スポーツ偉人伝 林英作


林栄作の写真

()()氏名  林 英作(はやし えいさく)

()生年  1919年(大正8年)生

区分  競技者

 田辺町(現:田辺市)で生まれ、田辺中学(現:田辺高校)時代、県下中等学校水上競技大会の400mで、全国中等記録に迫る4分57秒3の大会新記録で優勝する。早稲田大学へ入学後、全日本水上競技選手権大会等で大活躍をする。1939年の全日本水上競技選手権大会兼オリンピック予選会(明治神宮プール)で好記録をマークし、第12回オリンピック・ヘルシンキ大会の選手に決定されたが、第二次世界大戦のためヘルシンキ大会が中止となる。
 1936年に第11回オリンピック・ベルリン大会で日本は水泳に陸上に大活躍し、日本の名を世界に轟かせた。しかし、翌年には日中戦争が始まり、戦時色が日一日と濃くなり、1938年には、第12回オリンピック・東京大会の返上を閣議決定した。翌年1939年、代替えのヘルシンキ大会に向けて、日本水泳連盟は「最少人数で最大の成果」をあげるべく9人の精鋭を選出した。1500m世界記録を更新した天野富勝(日大)ベルリン大会200m平泳ぎ金メダルの葉室鉄夫(日大)と800mリレーの新井茂雄(立教大)、早稲田の田中英作(現姓 林)他5人の錚々たる顔ぶれである。当時の水泳は日本のお家芸で、日本記録を出せばそれが世界記録になったことを考えれば、このチームがいかに精強であったかを伺うことができる。殊に、日本水泳連盟の田畑政治氏談によれば「早稲田のキャプテン、1500mの田中英作君は現在においては、既に世界独歩の存在であり、塩水プールにおけるハワイの仲間君や広瀬君の記録の如きは日本水泳界を脅威する程度のものではない・・・」しかしながら、同年ドイツ軍がポーランドに進撃、第二次世界大戦が勃発し代替ヘルシンキ大会も中止となり、この“幻の世界最強チーム”は、目標を失い、力を発揮することはなかった。後に、郷里田辺市で料理業を営みながら水泳に親しみ、74歳の時、200mリレーメンバーでマスターズ世界記録を樹立する。