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源平の物語の流れに沿って紀淡海峡の府県はつながり、壮大な巡りの物語をつくっています。 寿永3年、義経は一ノ谷の戦いで平家を奇襲攻撃。平家は西国に退き、頼朝は範頼には西国行きを命じますが、義経には命は下りません。義経が命を受けたのは翌元暦2年です。 義経は、頼朝が送った梶原景時と逆櫓をめぐって口論となり景時には告げずに嵐の中を摂津・渡辺津を出航しました。阿波・勝浦に上陸した義経は、上陸後ただちに屋島に向けて進撃。翌朝屋島に到着した義経は、ここでも平家の背後から奇襲戦法で攻めます。屋島の合戦で敗れた平家の軍は長門に向かいますが、安徳天皇は阿波を経て四国山地に向かい、高知の越知潜幸したと伝えられています。 一方、屋島の戦いの後、弁慶は熊野別当の父湛増に源氏への援軍を要請します。湛増は紅白の鶏を戦わせて源氏への援軍を決め、熊野水軍を壇ノ浦に出陣させます。壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させた義経。しかし、賞賛されるどころか、頼朝から冷たく扱われ、ついに刺客を送られることになります。義経は京から西国へ向かうため大物浦(尼崎)から出航しますが、嵐に阻まれ、静や弁慶などわずかな家来とともに吉野に逃げ込みます。そして、義経は静に別れを告げ、さらに奥深くに向かいました・・・。 |
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