平成13年6月 和歌山県議会定例会会議録 第5号(西本長弘議員の質疑及び一般質問)


県議会の活動

 質疑及び一般質問を続行いたします。
 八番西本長弘君。
  〔西本長弘君、登壇〕(拍手)
○西本長弘君 「和歌山縣災害史」によりますと、昭和二十八年七月十七日から翌十八日にかけて県北部を襲った梅雨前線による豪雨は物すごく、未曾有と言うべき惨禍をもたらした。この豪雨は十八日の未明に最も激しく、有田、日高の両郡東部から奈良県南部にかけての二十四時間雨量は四百五十ミリ以上の大量に及び、このため有田川、日高川、貴志川を初め、各河川は大洪水となって、明治二十二年の大洪水以上の水位を記録した。この豪雨で、山地は山津波を起こし、平地では堤防がずたずたに破壊され、土石や流木を交えた濁流は一瞬の間に人畜、家財、耕地などを一のみにし、各地に壊滅的な被害を起こした。このときの大洪水は文字どおり未曾有のものであって、一瞬にして死者六百十五人、行方不明四百三十一人のほか、重軽傷者は六千六百十九人、住家の全壊流失は八千六百戸、罹災者総数は二十五万に近く、被害額も八百億をはるかに超えるものである。
 県では、応急救助と防疫のため七億四千二百二十万円を計上して万全を講じたが、小野知事は「百万縣民に訴える」の中で次のように述べている。──これは皆さんに配付をさせていただいておりますので、私からは読み上げません。ご了承ください。
 小野知事は、即刻みずから飛行機に乗って空から現地の被害状況を視察し、また道もない現地へ赴いて被災民を慰問激励し、県の全職員を動員し、あらゆる官民団体の協力を懇請して救済に全力を傾注したとあります。
 この中で、私はおわびを申し上げたいんですが、「死者」あるいは「行方不明者」という表現がありますが、私は「亡くなられた方」、「行方不明になられた方」、こういう気持ちでございますので、ご了承をいただきたいと思います。
 二十八年の大水害発生で県議会は、七月二十日に次のような声明書と決議文を発表したとあります。──これも、もう皆さんのお手元に資料として配付をしておりますので、読み上げることをいたしません。
 私はここで、亡くなられた方々に、心から改めてご冥福をお祈り申し上げる次第であります。
 世界のいずれの国におきましても、その国で起こった戦争や紛争、内戦あるいは天災などの悲惨な光景がフィルムとして残されています。それは悲しいことでありますけれども、二度と再び国難や郷土の悲劇を起こさないためにも、その貴重な記録が必ず後世に役立っていると私は思います。
 私の手元に、家内が夫より大事にしていた「七・一八水害誌」があります。嫁入り道具はこれ一つだけ。知事にもこれを先日見ていただきましたが、当時の水害を体験した人々、またそのときにとうとい命を救ったという人々が今、元気に生活されています。本県の歴史において最も大きな災害であったと言えるこの二十八年七・一八水害から、知事、再来年で五十年目を迎えることになります。
 先般、県議会の大先輩である樋口徹先生がつくられた田辺市の文里港の映画を見せていただいて、心から樋口先生に敬服をしながらヒントを与えていただいたのが、この映画をつくることであります。
 そこで、知事にも直接お会いしてお願いをいたしているのですが、この「七・一八水害誌」をもとにして記録映画をつくり、テレビ和歌山で放映し、県民の方々にビデオを頒布されてはどうか。これは、悲惨な大水害を記録しておくというだけでなしに、後世に二度と再びあのような大水害がないことを心から願ってのことであります。知事の、「それはいいことだ。ぜひつくろう」との答弁を願いたい。
 私は、水害の年は中学校の一年生でありましたが、マツダの三輪車──これはだれかが「バタコ」と言っていたけど、私は「バタコ」と言わない──に積まれた救援物資を配って回った日のことを思い出します。その後、地区住民のダム建設反対運動が大きくなりましたが、幸い、地元清水町民の皆さんの深い深いご理解のもとに、昭和三十八年四月には着工にこぎつけ、昭和四十二年三月、総事業費三十六億円でダムが完成されました。そのおかげで、有田川下流に住む我々住民は、水害の心配がなくなりました。
 ここから、知事、大事やで。これはゆゆしきことです。
 しかし、昭和六十一年七月十二日、土曜日の夜、二川ダムに勤務していた放流資格のある職員全員が、皆さん、自宅に帰っておったんです。さらに、その大雨のためにダムが満々とした水で、当時は県道でありましたが、その県道から手を洗えるぐらい、ダムがいっぱいになっておった。これは、本当の話ですよ。
 当時、その県道から手が洗えるようなありさまで、そういった中、命からがらダムにたどり着いた職員によって水が放流されました。車がつかり、ハッサク畑が荒れるなど、ダム下流は大洪水となりました。これは天災でなく──橋本議員、笑わんと聞いておいてくれよ──まさに人災であると、私は思うのであります。後日、当時の仮谷知事がおわびの有田入りをしているのであります。
 そうした中で、もう一つ提案があります。地元の方々は発電のためにためているダムの水は、土木部長、「死の水」と言わんといてくれと言うけど、地元の方は、ダムの水は死の水だと言っているんです。有田川の安全と環境を守っていくためには、清らかな水を三百六十五日流すべきだと思います。
 そのためには、すぐとは言わないが、当然、発電をやめなければ有田川に清らかな水が戻ってきません。私が調べた範囲では、我が国では電気の自由化と不景気で、知事、電気が余っているんです。わかりますか。関電の海南発電所は、四基のうち二基までとめているんです。それから、御坊は三基のうち一基がとまっているんです。知事、電気が余っているという証拠や。電力会社のある方に聞きますと、岩倉発電所の電気も、過去には必要なときがあった、ところが、もう今はその必要がないと言っている。人の命、人の財産、環境と岩倉発電所の金、どちらが大事かということを真剣に考えてほしいと思うのであります。私は、人々とアユ、地球に喜ばれる河川にしていかなければならないと強く思うのであります。
 生駒議員、有田市の今度の水害な、木はこんなんや。部長、まだこれより高い。一つも切ってやれへん。それから、原稿にはないけれども、蛇とハビ。知事、あなたはハビを知っていますか。川へ行けないんや。なあ、吉井議員。蛇とハビで危なくて、草の中に行けないんや。だから、知事、子供も大人も、女性の方も男性も、やっぱり河原で遊べるような環境にしてほしい。お願いします。有田川をきれいにする方策について、知事の積極的な取り組みをお願いします。
 発電をやめよと言うても、答えられないでしょう。だから、わしは要望にとどめてある。そのうち──玉置和郎先生が「三年言うてたら何でも実現する」と。先生、三年言うてたらできるということは、別に三年でなくても、まあ、しょっちゅう言うてよということや。そしたら成るんや、先生の言うことも。
 なお、先日、清水町で開催された紀の国「川の日」で、田中清水町長さんと嶋有田川漁業協同組合長さんとお会いできました。町長さんの話によると、一千二百万円をかけて清水町内の有田川を、町職員全員、それから住民の方々、県庁の職員の方々も──この人も掃除してくれたんや。ちょっとテレビ、映してあげてくれ。
 そこで、町民の方々とともに掃除をしてくれた。その中には、ジュースの缶やナイロン、ビニール、また古い車が、知事、何台あったと思う。副知事、何台あったと思う。部長は。──ひとつも知らんな。実に、三百六十五台が捨てられてあったんです。清水町だけですよ。これまだ、金屋町もある、吉備町もある、有田市もある。そんな状態なんですよ、知事。
 私は、この田中町長さんや清水町職員、今おられた方に心から敬意と感謝を申し上げたいと思います。知事、このような自治体に、交付税を余分に渡すとか、何かご褒美を渡すなりしてはどうかと思いますが、いかがなものですか。
 去る十六日の新聞に、「平成十五年から「海の日」と「敬老の日」を七月、九月の第三日曜日にそれぞれ変更し、土曜日を含め、三連休とすることなどを定めた改正祝日法、老人福祉法が十五日午前の参議院本会議で可決・成立した」と報ぜられています。私は、「敬老の日」を九月十五日と定めていることに対し、当時及び現在の政府と国会に一体真の敬老の精神があったのだろうかと、以前から不思議に思っています。
 九月というのは、真夏の厳しい暑さに続く、残暑の極めて厳しいときであります。私は毎年、町の自治会から九月十五日の「敬老の日」に来賓として招待されますが、ほとんどの会場には、ここのようなクーラーがないんです。会場はむんむんしています。暑さでむんむんしている中へ、早朝からつくった幕の内弁当を置いているんです。「費用が要りますので、私の分は用意せんといてください」と──笑うが、本当に断っているんです。町及び自治会に申すんですが、各会場では帰り際に、知事、弁当をくれるんや。そうしたら、もう十時半ごろから行って帰りが四時ごろ。車の中に入れた幕の内弁当は、食中毒が怖くて食べられない。だから、自宅に帰ったら、はしをひとつもつけずに捨てるわけです。知事、もったいない話や。それでも、暑さの中で時間がたっている弁当なので、食中毒が怖いんです。家に帰ったら、ご高齢者の方々が食中毒にならないようにと、毎年願っているんです。
 知事、全国的に見て一年で食中毒が最も多い時期はいつと思いますか。七月、八月、九月、十月が一番。あなたのおっしゃるとおりです。我が県内でも三年前に、どことは言いませんが、一会場で八十八人のお年寄りの方が──「お年寄り」とは言わないんや。「人生経験豊かな大先輩」の方が八十八名、食中毒に遭った。なぜ、そんな残暑の厳しい食中毒の多い九月に「敬老の日」を定めたのでありましょうか。
 二、三年前、私は当時の厚生省の課長等に抗議の電話をしたんです。そうしたら、ファクスで二枚のコピーが戻されてきた。そして、「敬老の日」の制定の経緯の中に、こんなに書いてある。「九月十五日とされた理由」として「社会福祉法人全国社会福祉協議会を中心に、九月十五日の年寄りの日の運動が──わし、これ気に食わんのや。「年寄り」と書いてある。「お」もついていない。「お」ぐらいつけてやったらどうな。「年寄り」と言うのは失礼やと思う。「お年寄り」やったらまだいいんや──年寄りの日の運動が実施され、全国的に普及していたので、──ここに米印を入れてある。この米印は後で言いますが──このような実態に立脚したことが最も適当であると認めたからである」ということでございました。
 そして、先ほどの米印のところに、「昭和二十五年に兵庫県が敬老思想の普及と老人福祉増進を目的として、九月十五日を「としよりの日」と定めた」。ここにも「お」がついていない。気に食わん。
 「全国社会福祉協議会は、これに着目し、全国に呼びかけ、昭和二十六年から「としよりの日」、──これも「お」がない──及びこの日を起点として年寄りの福祉週間の行事を実施するようになった」と。
 ここにも「お」がない。「「としよりの日」を九月十五日と定めたのは──関係の部長はどなた。あなた。聞いておいてくれよ──この季節が農閑期であり──ご高齢者は農家の方ばかりじゃないんや──行事を実施するに当たっても快適である」と。九月十五日は快適かの。快適と思う人は一遍、手を挙げてくれ。──だれもないやないか。
 さらに、「昭和四十一年に──これもまた「老人の日」と書いてある──「老人の日」が「敬老の日」に改められて、国民の祝日に制定された」と、知事、あるんです。
 木村知事が「敬老の日」を九月に決めたわけではないが、知事、九月の「敬老の日」は、ご高齢者にとっても、また国民にとっても快適で適当な日と思われますか。知事、思わんやろ。ご高齢者は、明治、大正、昭和、平成と、国のため、社会のため、郷土のため、地域のため、家庭のために、汗と涙で営々と働いてこられた方々であります。そのご高齢者をもっともっと敬い、深い謝意をささげるならば、今のように厳しい残暑の季節でなく、「敬老の日」は全国的にもっともっと気候のよい、例えば春や初夏に改めるべきではないかと、強く訴える次第であります。
 知事に七月十八日の全国知事会で発言してほしいと思っておったけど、県の職員が毎日来て「知事に言わさんように」と。知事、わしは知事が金屋町などの敬老会の実態を知らないと思う。知っておったら、七月十八日の知事会でばんと言うわけよ。そうしたら、あなたは全国で一番ご高齢者を尊敬する偉い知事やとなるんですが、よう言わんというから、それはもう仕方ない。三年間しゃべっていたら、お願いをしていたら、知事も──全国知事会で言うていただくと、知事の名声も上がるんですよ。
 仮谷知事があの半島振興法を全国の知事会で提案してくれたので、できたんです。仮谷さんが言うてくれてなかったら、成ってない。要らんことを言うて悪いけど、今、県内で合計二千五百六十億ほど道路をやってくれてある。だから、元知事の仮谷さん──「さん」と言うたら悪いな。仮谷先生にお礼を申し上げないといかんと、私はいつも思っております。
 木村知事も、全国知事会で──もうここで答えを言わんでもいいと言うてあるけど、ひとつ考えてほしいと思います。
 以上で、終わります。ありがとうございました。
○議長(阪部菊雄君) ただいまの西本長弘君の質問に対する当局の答弁を求めます。
 知事木村良樹君。
  〔木村良樹君、登壇〕
○知事(木村良樹君) 二十八年の水害の記録映画をつくってはどうかとのご質問でございます。
 この災害は和歌山県に非常に多大な被害をもたらしたということで、私も先般申し上げましたように、防災ということが非常に大事だという観点から、いろんなことに取り組んでいるところでございます。
 もう五十年たつということでございますので、県民がその大変な被害、そしてまた犠牲になられた方を忘れることのないようなことをやっぱり考えていかないといかんと思っております。そしてまた、その中で過去の教訓を広く伝えて後世に残すという意味で、ご提案の記録映画というのは大変有意義なものであると考えております。戦後の引き揚げの実態を記録した「語り継ぐ我が心の文里港」の映画の手法を参考にし、県内各層の参画を得ながら、広く浄財を集めて作成に向けて取り組んでまいりたいと考えております。
 それから、「敬老の日」の問題でございます。この間、ずっといろいろ教えていただきまして、本当に暑いときだということで、大変と思います。
 「敬老の日」は、多年にわたり社会に尽くしてこられた人生経験豊かな大先輩の皆様を敬愛し、長寿を祝う日でございます。人生の大先輩を敬う気持ちは私も議員と同じでございます。
 「敬老の日」や行事としての敬老会のあり方につきましては、県としても、ご指摘を十分踏まえ、よく研究してまいりたいと考えております。
○議長(阪部菊雄君) 答弁漏れはありませんか。──再質問を許します。
 八番西本長弘君。
○西本長弘君 もう言うことがないんですが、ちょっと言わせていただきますと、去年の九月十五日に、何十年も揚げてきた日の丸、わしとこには三本ある。事務所に一本、居宅と事務所の国道側。去年の九月十五日、腹が立って日の丸を揚げなかったんや。そんな暑いときに何で敬老会をするんですか。
 私は、当時の国会議員、あるいは政府の要人というか官僚──ここに「「官」の発想は国を亡ぼす」という本を持ってあるけど、兵庫県の九月十五日をそっくりそのまま、検討もせずに厚生省の官僚と国会が決めてある。本当に不思議でかなわん。知事、おかしいやないか、日本の政府は。
 知事、ことしの九月十五日に一遍、金屋町へ来てくれよ。そして、一緒に暑い中で弁当を食べてくれよ。そうしたら、知事もわかってくれるんや。わしは国会議員と違うから、ここでほえておかないと仕方ないやろ。
 馬頭前議員、それからここにおられる町田議員、岸本代議士、世耕参議院議員も、九月十五日を変えることを賛成してくれました。だから、七月十八日に言わなくても構わないけど、頭へしっかり人生経験豊かな人を──ちょっと賢明な自治会は皆、四月二十九日に敬老会をするんです。それなら飯を食べなかったらいいじゃないかと思うやろ。ところが、有田郡のある町で、舞台で芸能人が踊ったら、会場にクーラーがないから汗でぼとぼとになって、「もう敬老会なんかには来ない」と、怒って帰った。食べないところでも、汗ぼとぼと。
 ですから、知事だけに責任を負わさないで、そこのひな壇の部長も考えてください。もうじき、わしらも敬老してもらわなならんようになってくるんや。門さんも、わしより先輩やからな。議長に宗議員もそうや。
 終わり。
○議長(阪部菊雄君) ただいまの発言は要望でありますので、以上で西本長弘君の質問が終了いたしました。

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