和歌山と移民 中南米諸国編

中南米諸国編

ブラジルへ降り立った最初の和歌山県人

 19世紀末頃から多くの日本人がアメリカへ渡りましたが、20世紀初めごろになると、様々な形で移民が制限されるようになります。その中で、新しい移民先としてブラジルが注目され、1908年、日本からブラジルへの移民が始まりました。和歌山県人は、それから数年後の1910年代、大正初期にブラジルへ移民したとされています。

 船で神戸港を出発し、アフリカ大陸最南端の喜望峰を経由し、およそ2か月かけて、ブラジル・サンパウロ州の港町、サントスへ到着しました。移民列車でサンパウロ市へ向かい、移民収容所で数日を過ごした後、内陸にある複数のコーヒー農園へと向かいました。

 最初の数年は、コーヒーの不作などもあり思うようには稼げませんでした。また、農園の待遇も悪く、用意された家が家具や床板もない掘立小屋であったり、まるで奴隷のように監視された状態での労働を強いられたりしたため、ストライキや脱走が多発しました。1908年、第1回の日本移民781名のうち、1年後コーヒー農園へ残ったのは、わずか191名であったと言われています。

 それでも、数年経過すると、農作業にも慣れて収入が安定し、日本に残した家族にも送金できるようになってきました。すると、より大きな利益を得るために、土地を買い、あるいは借りて開拓し、自営農業をはじめる人が出てきました。

 開拓には大変な苦労が伴いました。自らの手で家を建て、井戸を掘り、原始林を切り開かなければなりませんでした。マラリアの蔓延、更にはイナゴの大群による食害、大干ばつなどの災害に見舞われた入植地もありました。

 和歌山県人をはじめ、日本からの移民は、互いに助け合いながらこれらの苦労を乗り越えていきました。

笠戸丸

 1908年、第1回目のブラジル移民船として、781名の移民を乗せ、神戸港からサントスまで航海しました。ブラジルの日系人にとって、笠戸丸は、移民史の始まりを象徴する存在です。

国立移民収容所

 1928年、政府の移民奨励策によって神戸に開設された施設。出港までに、講話や予防接種などを受けるなどして、移住の準備をしました。

現在は、「海外移住と文化の交流センター」として、海外移住の歴史を伝える役割を担っています。

松原安太郎と「松原計画」

 1892年に日高郡岩代村(現在のみなべ町)に生まれた松原安太郎は、1918年に長崎からブラジルへ渡ると、通訳業務などに従事しながら綿花栽培を始め、大農場主として成功をおさめます。

 第二次世界大戦時、ブラジルは連合国に加わり日本と国交を断絶したため、日本からの移民は途絶えていました。戦後、戦地から多くの人が引き揚げてきたことなどによって日本は食糧難、就職難の危機に陥っていました。

 この窮状をみた松原は、個人的に親しくしていた当時のヴァルガス・ブラジル大統領の助力もあり、日本人4千家族、2万人をブラジルのマット・グロッソ州(現在の南マット・グロッソ州)ドラードス植民地(松原移住地)へ移民させる「松原計画」を、ブラジル政府に認めさせます。

 この計画は、ヴァルガス大統領の急死や移民者の脱走等、色々な問題がありうまくはいきませんでしたが、日本政府が後を継いで、戦後約6万人の日本人がブラジルへ移民しました。松原はその功績から「移民の父」と呼ばれています。

松原移住地

 サンパウロ州の隣、マット・グロッソ州(現在の南マット・グロッソ州)ドラードス市近くに、松原安太郎が拓いた入植地。1953年に戦後初めての移民が入植しました。入植当初、ドラードス市からの道は半分が原始林であり、移民たちは、自らの手で道を切り拓かねばなりませんでした。

 大霜やマラリアなどの問題が発生し、脱走者も出るなど、開拓には大きな苦労と犠牲が伴いました。

竹中儀助と和歌山県人会

 1889年に西牟婁郡東富田村(現在の白浜町)に生まれ、1915年に満州に渡った後、1929年にブラジルへ移民しました。貿易会社で働きだすと、誠意と真面目さで信用を築き、農機具や肥料を扱う商社「竹中商店」を立ち上げて成功をおさめます。

 1953年に和歌山県が死者・行方不明者1,000人を超える大水害を被った際、被害にあった人々を救済する目的で和歌山県人のブラジル受け入れを計画し、和歌山県と協力して「和歌山不動産株式会社」を設立します。彼を頼ってブラジルへ渡った人々を温かく迎え、親身になって就職の世話や経営指導を行いました。また、在伯(ブラジル)和歌山県人会の初代会長として、移民のために尽力しました。

ペルーへの移民

 ペルーへの移民は1899年に始まりました。ブラジルよりも9年早く、南米で労働契約を結んで渡った最初の移民と言われています。和歌山県人も1908年に初めてペルーへ渡っています。初期の移民はサトウキビ農場や製糖工場と契約して働きましたが、契約が誠実に履行されないなどの問題があり、雇用主と移民たちの間で騒動が発生しました。外務省の介入などで騒動が収まると待遇は改善され、日本全体で10年間の間に12回、計6,000名強がペルーへ渡りました。

 また、資金を貯めて、契約終了後に都市部へ移り、理髪店や雑貨店などを営む人も出てきました。

メキシコへの移民

 1897年、元外務大臣の榎本武揚は、自ら設立した移民会社と契約した28名らとともにメキシコへ渡りました。これは、中南米への最初の日本人移民でした。榎本移民と呼ばれるこの試みは、資金不足などで移住者の逃亡が続出し、計画通りには進みませんでした。残った人々は同地で「日墨協働会社」を設立し、商店や農場、野菜園など多岐にわたって事業を展開しました。1905年にはアメリカ大陸で最初の日系人学校を設立し、また、西和辞典を発行するなど教育にも力を入れました。会社は1910年に発生したメキシコ革命の影響を受け1920年に解散しました。

 和歌山県人からも多くの人々が移民し、1935年には、シナロア州に移民した和歌山県人による「和歌山県人会シナロア」を設立。1944年に和歌山県出身者が中心となり「中央学園」という日本語学校を開設するなど、メキシコの日系社会で活躍しました。

 アルゼンチン・パラグアイへの移民

 日本人のアルゼンチン移民は、ブラジルのような集団での労働契約に基づくものではなく、隣国から、より良い環境を求めて転住し、そこから親戚や知人を呼び寄せるような形で始まりました。初期の移民たちは、ブエノスアイレスにある製鉄工場や製糖工場で働いたほか、各家庭で料理人や掃除夫として働きました。1930年代になると、洗濯店、喫茶店、郊外での花卉栽培が増加しました。この3業種は、戦前のアルゼンチンでの日本移民たちの代表的な職業でした。

 パラグアイへの最初の移民は1936年と比較的新しい時期です。初期の移民の一人である和歌山県出身の石橋亘治は、1936年にパラグアイへ渡ると、農業に従事して成功します。その後、後進のパラグアイ移民を推し進め、1954年から3年間で計13家族を入植させました。また、日芭拓殖組合を組織してエンカルナシオン近くに新たにチャベス移住地を立ち上げるなど、パラグアイにおける日系移民の発展に尽力しました。

【参考文献】

「近代日本移民の歴史」編集委員会編 (2016)『近代日本移民の歴史2 北アメリカ~ハワイ・西海岸』

――― (2016)『近代日本移民の歴史3 太平洋~南洋諸島・オーストラリア』

国際協力事業団 (1994)『海外移住統計(昭和27年~平成5年度)』

在亜日系団体連合会編 (2002)『アルゼンチン日本人移民史』アルゼンチン日本人移民史編纂委員会

篠遠和子・フランクリン王堂 (1885-1924)『図説ハワイ日本人史』B.P.ビショップ博物館出版局

日墨協会 (2016)『はるばるきたぜメキシコ』日墨協会

藤崎康夫編 (1997)『日本人移民 4 アジア・オセアニア』日本図書センター

和歌山県 (1957)『和歌山県移民史』和歌山県

和歌山大学紀州経済史文化史研究所編 (2014)『移民と和歌山:先人の軌跡をたどって』

和歌山大学紀州経済史文化史研究所編 (2016)『移民の仕事とくらし:アメリカ、カナダ、ブラジル、オーストラリア』

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