平成18年6月 和歌山県議会定例会会議録 第6号(尾崎太郎議員の質疑及び一般質問)


県議会の活動

  午前十時二分開議
○議長(吉井和視君) これより本日の会議を開きます。
 日程第一、議案第一号から議案第十八号まで、議案第三十六号から議案第九十号まで、議案第九十二号から議案第九十五号まで及び議案第九十七号から議案第百九号までを一括して議題とし、議案等に対する質疑を行い、あわせて日程第二、一般質問を行います。
 二番尾崎太郎君。
  〔尾崎太郎君、登壇〕(拍手)
○尾崎太郎君 おはようございます。議長の許可を得ましたので、一般質問をいたします。
 昨年末に、藤原正彦先生の「国家の品格」を読みました。大変な名著であります。うれしいことに版を重ねているようで、お読みになった方も多いでしょうが、我が国が直面していますさまざまな問題を解決するヒントに満ちておりますので、御紹介したいと思います。
 この本の真髄は、数学者という論理のエキスパートである著者が、人間というものは論理だけではやってはいけないと主張するところにあります。何と、数学のように論理だけで構築されているような分野であっても、論理ですべてに決着をつけることはできないそうであります。
 正しいか誤りかを論理的に判定できないことが、完全無欠と思われていた数学においてさえあるということを、一九三一年にオーストリアの数学者ゲーデルが証明しました。不完全性定理と呼ばれています。論理は世界をカバーしないのです。そして、著者はさらに、人間にとって最も重要なことの多くは論理的には説明できないと説くのです。
 私は、早くに母を亡くしまして、母方の祖母に育ててもらいました。きかん坊だった私は、生意気な口をたたいてはおばあちゃんに「理屈を言うな」と怒られ、おやじの知るところとなると、「おばあちゃんに何という口をたたくのだ」と、問答無用で大目玉をもらったものです。おかげさまで何とか人並みにはしていただきました。最近は、教師も親も、論理的に口答えをする子供を説得しようとしているようですが、成果が出ていないことは明白であります。子育てに論理は余り有効であるとは言えません。
 資本主義の論理を徹底していけば、時間外取引で敵対的企業買収を仕掛けることは、とりたてていけないことではないのかもしれません。森前総理は「こんな若者が出てくるのは今の教育の成果かな」と皮肉っていましたが、なるほど、一昔前なら卑怯者と言われたであろう若者が国民的スターになっていました。しかし、藤原先生によれば、論理は重要なものであるが、どんな論理であれ、論理的に正しいからといってそれを貫徹していくと、人間社会はほぼ必然的に破綻に至るそうであります。
 資本主義のチャンピオン・アメリカは、弁護士の数が人口比で日本の二十倍、精神カウンセラーの数は五十倍とのことです。資本主義の論理、競争の論理の貫徹は、よほど精神を病ませるものなのでしょうか。くだんの若者も資本の論理に取りつかれ、精神を病んでしまったのかもしれません。
 では、我々はどうすべきなのか。藤原先生は、日本人が古来から持つ情緒を磨き、伝統に由来する形を見直せと言うのです。
 ジョン・ロックの「他人の自由と権利を侵害しない限り自由」という論理、すなわち「だれにも迷惑かけてないでしょ」という理屈は、電車の中で化粧する女子中高生や地べたに座り込む若者を生み出し、果ては援助交際と称する売春を行う自己すらも正当化し、彼女らは罪悪感さえ持つこともない。人は平等であるという美しい論理は、先生も生徒も、親も子供も対等であるという不届きな考えを生み出し、学級も家庭も崩壊しつつあります。
 こうした現状を別の論理をもって子供たちを説得し、改善しようとしても無理であります。子供たちはまたぞろ自己を正当化するための新しい論理を、おばあちゃんの言葉で言うならば「理屈をこねる」だけのことであります。藤原先生の教えでは、人間は利益のためならいとも簡単に見事な論理をつくり出すものなのですから。
 子供たちには、我々が祖先から受け継いできた価値観、作法、慣習を自信を持って押しつけようではありませんか。過去の日本人は今の日本人よりも劣等であると考える人たちはともかくとして、いやしくも歴史・文化を尊重し伝統を重んじるという構えを見せる人であるのならば、祖先が連綿と受け継いできた日本の文化にもっと自信を持ってしかるべきであります。
 「伝統を重んじ」という言葉は、何かの行事に参加したときのあいさつのまくら言葉ではないし、いわゆる伝統芸能のようなものだけが伝統でもありません。食事は「いただきます」と言ってから、はしは正しく持つ。食べ物を挟めるのならどんな持ち方でもいいわけではないのです。同じく、鉛筆の持ち方にも正しい形がある。語り継がれる昔話、敬語、礼儀作法、日常の所作の一つ一つが日本人としての根源的な帰属意識を醸成し、情緒を磨き、安定的で品のある社会、国家を形づくっていくのです。
 教育における伝統の意義について教育長はどのようにお考えなのか、御所見をお聞かせください。
 さて、人間社会は論理だけでは決して解き明かすことはできないという藤原先生の教えを補助線として、我が国の皇統について考えてみたいと思います。
 我が国の皇統は、神武天皇から今上陛下に至るまで百二十五代、一代の例外もなく男系により相続されてきました。男系による相続とは、父方の先祖をたどると神武天皇に行き着くということであります。神武天皇は二千六百六十六年前に橿原宮で即位されましたが、高天原から降臨したニニギノミコトのひ孫に当たり、ニニギノミコトはアマテラスオオミカミの孫に当たります。すなわち、我が国では神様の系図はそのまま天皇の系図へとつながり、それが今上陛下にまで続いているのです。
 今の日本人はこのことをそれほどありがたがりませんが、英語学の渡部昇一先生によれば、教養ある西洋人にこのことをギリシャ神話に例えて話をするとびっくり仰天して、「日本というのは何てすごい国なのだ」と敬意を払ってくれるというのです。
 「トロイの木馬」で知られるトロイ戦争は、スパルタの王妃ヘレネがトロイの王子パリスに誘拐されることが原因ですが、このとき、王妃奪還のためのギリシャ王侯連合軍、総大将がアガメムノンです。アガメムノンはこの世と神話世界のはざまにいるような存在で、系図をたどるとゼウスの神となり、神武天皇をほうふつさせます。例えば、「アガメムノンの直系の子孫が今もギリシャの王であるならば、日本の天皇とはそんなものである」とやるわけです。すると皆、「オーッ」となるというのです。何とも痛快ではありませんか。
 ところで、我が国では、明治維新以来、保守主義の哲学は何かおくれたもののように扱われ、教育の現場でもほとんど顧みられることはありませんでした。私の高校時代も、倫理社会の授業に出てきたのはデカルト、ホッブス、ルソー、ベンサム、フーリエ、ミル、マルクスたちで、いずれも保守主義とは対極にある思想家たちばかりであります。これに対して一六二八年の「権利の請願」の起草者であるコークを濫觴とする保守主義は、不朽の名著「フランス革命の省察」を記し保守主義を確立したバーク、ハミルトン、トクヴィル、アクトン、ハイエク等でありますが、残念なことに我が国ではその名は余り知られてはおりません。これら保守主義に通底するのは、人間の理性など、たかだかしれたものであるとする考えであり、現実社会、日常的で身近なもの、慣習、過去を大切にする態度であります。
 デカルトは、知らぬ者とてない数学者にして大哲学者ではありますが、悲しいかな、ゲーデルの不完全性定理を知らなかった。知っていれば、「経験はしばしば人を欺くけれども、演繹、すなわち他のものからあるものの純粋な推論は、推理力の最も乏しい悟性でさえも、それを誤ることが決してない」などとは、それこそ決して書かなかったはずです。デカルトによれば、証明された確実なものだけが真理であるのでしょうが、皮肉にも真理とは証明され得ぬものであることが証明されてしまったのです。
 思い上がりの哲学とも言うべきデカルトの理性・論理万能主義から演繹的に導かれたホッブス、ルソー、ベンサムらの各思想は、そもそもの前提がおかしいので、現実からどんどん遊離していき、社会を統べている説明のつかない真理や自然的に発生した社会制度、秩序といったものを無視してしまうか、あるいはそれらを破壊せしめる方へと向いていきました。そしてマルクスは、設計主義的合理主義に基づき、国家を設計可能なものであると妄想したのでした。もとより、社会、国家は説明のつかない真理、原理、諸制度によって統べられているのですから、この試みが失敗するのは必然であったと言えましょう。
 有識者会議なるものが「我が国の皇統を制度設計する」などと言ったそうですが、制度設計された皇統の断絶が必然であるのは、制度設計された国家・ソ連の崩壊が必然であったかのごとくであります。もし、有識者会議の答申に沿って皇室典範を改正するならば、たとえそれを有識者会議が望んでいないにせよ、皇統は断絶せざるを得ないのです。
 保守主義はコークに学び、慣習は法であるとします。法・ローは、議会において立法された法律・レジスレーションとは違います。法を英和辞典で引きますと、おきてや神の教え、慣習といった訳が出ています。議会なるものができるはるか以前から人間社会は存在していたのであり、その社会を統べる人知を超えた真理、原理、それがロー・法であります。したがって、ロー・法は制定されるものではなく、発見されるたぐいのものであります。そして、法の支配とは、祖先から連綿と受け継がれてきた慣習、すなわち法に抵触するような法律は制定してはならないということなのです。
 皇室典範を起草した井上毅は、我が国の歴史を貫く男系男子万世一系の原理、ロー・法を皇統史の中に発見したのです。国民も国会も、まことに恐れ多いことではありますが、天皇もまたその支配に服すものであります。
 皇室典範は明治天皇のもとで制定されましたが、その注解書である「皇室典範義解」には、皇室典範は「君主の任意に制作する所に非ず」とあり、皇統に関し、天皇の意志は祖宗の遺意の下位にあるとしたのです。「さだめたる 国のおきては いにしえの 聖のきみの み声なりけり」、「さだめたる 国のおきては いにしえの 聖のきみの み声なりけり」──この歌は明治天皇の御製であります。
 繰り返しになりますが、井上毅は皇室典範を起草はしましたが、それは皇統を貫く原理、法を発見し、明文化したにすぎないのであり、決してみずからの思想信条などで創作したものではありません。
 女系天皇と女性天皇の違いについては、皇室典範の改正が話題になって以来、さまざまなメディアで取り上げられてきましたので御理解なさっていることだとは思いますが、過去八人、十代の女帝が存在していました。いずれも男系の女帝であります。
 愛子内親王殿下がもし御即位なさっても、男系の女性天皇であり女系ではないので、愛子天皇については問題はなしとする言説が、ゆゆしきことに保守派の中からも出てきています。もっとも、小泉総理は「愛子天皇のお子さまが男の子でも反対するのか」と言ったそうでありますから、果たして男系継承ということをわかっておられるのか、不安になってきます。
 それはともかくとして、過去に女帝が即位したのは、今日我々が直面している皇位継承者の不在という理由からでは断じてありません。いずれの場合も皇位継承者はかなりいたのですが、適当な皇子に継承させるべく、政治的配慮から一時的に女性天皇が即位したのであり、あくまでも中継ぎでありました。であればこそ、八人の女性天皇はだれ一人として子供を産んではいないのです。
 今回の質問に際して、皇室典範に関する有識者会議の議事次第に目を通してみました。第七回に拓殖大学客員教授の高森明勅先生からのヒアリングがあったのですが、高森先生は、「元明天皇と草壁皇子が御結婚されまして生まれました、氷高内親王。この方は草壁皇子のお子様という位置づけであれば、氷高女王でなければならないわけですけれども、内親王とされておるわけで、この方が皇位を継承されまして、元正天皇ということで、女帝の子が過去に皇位を継承した実例をここに一つ指摘することができるわけでございます」などと述べておられます。しかし、元正天皇の母は阿閇皇女であり、阿閇皇女は氷高内親王を草壁皇子の皇女として産んだ後に元明天皇として即位しているのであって、女帝元明天皇が産んだ子が天皇になったわけでは無論ありません。高森先生ほどの人がこのような事実を知らないはずはなく、何か作為的なものを感じざるを得ません。
 我が国の皇統には、女系の男子も女系の女子も存在してはおりません。元正、孝謙、明正、後桜町の四方は独身で即位し、そのうちの三天皇は即位した後も生涯独身を通しました。孝謙天皇だけは後の称徳天皇として重祚しますが、独身のまま天皇として崩御しています。あとの四方、推古、皇極、持統、元明天皇は、即位のときは未亡人であり、その後は独身を通しております。女性天皇は、中継ぎとして例外的に存在することはあるが子供は産まない、あるいは子供を産まないことを絶対条件として中継ぎにはなることができる、このこともまた皇統史を貫く法であります。
 したがって、この法によれば、万が一、愛子内親王殿下が天皇に御即位なさった場合、生涯独身を通されなければならず、そうされたところで皇統の断絶を一世代おくらせることにしかならないわけです。また、愛子内親王殿下が女性皇太子に立たれるとするならば、前例は、孝謙・称徳天皇となった阿倍皇太子の一例のみであります。称徳天皇と僧・道鏡との関係はよく知られるところですが、和気清麻呂なかりせばと、想像するだに恐ろしいことであります。
 第八回有識者会議では、「男系を重視する立場の人達は、『男系主義の歴史的重みを重視すべき』、『男系主義というものは歴史上確立された原理である』と主張するが、なぜ男系であるのかということの理由は必ずしもはっきりしない。現実に続いてきたことが大事だということはあるにしても、なぜ男系が大事かということについては、歴史的にも説明されていないのではないか」という意見が述べられています。
 この種の意見に対して高崎経済大学の八木秀次先生は、男系継承の意味をY染色体の継承に求めておられます。「Y染色体は男性にだけあるので、初代の男性のY染色体はどんなに直系から血が遠くなっても男系の男子には必ず継承されている。したがって、男系男子による皇統は初代神武天皇の染色体を引き継ぐが、女系男子ではこの限りではない」とするものです。進化生物学の専門家、同志社大学の蔵琢也先生は、「今上陛下や皇太子殿下は、父親をずっとたどっていけば古代の天皇たちにつながり、したがって、伝説の神武天皇やヤマトタケルノミコトとほぼ全く同じ染色体を持たれるのである」と述べられ、それを「Y染色体の刻印」と表現されておられます。
 八木先生によれば、天皇、皇族の正当性の根拠は純粋な男系継承によるY染色体の刻印なのであり、純粋な男系以外、天皇、皇族にはなり得ないのです。実は、純粋な男系以外のすべてが女系であり、女系の子孫が一般国民であるとするのです。
 八木先生や蔵先生の説は非常に説得力があり、万世一系の皇統の重みというより、その悠久のロマンはすごみすら感じさせるものであります。しかし、あえてここでは藤原流で有識者会議に反論をしておきます。
 なぜ、男系でなければならないのか。それは、論証不可能な大きな価値の前に我々は謙虚にひざまずくべきだからであります。論理を超えた日本文明の深層に流れる何かを感じ、畏怖するからであります。
 縄文杉と呼ばれる杉があります。杉と言えばただの杉でありますが、太古の昔から数千年にわたって命をつなげてきたその杉の前に立つとき、日本人であれば自然と手を合わせるのではないでしょうか。なぜなのか。論理で説明することはできません。しかし、その杉の前で自然に手を合わせることに我々は大いなる価値を見出してきたのです。縄文杉は理屈抜きで保守すべきものであるはずです。縄文杉でなくとも、例えば庭に生えている一本の木を切ろうとしたところ、実はその木には自分が生まれた記念に祖父が植えたといういわれがあったとわかったとしても、その木を何のためらいもなく切れるでしょうか。木は木にすぎないとまゆ一つ動かさないでおのを振るえる人ばかりになれば、もはや日本文明の終えんは避けることはできないでしょう。
 皇統を考えるとき、今を生きる我々だけの世論調査など、私には特に意味があるとは思えませんが、女性・女系天皇についての世論調査をするのならば、せめて我が国皇統の最低限のいわれを国民に伝えてからにしてほしいものです。
 日本でもベストセラーとなった「文明の衝突」の中でハンチントンは、日本文明を世界の八大文明の一つに数えています。しかも、「世界のすべての文明には二カ国ないしそれ以上の国々が含まれている。日本がユニークなのは、日本国と日本文明が一致しているからである」と述べています。灯台もと暗し、我々は日本に住んでいるので、この日本文明の独自性に無自覚でありました。なぜ日本国と日本文明は一致するのか。それは、日本国とは天皇をいただく国のことであり、日本文明とは皇統そのものにほかならないからであります。
 皇統二千六百年にわたり我が国の中心に屹立した大樹、その種子からすべての日本的なるもの、文化が生み出されてきたのです。日本的なるものを憎悪する者か日本人としての情緒が欠落した者以外に、この大樹におのを振るうことなど夢想だにできないはずであります。
 ちなみに、手段を選ばず自社の株価をつり上げようとした若者は、「憲法が天皇は日本の象徴であるというところから始まるのは違和感がある」と述べています。彼のように、そもそも皇室なんて要らないとする意見もあるでしょう。別になくても困らないからというのがその主な理由でしょうが、確かに皇室がなくとも人間はこの列島に生存していくことでしょう。しかし、生存するだけなら文化も世界遺産も別に要らないではないですか。記者会見にTシャツで臨むことや寛仁親王殿下の御見識を「どうということはない」と切って捨てることは、少なくとも品があるとは言えますまい。高貴なるものを感じ取れる情緒なくして、とても品格ある国家は築き得ないのです。
 すぐれた情緒を伴った真の知性には我が国の皇統がどのように映っていたのかを御紹介しましょう。
 「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴いていることが、今日の日本をあらしめたのである。私にはこのような尊い国が世界に一箇所ぐらいなくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。そのとき人類は、まことの平和を求めて、世界的盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それには、アジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」。アルバート・アインシュタイン。
 我が国の皇統は、本県における高野・熊野がそうであるように、我々だけのものでも、我々の世代だけのものでもなく、また日本だけのものでもありません。日本が誇る世界人類共通の至宝なのです。
 七世紀のチャイナの史書「隋書倭国伝」には「日本人はとても物静かで、争いごとも少なく、盗みも少ない。性質は、素直で雅風がある。気候は温暖で、草木は青く、土地は肥えていて美しい」とあり、十六世紀にフランシスコ・ザビエルは「日本人は慎み深く、才能があり、知識欲が旺盛で、道理に従い、すぐれた素質がある。盗みの悪習を大変憎む」と記しています。さらに十九世紀には、ペリーは「日本人は大変清潔好きで、勤勉にしてよく働く。そして礼儀正しく、親切だ」と本国に手紙を書きました。二十世紀にはアインシュタインが、「以前に日本人が持っていた生活の芸術家、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って忘れずにいてほしい」と述べています。
 どうでしょうか。我々の祖先は日本の美風をしっかりと受け継ぎ、後世へと伝えてきてくれたのです。我が国の美風、それは皇統にほかならないのであり、我々の世代もまたこれを受け継ぎ、伝えていかなければなりません。相続の義務を果たさねばならないのです。
 小さいころ私は父に、「天皇陛下って何の仕事をしているの」と質問しました。父は、「天皇陛下のお仕事は日本国民の幸せをお祈りすることだ」と教えてくれました。幼心に、私は妙に納得したのを覚えております。父となった私は、息子が私と同じ質問をし、自分が父に教えてもらったように息子に答える日が来ることを楽しみにしているのです。
 日本国民の相続の義務を果たすべく設置されたはずの有識者会議は、「皇室典範を国民の平均的な考え方で議論する」とし、「歴史観や国家観でこの案をつくったのではない」と言い放ち、報告書を提出しました。彼らの頭の中にある「国民の平均的な考え方」とはどのようなものなのか。国民とは当然日本国民のことですから、いかなる考え方であっても、その根底には歴史観や国家観があるはずです。それらをしんしゃくしないということですから、彼らの言う「国民の平均的な考え方」なるものは、恐らく歴史観や国家観とは遊離した無国籍な彼ら自身の理性のことなのでしょう。
 無国籍な理性による皇室典範に関する会議、藤原流に言うならば情緒なき理性による皇室典範に関する会議、バーク流ならネイキッド・リーズン、裸の理性による皇室典範に関する会議、そこから導き出される結論は、彼らの知能が高いがゆえに、げに恐ろしきものになってしまったのです。すなわち、女系天皇の容認、皇位継承順位における長子優先であります。このような結論に沿って法改正が行われるならば、皇統の断絶は一〇〇%確実であります。実は、男系継承の法こそは万世一系のための唯一の手段だと言えるのです。
 「文藝春秋」の今月号に驚愕すべき話が載っています。有識者会議のある委員は、「このような報告書が皇室の流動化、もしくは崩壊につながるとしても、それでも報告書に異論はないか」との問いに、何と「ありません」と答えているのです。論理、理性の暴走、ここにきわまれりであります。
 では、我々は断絶の危機に瀕する皇統を何をよりどころとすれば護持し得るのでありましょうか。
 「中世の秋」を書いたホイジンハは、「衰亡と夜の気配を感じるとき、いつの世でも高貴な精神は祖父の知恵を保守し、これを行動の規範として後世の子孫に伝えようとした」と教えてくれています。父祖の知恵によれば、我々が皇統護持のためになすべきことは明白であります。すなわち、臣籍降下された旧皇族の皇籍復帰であります。有識者会議の報告書には「これらの方々を広く国民が皇族として受け入れることができるか懸念される」とありますが、全くの杞憂であります。
 あってはならぬことですが、有識者会議の報告書に沿って、愛子天皇が御即位なさったとして、その皇婿にどこのだれともわからない者がなる可能性の方がよほど日本国民として受け入れることができません。私のような取るに足らない者の息子でさえ、理屈としては皇婿陛下と呼ばれる可能性がないとは言えないのです。臣尾崎が皇族となる、天地がひっくり返るとはこのことであります。これは、皇統の断絶そのものではないですか。そんなばかげた話を良識ある日本国民のだれが受け入れるというのでしょうか。
 元皇族の竹田恒泰氏は、ことし出版された「語られなかった皇族たちの真実」という著書の中で、「皇室の尊厳と存在意義を守り抜くために旧皇族の男系男子は責任を感じなくてはならない」と述べ、皇籍復帰への決意を表明されました。この本もよく売れているようですが、竹田氏の決意に対する賛意こそ聞け、非難の声は聞いたことがありません。早急に旧皇族の方々の皇籍復帰の法整備を進めるべきであります。
 昨年の十一月に有識者会議の報告書が出て以来、皇統の断絶がいよいよ現実のものとなりつつありました。私は名もなき一地方議員にすぎませんが、日本国民として皇統の護持のため、いかなる努力も惜しまぬ覚悟で微力を傾注してまいりました。しかし、今国会の小泉首相の施政方針演説を聞いて思わずくじけそうになったことは恥じ入るばかりであります。もうだめかと思ったそのとき、皇祖皇宗、神霊の御加護でありましょうか、秋篠宮妃紀子殿下御懐妊との報がありました。我が国を覆っていた暗雲が一掃され、国じゅうが歓喜の声に沸き立ちました。日本国民として心からお祝いを申し上げ、願わくは玉のような男児の御誕生をお祈り申し上げます。
 今回、我が国国体の変容をもたらしかねないほどの影響力を持ってしまった有識者会議の委員が、これが首相の私的諮問機関だったとしても、どのようにして選任されたのかは今後明らかにされなければならない課題であります。
 本県におきましても、法令、条例に設置根拠を持たない各種審議会の委員はどのようにして選ばれているのか。無論、最終的な任命は知事であるにしても、選任事務はどのようになっているのか。また、そのような各種審議会はどのようなものであるべきなのかを総務部長にお尋ねいたします。
 また、我が国の皇統は、日本文明、文化、日本的なるものの源泉あるいはそのものと言うべきであり、その本質は論理では説明し得ないことは、るる述べてきたとおりであります。
 本県の男女共同参画推進条例第三条の二は、「男女共同参画の推進に当たっては、社会における制度又は慣行が、性別による固定的な役割分担意識を反映して、男女の社会における主体的で自由な活動の選択を制約することのないよう配慮されること」となっています。この条文における配慮する主体はだれなのか。県なのか。県であるとしたら、どのようにして当該制度や慣習が男女の社会における主体的で自由な活動の選択を制約しているのかを判断し得るのか。
 次に、森山眞弓官房長官が、かつて大相撲の優勝力士に総理大臣杯を授与したいと発言し、土俵に女性は上がってはいけないということをめぐってさまざまな意見が交わされました。日本相撲協会は「土俵は男子のみのものという決まりであります。伝統なのですから、守ります」と敢然と主張し、これを拒否しました。このようなことについて、男女共同参画の観点からどのように考えるか。
 以上、環境生活部長にお尋ねして、質問といたします。
○議長(吉井和視君) ただいまの尾崎太郎君の質問に対する当局の答弁を求めます。
 総務部長原 邦彰君。
  〔原 邦彰君、登壇〕
○総務部長(原 邦彰君) 審議会についてのお尋ねがありました。
 まず審議会の委員の選任についてですが、それぞれの審議会の設置目的やその趣旨等を踏まえ、所管する部局においてその分野の専門的知識を有する方や関係団体等の中から適切な人材を候補者として幅広く選んだ上、関係部局と協議しながら最終的に適任者を選任しているものと認識しております。
 次に審議会の設置目的ですが、さまざまな分野の専門家の方の意見聴取のために設置するものであり、専門的知識の導入、公正の確保等が主な目的であります。
 なお、職員の活用等、ほかの方法により所期の目的を達することのできる場合については、いたずらに審議会を設置しないよう指導を行ってまいります。
 以上でございます。
○議長(吉井和視君) 環境生活部長楠本 隆君。
  〔楠本 隆君、登壇〕
○環境生活部長(楠本 隆君) 男女共同参画の理念に関する御質問にお答えを申し上げます。
 平成十四年度に実施した男女共同参画に関する県民意識調査によりますと、「男は仕事、女は家庭」といった固定的な男女の役割分担意識に否定的な方の割合が約半数を占め、また男女平等の意識につきましても、約三分の二の方が家庭生活や社会通念、慣習、しきたりなど社会全体で男性の優遇を感じているという結果となっております。
 しかしながら、我が国には古来連綿と受け継がれてきたよき伝統や文化が数多くあり、これらを尊重することは重要な意義を持つものと考えております。しかしながら一方、新たな価値観を持って生きていこうとされる方がおられることも事実でございます。男女共同参画は、こうした多様な価値観を互いに認め合いながら男女の人権が尊重され、豊かで活力ある社会を実現するため推進するものでございます。
 県といたしましては、条例を制定し、県や県民、事業者の皆様方を含め、あらゆる主体が家庭、職場、地域、学校あるいは事業活動などあらゆる場におきまして、性別にかかわらず一人一人が個性と能力を発揮できる社会の実現を目指すものでございます。
 大相撲の問題につきましては、平成十六年三月、日本相撲協会が実施したアンケートによりますと、「伝統は守るべきだ」と答えた方が全体の約七〇%になったと聞いております。
 いずれにいたしましても、多様な価値観を互いに認め合いながら男女の人権が尊重される社会の実現を目指すことが肝要であると認識しております。
○議長(吉井和視君) 教育長小関洋治君。
  〔小関洋治君、登壇〕
○教育長(小関洋治君) 教育における伝統の意義についてお答えいたします。
 長い年月にわたり形成され受け継がれてきた価値観や物の考え方、さまざまな様式など、時代を超えて脈々と息づいている伝統には、人々の生活や心のよりどころとして、また一人一人の行動を律し豊かな人間関係を結ぶ支えとして重要な意義を持つものが少なくないと思っております。
 教育においてそうしたよき伝統に対する尊敬の念と自覚を促しそれを継承させる営みは、子供たちを人間としてより大きく成長させる上で、またみずからのアイデンティティーを確立させていく上で、極めて大きな役割を果たすものであると考えております。
 現在進められている教育の基本的な考え方の一つに、我が国の文化と伝統を理解し、それを尊重する態度を育成することが重視されております。国際化が進んでいるだけに、なおさら日本人としての自覚を持って主体的に生き、未来を開いていく上で自国や郷土の伝統、文化の価値を子供たちが深く理解することは極めて重要であります。そのことを通して他国の文化や伝統を尊重する態度もまたはぐくまれるものであると思っております。
○議長(吉井和視君) 答弁漏れはありませんか。──再質問を許します。
 二番尾崎太郎君。
○尾崎太郎君 教育長の答弁のとおりであると思うんですが、教育において伝統、慣習を重んじるということの教育効果というのは非常に高いものがあると思うんです。一方、男女共同参画の理念の中には、非常にいいものもあるんですけれども、しかし、例えばその慣習がどうして日本の社会に悪をなすものであるのかどうかということを判断し得るのか。それは単に、今に生きている我々が、余り賢くない頭でそれは害になるんじゃないかなと判断しても、よくよく考えてみればそれが大事な習慣であったということは、よくあることなのであります。
 したがって、明確に男女雇用や法的な側面、公的な救済措置を講じなければならないほどの悪癖、悪習があったとするならば、それは個別の立法をもって縛るべきであって、このような一般的な理念を制定したとしても、余計に私はこれは害になるんではないかなと思うんです。
 民主主義というような非常にだれも疑いのないと思っているような価値でも、ワイマール憲法という当時としては一番民主的な憲法のもとでヒトラーという独裁者が出てきました。これは、国民の平均的な考え方どころか、圧倒的な国民の支持の中でヒトラーというものが生まれてきた。
 一つの理念を絶対視して、その理念が果たして正しいかどうかというのはわからないにもかかわらず、その理念から演繹していろんな政策を進めていくということは非常に危険であるわけであります。だからこそ、長い間続いてきた慣習、伝統、制度というものを尊重するということであります。
 しかし、その中には、もしかすれば明確に、あるいは明白に女性の人権を阻害するものがないとは言えないのかもしれません。私は余りないと思いますけれども、しかし、それは私の判断でありますから、ないとは言えないのかもしれません。しかし、その場合は、そのようなものが明白であるならば立法措置を講じればいいわけであります。それは、一つにはいわゆるDV法。家庭内における暴力というようなものが明確に社会問題となるのであれば個別の立法で対処していくべきだということを意見として申し上げさしていただきまして、質問を終わりたいと思います。
 ありがとうございました。
○議長(吉井和視君) ただいまの発言は要望でありますので、以上で尾崎太郎君の質問が終了いたしました。

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