上富田町の興禅寺前住職の吉田啓堂さん

名人対談

和歌山県には、様々な分野でそれぞれの道を究めた「名人」とも呼べる方々がおられます。このような方々は和歌山県の誇りであるとともに、その活動は県民の皆さんにとっても励みとなります。そんな「名人」から高い志や歩んでこられた人生についてお聞きし、県民の皆さんにご紹介したいと思います。

戦没者の遺骨収集やカンボジアの孤児への支援活動などに尽力されてこられた上富田町の興禅寺前住職の吉田啓堂さんと仁坂知事との対談です。

仁坂知事:今日は吉田先生のお話を色々お伺いしたいと思ってやってまいりました。よろしくお願いします。それでは早速ですが、吉田先生はお生まれは上富田町のこの辺でいらっしゃいますか?

左:吉田啓堂さん 右:仁坂知事
左:吉田啓堂さん 右:仁坂知事

吉田さん:上富田町で、旧岩田村の岡という所です。

仁坂知事:ご生家はお寺さんですか?

吉田さん:そうなんです。ちょっと、変わった寺でしてね。和歌山県ではおそらく珍しく百姓寺というか、お寺に田地田畑を持っておりまして、檀家こそ少ないけれども、それで長年弟子を養っていました。うち、出家したのは5人でしたが。

仁坂知事:つまり、農業経営もしておられたということですね。

吉田さん:そうです。禅の方でいうと作務禅みたいなもので、「作務を尊ぶ」ということです。それで自分たちで作ったものを食べていました。また、禅宗では、ずっと肉食妻帯が許されていなかったですから、妻帯したのは私の父親が初めてです。

仁坂知事:やっぱり臨済宗系の禅宗でいらっしゃる。

吉田さん:そうです。臨済宗の妙心寺派です。ここの興禅寺がずっと荒れ放題に荒れていて、戦後、後継者に恵まれず、雨漏りがひどく、ただ、由緒と歴史だけはある寺で、いわば格式が高いわけですね。戦後僅か5年で、私で6人目。もうそれはひどい寺でした。

仁坂知事:お父様からそこへ行ってこいということだったんですか?

吉田さん:いや、父からは全くそういう話は無くて。当時、私は京都南禅寺で修行中でした。師匠である柴山全慶老師から「あんた、もらわれているぞ」と言われました。「どういうことですか」と聞くと、「紀州の興禅寺を知っているか」と問われたので、「隣村の寺です」と答えたら、「えらい荒れているらしいですが、あんたに住職になってほしいと要請がありましたよ」ということでした。大本山妙心寺の方からもらい受けに来たんです。それで、確かめにやってきてびっくりしたわけです。

仁坂知事:荒れていたからですか。

吉田さん:はい。私の前の住職候補者5人は私の知人や先輩ばかりで住職になっていたのではありません。しばらく様子伺いにやって来たという感じですね。しかし、どなたも敢えて火中の栗を拾わなかったのかもしれません。それは面白いなと思って。みんなが逃げた理由はそれなりにあったでしょうが、その一面、やり甲斐があるかもしれないと思いました。

仁坂知事:なんでそんなに荒れていたんですか?

吉田さん:先住が既に老僧でかなりお年をめしておられたということがありますし、それから、戦争中で、働ける男性は兵役に取られ、女性は農地を守ることが精一杯でしたからね。長い戦争と農地改革の影響もありますし、人手不足も大きな原因です。

仁坂知事:それを再建されたのは、どういう手法でされたんですか?

吉田さん:元々土っぽい人間で、とにかく子どもの頃から体験しておりましたし、自分で瓦を捲って赤土を煉って、そこへ瓦を葺いていくことから始めないと仕方なかったんです。

仁坂知事:自分で土木作業みたいなこともなさって、お寺を修理していかれたんですね。

吉田さん:物心ついた頃から、農業をしていましたから。それから、林業に携わっていたことや戦時中の経験が役に立ちました。戦時中、青年師範学校という青年学校の教員を養成する師範学校がありました。青年学校は軍事教練が主体ですけども、高等小学校を卒業した人をもういっぺん教育するところで、義務制ではありません。元は、西和佐(和歌山市)という所にその前身となる青年学校教員養成所というのがありまして、それが青年師範学校に昇格して、建物も新たに岩出の紀北農業学校の隣にできたんですね。私らが第2回生です。

仁坂知事

仁坂知事:それで、ご卒業になったんですか、先生は。

吉田さん:はい。それで卒業と同時に兵隊です。

仁坂知事:それで兵役はどちらへ行かれたんですか?

吉田さん:あまり兵役のことはしゃべりたくないのですけども、いきなり久留米の予備士官学校で、本来なら兵隊から行くのを、学校卒業と同時に入りました。そして、そこにいたのは僅か10日で、たった一人だけ大阪城の近くにあった第4師団本部に呼ばれ、いきなり「八日市航空隊勤務を命ず」と、これだけです。即刻赴任せよということで、八日市航空隊へ行ったんです。その後終戦ですが、多少字が書けて、事務的なことをやれるということで、また引っ張られて8月に帰されないで、米軍に引き渡す10月30日までおりました。運命というのは、そんなもんですな。

仁坂知事:そうですか。兵役から帰られてからは、どんな仕事をされておられたわけですか?

吉田さん:一旦青年学校(田辺市)に奉職したのですが、給料の手取りが45円、ヤミ米7日分、サンマ5日分でしたので、弟たちや妹の世話どころか、私一人の生活が成り立たず、戦後フリーター第一号で家出しました。日雇労働者として十津川で材木の切り出しの仕事をしました。それから昔のいすゞの六輪という木炭車に乗っていましたね。それで、十津川から五條、大淀、吉野口方面に材木を出すんです。今は、国道で下にトンネルを抜いていますけども、当時は天辻峠という山を上がって、最後はトンネルを抜けて、天気が良かったら富士山が見える所を通っていました。こういう所は、冬は大変でした。当時闇市というのがあって、目立たない裏の小路でうどん、寿司、そうめん、ぜんざいなどが売られていて、その看板の提灯書きもいたしました。

仁坂知事:達筆でいらっしゃるから。それで、さっきのこのお寺の再建に繋がってくるわけですね。

吉田さん:いや、一時期、奈良県知事さんに呼ばれまして、野村万作知事、一番最後の官選知事で、この人の名前は、やっぱり忘れんと覚えています。それから、奈良県には後に文部大臣をしたことのある奥野誠亮さんもおられ、当時はまだ本当に若かったんです。

仁坂知事:私、奥野誠亮さんにお仕えしました。国土庁長官をされていた時です。何か忘れましたけど、ちょうどその時に、発言されたことに野党から批判が噴出したので、奥野さんは全然良心にもとるわけじゃないんだけども、俺は身を引くと言って、責任をとったというか、要するに辞めたんです。奥野さんは竹下総理大臣と親交があるので、国会運営上、竹下さんを俺が守らないといかんと思っていたのでしょう。それに、その竹下さんに任命された国土庁長官だから、竹下さんに迷惑になっちゃいけないから、身を引いたんだと思います。その時、僕は官房総務課の課長補佐をしていました。

吉田啓堂さん

吉田さん:彼は好々爺で、私がこっちへ来てからも、国会を引くまでずっと可愛がっていただきました。

仁坂知事:まだお元気ですよ。ついこの間まで自治省の重鎮、つまり、OBの中の実力者でした。今は次の世代になっていますけどね。

吉田さん:その後、私は放浪の身になって色んなことをしました。東京で廃品集めの仕事もしました。それから、歩くという行をいっぺんしてみたいと思って、円覚寺の朝比奈宗源さんの所へ教えを乞いに行って、しばらくおらせてもらいました。ここに額がありますが、素晴らしい字を書かれる方で、あの水戸黄門という時代劇の題字を書かれた方です。それから建長寺の菅原時保さんとか、原(静岡県沼津市)の松蔭寺におられた湯の峰(田辺市本宮町)出身の山本玄峰老師、こういう所を転々と、東海道五十三次を京都まで歩きました。清水寺に大西良慶さんという方がいらっしゃって、106歳にもかかわらず現役で、五つ子の名付けの親で有名でしたが、あそこでも、しばらく宗派に関係なしにおらせてもらいました。

仁坂知事:歩くというのは、要するに修行して少しずつ色んな先生の教えを乞いに行くわけですね。

吉田さん:きれいな言葉で言えば修行でしょうが、もっぱら放浪して、終いには京都の三条裏の木賃宿で、寝るくらいのスペースも無くてうずくまっていました。翌朝、薄暗いのに何か声がしているなと思って見たら、雲水(禅宗の修行僧)が1月3日だというのに、裸足に草鞋を履いて「ほおー」と言いながら托鉢をしていました。何か感じるものがあったんでしょうな。そして、後ろをついて行ったんです。ふと考えたら1月3日だったから、東京を出た日が1月3日だったんで、ちょうど1年経ったんだなと思いました。その間、色んな人のご厄介になりました。農家の家で下肥を汲んで畑へ運んで、一晩泊めてもらったり、夕飯を御馳走になったりということで、良い心の勉強をさせてもらいました。そして、その雲水について行ったのが、大徳寺だったんです。そこで、老僧が「あんた、お腹空いとるな、そんな顔しとるで。わしゃ、今日は珍しいものを食べてな。残ってるのを温めてやるから、あんたも食べなさい」と言ってくださって、それがさつまいもの入った芋粥で、おいしかったんですよ。その時、ほろほろ泣いたらしいですね。若い雲水にその老僧のことを聞いたら、「あの方は、うちの管長さんです」と。大徳寺の管長さんに粥を温めていただいたんですよ。涙が出てきてね。その後、色々話をさせてもらったら、「そうか、田辺付近か。田辺付近だったら、私の大先輩がおる。あんたの名前は何ていうんだ」と言われたから、「吉田と申します」と答えたら、「わしの大先輩は吉田だ」と言うんです。

仁坂知事:お父様ですか?

吉田さん:はい。その後続けて「あの方は、大徳寺の古狸というくらい長い間修行した。12、3年おった方だ。今でも漢詩を送って教えを乞うている人だ。その吉田先輩の息子がいったい何じゃそら。すぐにお坊さんになれ。私はもう年寄りだから、私の下じゃなくて、南禅寺の柴山全慶老師の所に行け」と言われました。一旦家へ帰って、このことを親父に言うと大笑いになって、「おお、そのとおりだ。行け」と言われて、そんなことでいよいよお坊さんになる覚悟をした。放浪した集積がそういうことです。

仁坂知事:なるほど、そういうことですか。
ちょっと話は飛ぶんですけど、遺骨収集をずっと長くおやりになりましたよね。これは、どういうきっかけで、先生がやろうと思われたのですか。

吉田啓堂さん

吉田さん:戦争に負けたという敗戦の時の悔しさと、惨めさというか。多くの人々が天王寺公園をねぐらにしていて、中には死んだ人までおった。どこへ行ってもそういった状態であって、敗戦がいかに惨めなものであるかということを身にしみておりました。そして、自分の身内でも伯父さんたちが、あるいは私が直接一緒に暮らした兄弟子(あにでし)が2人も戦死した。今度はもっと身近な母親の兄弟が一家で3人死んだ。兄貴みたいに親しくしていた人が、次から次へと亡くなった。ということで、終戦と同時にお骨は帰ってこないし、先輩にも同級生にも皆身近身近に戦死者が大勢いました。だから、1人でもお骨を拾いたい、あるいは、供養しに行きたいということを、毎日毎日思い詰めてきました。そして、ビザが交付されるのを待ちかねとったんです。

仁坂知事:なるほど、出て行けなかったんですね。

吉田さん:出て行けなかったんです。だから、パスポートが下りても、国によって、島によって行けない所がありますから、それを待ちかねて、ビルマ(ミャンマー)に最初に行って、後は中部太平洋、ミクロネシア、それからずっとポリネシアの方まで。だから、中部太平洋から南太平洋ですね、そういった島々へ行きました。

仁坂知事:一番初めは何年からですか?

吉田さん:昭和40年です。

仁坂知事:昭和40年ですか。それまでに、なかなか行けなかったんですね。

吉田さん:そうです。遺骨収集は昭和40年から昭和55年までですから、15年間ですね。

仁坂知事:ちょうど昭和40年というと、私なんか物心がついている感じだと思うんですけどね。ようやく行けたのはその頃なんですね。延べ何回くらいになるんですか?

吉田さん:遺骨が見つかって拾ってくれたのをいただきに行ったのを含めると31回です。それから、その中には、例えば徐州作戦で大勢亡くなったとか、ノモンハンで大勢亡くなったとか、中国の激戦地がありますね。そこの遺骨は帰っているんだけども、遺族を連れて慰霊に行きました。その頃は、まだお父さんやお母さんが割合と元気だった。だから、最後の願いだから連れて行ってと言う方がいらっしゃった。今日とは、全く違う情景だった。あの興禅寺の平和達磨は、お骨の下の砂を一掴みづつ袋に入れてきて、それが120何箇所になって、その砂を塗り込めて作ったんです。

達磨像
達磨像

仁坂知事:ご自身で作られたそうですね。

吉田さん:はい。私ともう一人若い男と2人で。色んな所で工法を習ってきて、ショートコンクリート工法というんだそうですけど、網の目のように、鉄筋でアングルを作って、どれくらいの大きさでどのくらいのトン数だったら、鉄筋をどのくらいの太さにしなきゃならんとか、それからどれくらいの幅に組まなきゃならんとか、計算上出てくるわけですね。そういうようなことを、まず最初に少し勉強して、誰も玄人が入らずに、素人が2人で作りました。

仁坂知事:すごいですね。工期は作り始めてから何年ぐらいですか?

吉田さん:工期は、初めは1年の予定だったんです。ところが、あれはちょうど昭和40年代後半の物不足の時だったので、鉄筋は無いは、第一にセメントが無かった。だから、土木業者さんを回って、セメントを1升づつ寄付していただきました。そんなんで3年かかって、昭和49年の4月29日に竣工式を行いました。その時に、仁坂知事さんの大先輩の大橋知事に来ていただいたんです。

仁坂知事:大橋さんは、ちゃんと良いところには登場されるなと思って感心しますよ。良い話の時にね。

吉田さん:知事さんと親しくお話できるのは、大橋さんに続いて今度は仁坂知事さんです。

仁坂知事:ありがとうございます。遺骨を収集に行かれて、現地で何かご苦労なさったことはありますか?

吉田さん:小さな島々を遺骨収集に巡ってきましたが、戦艦や輸送船で犠牲になった方も多いんです。厚生省に当時の大本営の海図が残っていまして、「どの位置」で「何々艦長以下何名」が犠牲になって、そこは「水深何メートル」というようなことまでわかっていたんです。ところが、その中には水深3,000メートルという所もあって、とても遺骨の収集なんかできないということで、たまらん思いでした。そんな時、香港の友人からプレジデントというイギリスの船会社が南方諸島の遊覧用に「コーラルプリンセス号」という大きな客船を造っていると聞きました。それで、プレジデント社に日本の艦船が沈没したポイントを巡れないかと申し入れをしたら、快諾してくれまして、その客船の処女航海として実施できることになったんです。その計画を全国の遺族会に伝えますと、北海道と沖縄以外から420名の参加がありました。参加者の最高齢は、息子さんを亡くされた83歳の老母で、その方は航海中ずっと船室にこもってお経を唱えておられました。それで、沈没したポイントでは、仏教各宗派の管長さんに導師をお願いしたんです。それと、航海中に船内で講演会を催しまして、沖縄返還や北方領土返還運動に功績のあった末次一郎さんとか、哲学者の梅原猛さんとか、元花園大学学長の山田無文さんとかにお話していただきました。昭和48年のことで、横浜港を出発して18日間の航海でした。こんな海上からの慰霊は、最初で最後でした。

アコヤガイ
アコヤガイ

 それから、ニューギニアの山奥で全滅した部隊があったんです。その中に、南部川出身の人が1人含まれているということを聞きまして、昔の大本営の図面を見るとあるんですよ。それを今度は調査するのに大分難儀しました。なぜかというと、どこかの洞窟に閉じこもったというのは、現地で聞いていたけども、山の方だというけれども、うっかりこれを見過ごすところだったんです。海岸から28キロメートルも入ったジャングルにこの貝殻(左写真)があって。翌朝早く行ってみて、そこを掘ってみたら、うず高い貝殻の山の上だった。だから、28キロも入った所に「なんでアコヤガイ?」でしょ。真珠を養殖させるこれがなんで山の中にあるのかと。それが、ものすごい数でしてね。これは誰かが食べたに違いないと。ひょっとしたら、日本の兵隊さんかもしれない。だけど、28キロメートルも往復して、敵に見つからんようにしようと思ったら、夜でしょ。いかに飢えを凌いでおったか。苦しかったやろうなという思いで、一晩眠れずにいました。そして、翌日若い者を連れて探しに行った。現地の人を雇ってね。行ったら、確かにあそこだろうという現地の人の推測が当たりまして、そうしたら大きな洞窟がありまして、そこに閉じこもっておった。全員飢え死にでしょうな。銃があって、お骨がそのままの姿勢というか、だいたい同じような亡くなり方、あるいは、横になった亡くなり方とかね。洞窟ですから、全部きれいに残っておる。鉄兜が残っておるわ、一番大事な認識票も残っていて、その番号がわかる。一般の野原で亡くなったら、その番号は雨風で消えてしまっているところですが、洞窟だったお陰で身元が結局最後にわかりました。

仁坂知事:わかりますね、それで。

吉田さん:こういうふうなことをする中で、私は、ビルマの時もそうでしたが、こちらから大勢連れて行くということをしなかった。なぜかというと、いっぺんやったんです。そうしたら、最後の一晩ぐらいはホテルへ泊まろうというのが必ず出てくるんです。けれども、そのために、来たんじゃないんです。土産を買うために来たのと違うんだから。だから、それを私は嫌がったんです。それともう一つは、現地の人と仲良しにならんと、本当のところがわからないということです。今、南太平洋の方でトラブルが起こっていますね。なかなか遺骨収集させてくれない。世代が変わったからです。おじいちゃんの時には日本に大事にしてもらって、日本人のお陰で我々がこれだけ畑を作れるようになったという思いが残っていた。おじいちゃんの時には日本語が通じたんですよ。孫になったら、価値観も違う。そして、すぐにお金でしょ。今、日本政府が困っているのはそれなんです。額がものすごく大きいし、たまたまアルピニストの野口健さん本人が語っていますから。それからもう一人先輩がおりまして、東條首相のお孫さんの東條由布子さんにお会いしました。現地に行ったら、私の名刺があったんだって。私のいる頃は良かったんですよね。今は、色んなものを作る方法を教えた日本人が全部去って、それで、孫の代でしょ。そうしたら、やっぱり価値観が物と金になっちゃった。それで、東條さんも野口さんも困りぬいているのは、金を持って行かないと遺骨が見つからん。そして、たまたませっかくやから持って帰りなさいと言われて持って帰って、DNA鑑定を行ったら豚の骨やったとかね。とにかく悪辣ですね。私は恵まれておったんです。ビルマもインパール作戦であれだけの人が亡くなって、悲惨なことでしたけれども、あのインパールで、現地の人はどこに遺骨があるかを知っているんですよ。そして、だいたい日当が100円ぐらいだったので、それが20円高く雇ったら喜んで来て、最後は、お陰さんでとお礼を言って120円を持って帰るわけです。もちろん、貨幣の単位は円じゃありませんけど、日本円に直すとだいたい120円ぐらいですよ。そして、すごく好意的でした。だから、誰も連れて行かなかったと遺族の人に叱られた時もありますけども、強烈な思い出が詰まっています。そして、ほとんどは野ざらしですから、認識票も何もわかりませんが、沢山の遺骨をお納めすることができました。随分、遺族会の人が写真と言ったけど、現地の人たちは寿命が短くなると言って写真を嫌うんですね。仁坂知事さんはブルネイに行かれていたからわかるかもしれませんが。

仁坂知事:私の時は、もうブルネイではそういうのはありませんでした。「撮って」という感じでしたね。

吉田さん:ああ、それはもうね、やっぱり二周り時代が違いますから。だけど当時は、カメラを嫌ったんですよ。そして、若い孫さんなんか連れて行くということは感覚が違いますから。それで、現地の人を雇って、こちらが感謝の気持ちで接すると、「家に泊まってください。私の所へ来てください。家で夕飯を食べてください。」というような形になっていくんですね。そして、はるばる自分から買って出て、「どこどこで大勢亡くなっているから、そこで昨夜みんなで相談した結果、みんなで奉仕に行きます」というようなことを申し出てくれるんです。そこら辺りが、現在の日本人にも必要ですね。

仁坂知事

仁坂知事:そうですね。私はそこまで行きませんでしたけど、山奥に行くと、元はお家に住んでいなかった部族があるんですね。要するに、家が無かった部族があるんです。プナンという部族で、森の中を放浪しているんです。その子孫がいて、今から30年、40年前にブルネイ政府が「家を建ててあげるからそこに住みなさい」と言って、それで、一部の人は住み着いたんですね。その住み着いた人の所へ、ずうっと山奥へ入って行ったわけです。もちろん、電気は無くて、蝋燭か何かを点けてね。私は言葉がわからないので、マレー語で話をしてくれるんですけど、そうすると、だんだんと「私は先祖を裏切ったような気がする」というようなことを言い始めるわけです。伝統文化があるわけですね。やっぱり森の神様に仕えながら、ずっと放浪していたのに、ちょっとこっちの方が良かろうと思って家の中に住んだことを言うんですね。耳には装飾品をぶら下げて耳たぶがダラーとたれた人で、髪はオカッパで後ろはチョンマゲでね。そんな人がそんなようなことを言うんですね。「そうか、そうか」と言って、聞いて帰って来たんです。けれども、その人の息子ぐらいになりますと、マンチェスターユナイテッドなんかのTシャツを着ているわけです。それで、パイプを咥えていて。ただ、さらに奥地のジャングルの案内をしてもらったんですが、ものすごく足が早くて、音も無く歩くわけですよ。しかも、吹き矢を持ってるんですよ。それで、「これでちょっと行ってくるわ」と言って、山の中に入って鳥か何かを捕ってくるんです。

吉田さん:私が、今から7、8年前ですか、『南のジャングルで熊野を見た』という本をちょっと書いてみたんです。元花園大学学長の山田無文老師が「神代さながらの」という言葉を使っています。だから、神代さながらの人が現代にまだ生きているという、そんな純粋な人たちがまだニューギニアとか南の島に生きているという、それをよく聞いていたものですから、自分で体験して、熊野とはこんなんだったろうなと思い起こして、そのまま本のタイトルを『南のジャングルで熊野を見た』にしたんです。田辺の紀伊民報さんに、初めは3,000部、2版も3,000部で合計6,000部を発行してもらって、進呈したものが多いですけれどもね。

仁坂知事:また、読まないといけないな。図書館にあるかもしれないですね。

吉田さん:それが、もうどこにも無いんです。それから、その前に『渇を叫ぶが如くなり』という本を書きました。水の中にいながら、喉が渇いたから水をくれというのと一緒で、飲めばいいじゃないか、そこにあるじゃないか、ということで手近にすべての宝があるじゃないか。ここにもあそこにもあるじゃないか。気付かないだけじゃないか。お前さん何ぞに目が眩んどるぞと。こういうふうにだいたい欲得で目が眩むんですね。その『喝を叫ぶが如くなり』の本が、あんなもので売れるかなと思ったら、よく売れて3版出しました。
 南紀熊野体験博の時に語り部を引き受けたんですが、昔の熊野詣は今とはちょっと違って純粋でした。一番大事なことは、やっぱり六根清浄、般若心経にある六根、「眼耳鼻舌身意」というやつでしょうな。迷いはどこから来るのかと、犯罪も含めてどこから来るかというと、目か、耳か、鼻か、口か、体か、あるいは根底からの心か、この六根、6つの根っこから来る場合が多過ぎる。今それで日本国中が日本人でなくなったんじゃないですか。

仁坂知事:もっと正常にならんといけませんね。

吉田さん:問題は六根でしょうな。そこら辺りに根っこがあるように思う。カンボジアの子どもたちの面倒を見ながら思うんですが、今はカンボジアで日本が生きているというところが多いんですね。

仁坂知事:カンボジアの話になったんですが、今度は、カンボジアの子どもたちの面倒を見ていらっしゃる。

吉田さん:面倒というほどではありませんけども、何とか16年間日本へ連れてきました。

仁坂知事:これは、遺骨収集をだいたいお終えになった後ぐらいですか?

吉田さん:はい。もうサイパンで拾えなくなったんです。サイパンが最後ですけど、5回目のサイパンの遺骨収集で、もう見切りをつけました。一番難しかったマッピヒルの一番高い所、マッピヒルが2段になっていて、バンザイ岬のあるそこで遺骨を収集した後、これが最後のサイパンの遺骨だと思いました。その時ふと短波放送を聞いたら、カンボジアの100万人の難民のニュースで、何か叩かれたような感じがしました。今まで亡くなった方ばかりに囚われてきて、決して間違いじゃなかったけれども、100万人の難民とは何ということだと思いました。耳を澄まして聴いていると、ポル・ポト革命でしょ。これは、まだ1917年のロシア革命が続いているなと。あれで2,000万人と言ったかな。それから中国の人民革命は一般的に1,000万人だけど、どうやらそれよりも遙かに多いようです。それをそのまま真似て、カンボジアでやっているわけでしょ。この21世紀を迎えるようになって、そのような状態だ。よし、その難民の状態をまず見て、一つ私たちができる範囲の活動をしようと、もうそこで決めたんです。サイパンで決めた。それで伊丹へ帰って来ずに羽田へ行って、厚生省とか外務省、カンボジアの事務所で色々聞いて、その頃はまだ大使館じゃなくて一旦切れておったんですが、そこに色々情報が入ってきている中から聞いて、それで全国から若い人を募集して、19名を連れて行ったのが最初です。その時は、どこの国よりも一番早く行くことができた。あそこまでいったら、人間の醜さを感じましたね。革命というような名の下にね、結局は物質優位で、お金優位で、精神的なものが遥かに彼方に置き去られてしまってね、人間の命を何とも思わず、自分の主義主張のために、あれだけの人を、何100万人という人を殺してしまうというような、ちょっと考えられない。現地へ行ってびっくりしましたな。

仁坂知事:先生が行かれた時は、まだ迫害が続いている時ですよね。それで現に逃げている人もいるし、現にその人を殺している人もいるわけでしょ。そういう所へよく入っていけましたですね。

吉田さん:それはもう、日本の大使館は全然ダメだと言うし、タイ国境ですからタイの政府へお願いしても全然ダメだということでした。それで、以前から何回かお会いしたことのある世界仏教徒会の会長さん(プリンセス・ビスマイ・デイスクル・プーン女王殿下)にお願いに行ったところ、皇居を守っている兵隊さん、トンカン大佐、マナー大佐という2人の大佐に協力していただけることになりました。その人たちが装甲車や色んなものを提供してくれて、完全武装した一個小隊もつけてもらいました。そして私の気ままも聞いてもらって、皇居からの命令でバンコク内のパン屋さんを動員し、その日売る予定のパンを全部提供してもらって現地へ運びました。命令系統がどうなっているのかは知りませんけど、政府の方へ命令が行ったんでしょうね。それでお陰さまで、兵隊さんと私たち20名で運びました。だいたいカンボジアとタイの国境まで250キロメートルで、そこへ行ったら、6月に入った雨季が一番えらい時で、暑さもえらい、湿度が98%というような状態でした。大の男2人が洗濯物を搾って掘立小屋の中に干していたんですが、脛までどぶどぶに浸かるような雨で、夜中に雨漏りしているということで行ってみると、そうではなくて、搾りきったはずの洗濯物から滴が落ちているんですね。これが98%の湿度なんだということがわかりました。着る物が無くて、翌日また、車でバンコクの近くまで衣料品を買いに行ったんです。そんな中で死体運びをして、穴を掘って埋めました。どぼんと水が溜まっていて、着の身着のままだし、してあげられることは、お経を読んであげることしかないんですね。それが毎日毎日。そして大砲のロケットの音を聞きながらでしょ。国境で揚がっている旗が、今日はベトナム、今日はヘン・サムリン軍、今日はポル・ポトと、毎日違うんですよ。それだけ毎日銃砲の音が聞こえてくるということです。最後は、街の中へ打ち込まれました。

仁坂知事:それは、タイ側の街ですか、カンボジア側の街ですか?

吉田さん:領は、タイ領です。

仁坂知事:タイ領に打ち込んでくるんですか。

吉田さん:ちょうど国と国の境ですからね。どんどんロケットが炸裂する。これは危ないということで、真夜中にバンコクまで250キロメートルを車で走りました。誰もが怖いですからね、全速力で走って、タイヤがふにゃふにゃになるんですね。運転している若い者が怖いから飛ばしますわな。そんな目に遭いまして、朝、バンコクの世界仏教徒会の本部へ行ったら、朝4時20分なのに煌々と電灯が点いていました。何かなと思いながら車を下りたら、みんな抱きつかれて、「よく生きていたな。あなた方がいた所が全部やられているというニュースが入っている」と言われました。びっくりしました。それが6月だったんですけども、2か月して8月に行ったら、私らがおったキャンプは吹っ飛んでありませんでした。

仁坂知事:それは、キャンプは国境のタイ側につくってあるわけですね。それで、そこから国境を越えて助けに行くわけですか。

吉田さん:すぐカンボジアですから。

仁坂知事:難民は、カンボジアからタイへ逃げて来たりはしないんですか?

吉田さん:仮に一家7人が逃げるとしますと、どうでしょうね、それだったら平均で5人が着けるでしょうか。大概、1人か2人は途中で脱落します。

仁坂知事:途中で撃たれたりするんですか?

吉田さん:持った物を強奪するんですね。みんなお互いに飢えているから、それはポル・ポト軍か、あるいは強盗団かわかりませんけど、みんな飢えですから。
 2回目は2か月して8月に行きましたけど、その時、英語の教師をしている倅に「お前もいい経験だから行くか」と聞いたら、「行く」ということでした。「じゃあ、夏休みにしよう」と言って、2か月後の8月に連れて行ったわけです。その時に、私の後輩なんですが、全日本仏教会長に昨年になられた河野太通さんから、「雲水の修行として、私の弟子たちを一緒に連れて行ってやってくれ。平和な時の座禅会では生ぬるい。私も行くので頼むから一緒に行ってくれ」と頼まれました。それに通訳のできる者も要るので、倅に話すと「私も行く」と言って、そんなことで雲水等も連れて行きました。
 今でも島精機さんや和歌山東ロータリークラブさんなどから義援金をいただいて、ボランティア活動でカンボジアに行っているんですが、年をとって自分ではやれんもんだから、倅にバトンタッチしましてね。それから、田辺のソロプチミスト、ここの方々はずっと私について来てくださって、連続してやってくれていて、今年も行ってくれました。それから、静岡、兵庫、大阪など私が講演に行った色んな所に、継続して協力してくださる方々がいます。これらが大きな力を与えてくれています。

仁坂知事:一番初めは、ポル・ポトがまだ迫害・虐殺をしていた時期ですよね。それは収まって、そこで不幸な家族がいっぱいできたわけですよね。お聞きするところによると、孤児の方を引き取られて、それで教育を授けられて、またお返しになって、そういうこともやっておられる。

吉田さん:そうです。まあ、私一人ではとてもやれる仕事ではありませんし、それから責任が負えませんわね。けれども、私が声をかけた子どもというのは、親が殺されて誰もおらん。兄弟も散り散りになって、生きているか死んでいるか、それさえもわからんというような、最悪の条件のある子どもを選んだわけです。できるとか、できないとか、そんなことは関係ありません。そして、全く天涯孤独な子どもを、まず国がやっていた定住促進センターで受け入れてもらいました。そうしたら、ベトナムのボートピープルの方々も入っているでしょ。ベトナムとカンボジアは仲が悪いのでトラブルが絶えなかってね。当時、国は随分苦労なさったと思うんです。それで、そこを1年で出るわけです。1年間は政府にお任せだけど、そこからが問題です。それで、クリスチャンの友人の大支援があり、その中からまた条件の悪い者を選び、私の寺は広くて空いているし、これというようなことはしていないので、私が夏、冬、春の休みに住居を提供し、クリスチャンの友人には学費をみてもらうことにしました。学費はうんと割引をしてくれましたから。それから日本にいる間に、孤児15人のうち大学を出たのが7人です。そのうち1人は東海大学の大学院まで出て、しかもあそこは、知事さんもご承知かもわかりませんが、成績の良い順に上から3人は学費が無料なんです。それに大分入りましてね。そうしたら、教授の勧めで、「いっそ博士課程までやりなさい」というようなことになって。それからフィリピン大学にも留学したりして、その子がまあ一番良くできた。それ以外は、東京理科大学というのがありますね。そこの夜間の方へ行って、昼は稼ぎながら。そんなことをやってくれたので、助かりました。それから、結婚が遅れていた子がおりまして、その子のことだけが心配でしたが、その子も結婚するようになりました。

仁坂知事:良かったですね。それで、カンボジアで孤児院も造られたんですか?

吉田さん:孤児院の土地は私が購入したものですが、今の建物は3代目で、ある会社の社長が経費を出してくれたらしくて、今の建物を建てる時には、私の懐は痛んでおりません。

仁坂知事:でも一番初めは、吉田先生がお造りになったんですか?

吉田さん:もちろん、そうです。

仁坂知事:いつ頃ですか、それは。最初に行かれたのが昭和56年ぐらいですよね。

吉田さん:そこの写真をちょっと見てください。この中学校が平成9年ですから、そのちょっと前ですね。1、2年前です。ここは、かつてはポル・ポトが占領していてボロボロになってしまって、それで私が再建させてもらった中学校です。一時は、その写真にあるように「吉田啓堂中学校」になっておったんですが、それは私が嫌で、元々の名前に戻していただきました。向こうは小さいけど、州制度です。それで州立になりますので、州知事と、それからそこの市長と教育長なんかが立ち会いの下に返還をして、私の名前ではなく、元の名前を名乗っていただくことになったんです。だから、それは今経費が必要ではないので助かっています。それで、孤児院の方は、現在、私が養育したカンボジアの孤児の奥さんが経営し、院長をしています。海南市出身のメアス博子さんという人で、今はその孤児の姓を名乗っています。

対談中

仁坂知事:わかりました。最後に、色んな活動を通じて、平和とか、あるいは子どもとか、思っておられることがあったら、ぜひ、締めくくりにお話ください。

吉田さん:言い忘れておりましたが、なぜ、カンボジア難民の救援や孤児の救済に至ったについては、もう一つ経緯がありまして、フィリピンには200万人が暮らすという「スモーキングスラム」があり、タイにはバンコクの河口に位置する100万人が暮らすスラムがある。遺骨収集の合間に、そこに住む人々を支援する活動をしておりましてね。そうした頃、近畿大学の創立者で元国会議員の世耕弘一さんからカンボジアの話を伺いまして、「カンボジアは、戦後いち早く日本に救援米を6,000トン送ってくれた。その後も10年間にわたって無償で送ってくれた。こんな国がある。君は若いし、宗教家であるから、カンボジアの仏教会の会長にお礼を言ってもらいたい」とのお話でした。
 昭和40年にやっとカンボジアのビザが下りた時、早々にお礼に訪れました。それで、当地の仏教会会長に挨拶に伺うと、王宮へ連れて行ってくれまして、シアヌーク殿下にお目にかかることができたんです。殿下は、「日本人から初めてお礼を言われた」とおっしゃって、歓待してくれまして、その後も、殿下が日本にお越しになる時は、東京まで招待していただきました。私としては、この国にお礼をしなければならないと思っていましたので、難民のニュースを聞いた時、まっしぐらに救援に行きたいと思ったわけです。 それから、カンボジア孤児の救済活動を始めた後、カンボジアの駐日大使に私の寺へおいでいただく機会がありました。大使は、南紀白浜空港へ到着してすぐに、地元の町長を表敬訪問したいと言われて、就任間もない小出町長に連絡し、町役場を訪問していただきました。急なことで、カンボジアの国旗も無いという状態でしたが、役場では玄関に職員が総出して出迎えました。現在でもカンボジアへの援助活動は続いておりまして、私の息子が10年余り、毎年、奉仕団として田辺周辺の新しいメンバー4、5人とともにカンボジアを訪問しています。
 それで最後になりますが、なんだか、私は今残念に思うことがあって、若い人たちに話をしているんです。毎日誰かが来て、自由にしゃべって、「そうではなくて、こうではないか」というようにアドバイスしたり、私の考え方を述べたりしているんです。今、私は、ある面では日本の内部崩壊というか、精神崩壊、そういうようなものがじわじわと来ているのではないかと思っているんです。それから、私も高齢者ですから、例えば高齢者問題を考えても、イスラムの社会では考えられない状態です。私は、中近東から中央アジア、それから今の北アフリカの方まで、あるいはインドネシアとか、大きなイスラムのある所、それからヒンズー社会とか、そんなものをずっと見てきました。高齢者を大事にするということについて、今の日本の在り方というのは、もう医療・介護保険から始まって厚生労働省で色々すごく問題になっていますけど、イスラムでは高齢者の施設なんか無いんですね。というのは、高齢者を大事にするのがテーゼみたいなもので、今更施設が必要でないくらいに、若い人が喜んで高齢者を引き取って大事にする。小学校の教育から違うんですね。それはイスラムの聖典のとおりなんです。仏教でも同じようにあるんだけども、現在の日本社会では、そういったことが非常に遠ざかってしまって、日本人が日本人でなくなっていきつつあるんじゃないか、いわゆる日本の伝統精神文化、そういったものがだんだん薄れてきているんじゃないかと思います。
 そういった面で私は、日本という国はやっぱり国土があって、国というものは非常に大事なことじゃないかと思うんです。そして、それに触ることがちょっと右寄りだと言われるようなこともありますが、もっと純粋に日本の精神文化をもういっぺん見直して、良さを発掘していかないと、価値観が物や金になってしまったら、日本はお終いじゃないかと思いますよ。
 そしてね、昨夜、ふと考えていて、この和歌山県には「稲むらの火」の濱口梧陵がおられますね。陸奥宗光、岡崎邦輔、前田米蔵、南方熊楠とか、それから佐藤春夫、川端龍子、大佛次郎、有吉佐和子とかね、それから植芝盛平、それから江戸中期の野呂介石というような絵描きさんがいますな。医師では、華岡青洲とともに小山肆成とか、それから割合と報じられませんけど、宗教家でも随分全国的に有名な方もいらっしゃいます。郷土史をしっかり教える必要がありますね。郷土を愛する、和歌山県を愛するという、こういうようなものがもっと湧き起こってこないといけない。根底となる人づくりですね。人づくりしないと、物や金だけでは和歌山県が良くなってこないということを話しているんです。

仁坂知事:そうです、そうです。私も郷土教育が大事だと、もっと勉強してほしいという思いで、教材をつくったりして頑張っているんです。本当に今日はありがとうございました。

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