聞きたいという考え方を持っておられるようで、継続をしないというふうにお伺いをしております。しかし、私は、新知事になられてから、和歌山のことを一生懸命勉強されている、恐らく今日まで和歌山県の信頼を取り戻すため懸命に腐心をされ、心休まるいとまもなかっただろうというふうに推察をしているところでありますし、本格的な二月定例会を迎え、体力はともかく精神的にいささか疲れを感じる新人サラリーマンが多く経験をする五月病になっていないか、こういう心配をする一人でありますが、知事として行政の停滞は許されません。
 どうか、知事、「経験にまさる学習はなし」という言葉があります。今日までの選挙を含めたあなたの経験は、将来の大きな財産となると思います。県職員とともに、むだをなくし、無理をしない、仕事にむら気をなくす、この三ム主義というものを心がけて頑張っていただきたいし、先ほど来申し上げているように、若い人、人材を育てるという意味で、各界各層どういう人選をされるかわかりませんが、時間をかけてでもいいです、どうか和歌山のあすを語るために、夢を持って、まじめな責任自覚派の皆さんが嫌気を差さないように、ともに勉強するということで、あえて「仁坂学校」という表現をいたしましたが、そういうチャンスを和歌山県行政の中につくっていただきたいということを要望し、そして長年この議場を通していろいろお世話になった皆さんに改めて御礼を申し上げながら、この四月の選挙で再度立候補される皆さんについては、今日までの経過を踏まえ、新しい知事のもとに失われたこのイメージを回復するためにも、県民の厳しい批判があるかもしれませんけれども、どうか元気に選挙戦を戦っていただいて再度当選をし、その議場であすの和歌山を語っていただくように心からお願いを申し上げまして、私の最後の演説を終わらしていただきます。
 御清聴、ありがとうございました。(拍手)
○議長(向井嘉久藏君) ただいまの和田正人君の質問に対する当局の答弁を求めます。
 知事仁坂吉伸君。
  〔仁坂吉伸君、登壇〕
○知事(仁坂吉伸君) 和田議員の回想をお聞きいたしまして、和田議員の訪米の十五年後、私もまた、労働組合、それから所管省庁の違いはありますが、貿易摩擦のあらしの中で、我が国鉄鋼業を守るため全力を尽くしました。その思いが去来いたしまして感無量のものがございました。
 丸善石油の撤退の事情につきまして御質問がありましたが、私も県庁の何人かの人から聞いております。ただ、将来への教訓として、今後とももっとよくお話をお伺いしたいと考えております。
 コスモパーク加太の用地につきましては、現在、平成十五年の特定調停にかわる裁判所の決定を受け、また県議会コスモパーク加太対策検討委員会の御提言も踏まえて、その大部分を事業用借地として県が借り受け、地域経済活性化につながる企業誘致並びに県民の安全・安心につながる防災対策用地としての利活用を進めているところでございます。この広大な用地は、将来の財政負担の原因ともなりかねない大きなリスクを持った土地であるとともに、本県にとって貴重な財産となる可能性を秘めたものでもあります。利活用を進める上で最も肝要なことは、いかに県民の利益につながるかということであると認識しております。
 これまでも、和田議員ほか議員各位からのさまざまな御提言につきましては、さまざまな御議論があり、真剣に検討されてきたものと認識しておりますが、今後とも、そのことも踏まえた上で効果的な利活用を探ってまいりたいと考えております。
 次に、安心、安全、それから安定も必要であるという御指摘でございます。
 議員のお考えでございます安心感、安全、それから将来に夢と希望を持てる安定が人間の幸せであり、行政は県民にこうした生活を確保するように努めなければならない、そして、そのためには県民生活にかかわる危険の予知と徹底した危機管理体制が必要であるということについては、私も全く同じ気持ちを持っております。
 一月の臨時県議会で、私の最大の使命は失われた県政への信頼を取り戻し、本県の名誉と県民の誇りを回復することであり、県政運営の基本姿勢として、県民の皆様の御意見を聞くことがすべての出発点であることと、当たり前のことでございますけれども、県民のための県政を行うという二点を申し上げました。政治家として、知事としての終生の目標である和歌山を元気にするために、「職づくり、人づくり、地域づくり」「清潔で透明な行政の実現」「安心・安全の確保」「和歌山の美しさを活かした観光の振興」「楽しい和歌山の実現」を五本柱としてまいりましたのも、議員御指摘のような気持ちからであります。初心忘るべからず──県民の方々の幸せのために、みずからの責任を持って政策の方向を決定し、県庁職員の先頭に立って頑張りたいと思っております。
 次に、知事は謝れるかというお話でございました。
 万一県に誤りがあるのならば、知事が陳謝するなど、率直に勇気を持って必要な対応をしていくのは当然のことであります。私自身が不徳等不適切なことをいたしましたら、もちろん謝らなければいけません。また、仮に全力を尽くしていても結果が思わしくないこともあります。そのときもまた、県民の利益にかなわなかったことの責任をとって、県庁を代表して県民に謝罪しなければならないのは、将たる者の務めであると考えております。
 それから、次に退職する職員の再就職についてでありますが、議員御指摘のとおり、働く能力と意欲のある職員が県で培ってきた知識や経験を新たな分野で生かしていただくことは、高齢化を迎えるこれからの時代に非常に重要なことと私は考えております。ただ、官民あるいは公民の癒着といった疑惑を招くおそれもありますので、だれによっても不当な働きかけができないようなシステムづくりもあわせて行って、その上で大いに皆さんに活躍していただく必要があると考えております。
 それから、仁坂学校の開設というお話がありました。
 アドバイザー会議につきましては、私は、この会議に参加しておられる人以上に多くの方々から既に意見をいただいております。アドバイスもいただける立場にあります。したがいまして、会議をして集まっていただいてということはコストパフォーマンスの点で余り必要はないかなというふうに思いましたので、あえてこれは廃止さしていただきました。既に、多くの方々から意見はいただいております。
 御指摘の仁坂学校と言いますと私が教師で県民の皆さんが生徒という印象になってしまいますので、名称はともかくといたしまして、和歌山の未来を担うような県民の皆さんと率直に意見交換をしながら、和歌山県の将来について、未来を見据え、視線を上げてともに勉強していきたいと考えております。
○議長(向井嘉久藏君) 答弁漏れはありませんか。──再質問を許します。
  〔「なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(向井嘉久藏君) 以上で、和田正人君の質問が終了いたしました。
 お諮りいたします。質疑及び一般質問は、これをもって終結することに御異議ございませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(向井嘉久藏君) 御異議なしと認めます。よって、質疑及び一般質問はこれをもって終結いたします。
 次に日程第三、議案の付託について申し上げます。
 ただいま議題となっております全案件は、お手元に配付しております議案付託表のとおり、それぞれ所管の常任委員会及び予算特別委員会にこれを付託いたします。
 次に日程第四、請願付託の件について報告いたします。
 今期定例会の請願については、お手元に配付しております請願文書表のとおり、それぞれ所管の常任委員会にこれを付託いたします。
 なお、委員会の会場はお手元に配付しておりますので、御了承願います。
 お諮りいたします。二月二十八日から三月二日まで及び五日は委員会審査のため休会といたしたいと思います。これに御異議ございませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(向井嘉久藏君) 御異議なしと認めます。よって、二月二十八日から三月二日まで及び五日は休会とすることに決定いたしました。
 次会は、三月六日定刻より会議を開きます。
 本日は、これをもって散会いたします。
  午後三時四十八分散会

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