和歌山と移民 ハワイ・北米編

ハワイ・北米編

ハワイへの移民

 1885年、日本政府とハワイ王朝間で締結された協定に基づき、和歌山県人22名を含む953名が日本最初公式移民(官約移民)としてハワイへ渡りました。当初はサトウキビ畑で3年間働く契約内容でしたが、1898年にハワイ王国がアメリカに併合されて以降、仕事を自由に選択できるようになりました。

 このころから、串本、特に田並から多くの移民がハワイへ渡り、ハワイの人々がもともと行っていた疑似餌を使用する漁法を改良したケンケン漁で大きな成果をあげました。1924年にハワイの日本領事館が行った調査では、オアフ島全漁師の内38%が和歌山県出身者でした。(和歌山県移民史より)

ケンケン漁

 疑似餌を引きながら船を走らせ、魚をおびき寄せて吊り上げる一本釣り漁法。

アメリカ移民

 那賀地方からは、福沢諭吉に学んだ本多和一郎が開いた私塾「共修学舎」の渡米相談所やキリスト教宣教師たちの影響で、1880年代中ごろから多くの人々が渡米しました。19世紀末から20世紀初頭にかけては開拓の途上であったカリフォルニアなどへの渡航者が次第に増え、紀南地方からも多くの人々が渡りました。移住者たちは、サンフランシスコ、ロサンゼルスを中心に、トマトや、レタスなどの農業、菊やバラなどの花卉栽培、美術商や文具店など、多岐にわたる職業について活動しました。

 1900年代初頭から、ロサンゼルス港の一角にあったターミナルアイランドと呼ばれる島には、3,000人もの日系人が暮らしていました。その大半は和歌山県出身者とそこで生まれた2世であり、男性は漁に出、女性は缶詰工場で働きました。

湯浅銀之助

 那賀地方から渡米して成功を収めた移民の一人。1890年にみかん輸出のため渡米し、サクラメントで果樹園の仕事に従事しました。1897年に雑誌『新日本』を、1902年には新聞『羅府日本』を創刊しました。南カリフォルニア在留日本人のリーダーで、南加和歌山県人会初代会長を務めました。

南弥右衛門

 1905年にハワイを経てサンフランシスコへ渡り、レタスなどの栽培で成功をおさめます。シカゴや遠くニューヨークなどへも出荷し、「レタス王」と呼ばれました。故郷の発展のために江住村(現在のすさみ町)の小学校等に多くの寄付をし、今も建物が残る江住中学校体育館も弥右衛門の寄付により建設されました。

和田フレッド勇 -東京にオリンピックを招致した日系人-

 ワシントン州で生まれた日系二世で、第二次世界大戦後、スーパーマーケットの経営で成功をおさめます。1958年、日本政府から依頼されて東京オリンピック招致委員会の委員に就任すると、中南米諸国のIOC委員を活発に訪問して協力要請を行い、東京でのオリンピック開催に大きく貢献しました。

カナダへの移民

 1888年、現在の日高郡美浜町三尾にあった三尾村出身の工野儀兵衛はカナダのブリティッシュコロンビア州へ渡り、そこでサケ漁に将来性を見出して三尾村から人々を呼び寄せました。サケ漁の中心地であるスティーブストンには、1900年に加奈陀村三尾村人会も設立されました。

 明治初期ごろ、ブリティッシュコロンビア州の漁業従事者の大半を和歌山県人が占め、その中でも三尾村の出身者が中心を担っていたことから「カナダの三尾村」と呼ばれていました。彼らの間では、和歌山弁の「連れもていこら(一緒に行こう)」という言葉が流行したとされています。

 カナダから帰国した人々は英語交じりの言葉で話し、西洋様式の生活を持ち帰り、三尾村は通称「アメリカ村」と呼ばれる裕福な村になりました。

工野儀兵衛

 人々のカナダ移民に尽力するとともに小学校の建築費用などを三尾村に送金するなど、三尾村の繁栄とカナダのサケ漁業発展に貢献し、「カナダ移民の父」と呼ばれています。

オーストラリアへの移民

 オーストラリアへ渡った日本人移民の目的は、高級ボタンの原材料であった白蝶貝の採取でした。1880年代に始まり、オーストラリア北岸のブルームや木曜島、ダーウィンといった地域にわたって白蝶貝の採取を行いました。1897年、木曜島で白蝶貝採取にかかわる日本人は全従事者1,500人の6割に当たる900人に達し、その内8割は和歌山県人であったといわれています。中でも紀南の出身者が多く、優秀なダイバーとして活躍しました。

●危険なダイバーの仕事

 ダイバーの仕事には、潜水病や鮫など、様々な危険が伴い、多くの日本人ダイバーが命を落としました。初期のダイビングスーツは、船上から送風パイプを通じてダイバーに空気を送っていたため、窒息による事故も絶えなかったといわれています。

 ブルームにある日本人墓地には、700基以上の墓石があり、また、串本町やすさみ町には、オーストラリアでの白蝶貝採取に携わり亡くなった人々の慰霊碑、記念碑が建立されています。

村上安吉

 1897年、16歳でオーストラリアに渡ると、写真師や商人として活躍し、現地日本人会のリーダーを務めました。潜水病でなくなるダイバーを救うため、旧式の潜水服を改良し、より簡易で安全な呼吸装置を発明した他、白蝶貝の養殖研究にも取り組みました。

第二次世界対戦と日系移民

 1941年12月に日米が開戦すると、アメリカ政府は、翌年2月までに2,000人を超える日本国籍保持者を強制収容しました。さらに同年の8月までには、強制収容は、アメリカの市民権を持つ人も含め、10万人以上の日系人に及びました。

 カナダでは、1942年に西海岸に位置するブリティッシュコロンビア州に住んでいた日系人が内陸部へ強制的に移動させられ、これを拒否すると捕虜収容所に強制収容されました。オーストラリアでも、1,100人以上の日系人が3か所の収容所へ強制収容され、終戦後は日本へ強制送還されました

 アルゼンチンとチリを除く中南米諸国も、日米開戦後の1942年に日本との国交を断絶し、収容所への強制収容や大都市への強制移動などが行われました。

ヘンリー杉本

 和歌山市出身。1919年に両親に呼び寄せられて渡米し、画家として活躍しました。強制収容所に持ち込んだ筆と絵具でシーツをキャンバス代わりに収容所での生活を描いた作品は、その様子を今日に伝える貴重な資料となっています。

このページの先頭へ