日本を代表する画家・(故)平山郁夫画伯夫妻

名人対談

和歌山県には、様々な分野でそれぞれの道を究めた「名人」とも呼べる方々がおられます。このような方々は和歌山県の誇りであるとともに、その活動は県民の皆さんにとっても励みとなります。そんな「名人」から高い志や歩んでこられた人生についてお聞きし、県民の皆さんにご紹介したいと思います。

日本を代表する画家・(故)平山郁夫画伯夫妻との対談です。(鎌倉のご自宅)

仁坂知事:名人対談は県ゆかりの方とお話させていただき、和歌山の良さを皆で再発見していこうということで、今日は平山画伯ご夫妻にお願いいたしました。 
 まず、奥様の平山美知子さんのお父上、和歌山県が生んだ偉大な政治家であり、日米開戦阻止にも努力された松山常次郎さんの思い出をお聞かせ願いたいと思います。私も先日、松山常次郎記念館の落成式に出席して、初めて平山先生ご夫妻にお目にかかりましたが、記念館の設立にご尽力いただき本当にありがとうございました。私も県民の一人として感謝申し上げます。実は、私はその時まで松山常次郎先生について知りませんでした。こんな偉い方が和歌山におられたのかと初めて知り、その意味でも記念館の意義は大きいと思います。特に戦前の日本には「万能の達人、偉人」というべき方がおられましたが、松山先生もそういう方だなと思いました。政治だけでなく、人道的にも立派なことをたくさんされておられる。郷土のことも考えておられて、いろんな方の面倒を見てくださった。開拓をたくさんされてますね。、それによって現在に至るまで経済的に恩恵を受けている人はたくさんいると思います。奥様から見て、どういうお父さんでいらしたのでしょうか。

対談風景
対談風景

美知子夫人:父は九度山の「たねや」という家に生まれました。当時は高等小学校までで、上の学校には行かないんですが、父はもっと勉強したいと(奈良の)五條の中学まで、初めは四里か五里を歩いて、途中から寄宿舎に入ったらしいんですが、そこで特待生になり、京都の三高に入り、そこでキリスト教を知って、クリスチャンになったんですね。そして東大の土木工学科に入り、橋を作る土木工学を学び、卒業後はアメリカ・カンザス州ウェリントンの工務所へ橋の勉強に行ったらしいんです。その後父は政治家になりました。 
 子供の頃、私は家の庭の樫の木に登ってお菓子を食べたり読書をするのが好きだったので、そういう勉強した人から見ると、私は非常に出来の悪い娘で、「こういうおてんばの子は嫁の貰い手もない」と言っていたらしいんです。父の書斎を見ると夜の十二時前に灯が消えることはないし、朝五時にはもう起きている。そういう父を見て、私なんか全然違うなと思っていました。 
 戦後になってパージ(公職追放)になり、収入が途絶えたのに、家にはいつも居候が五人ぐらいいました。私が東京美術学校、今の芸大に入って、最後のクラス会を代々木にあった家でやったんです。それから何となく平山が家に来て夕ご飯を食べたりするようになったんです。そんなふうに皆を受け入れる家は当時もなかったですね。特に今は核家族で、とてもそんなことはやってられないですね。

仁坂知事:しかし、良くできましたね。

美知子夫人:本当に母が頑張ったと思います。

仁坂知事:その昔は資産もおありだったでしょうけどね。

美知子夫人: 父は贅沢をする人ではなかったです。好きなものは焼き芋で、ホットケーキを「こんなおいしいものはない」と言う人で、本当につつましい家だったと思うんです。お客様が急に来ると、お汁に水を入れて、量を増やして食べるんです。 
 夕ご飯が大体二十人ぐらいなんです。兄の嫁も良くできた人で、平山と私が結婚できたのもああいう姉がいたからです。夕ご飯の時に平山が来たら普通なら追い返すと思うのに、「平山さん、どうぞ食べてください」と。そうすると女たちが食べるものが減るんですね。

仁坂知事:奥様が書かれたご本「或る家族の軌跡」を見ますと、「平山さんはお客じゃない、家族だ」と書いてありますね。

美知子夫人:三番目の兄が戦死していたので、母が兄の代わりと平山を頼りにしてくれて、何となく結婚することになったんです。初めはそんなつもりは全然なかったんですけど。松山家というものがあったから、結婚できたと思うんです。

仁坂知事:恐いお父様がお嬢さんだけには優しい、ということが世の中にはありますよね。

美知子夫人:そんなことはなかったですね。政治家の家の娘はお手伝いさんと同じなんです。人に奉仕する、人のためになることをしなさいと。私が寝坊したり、ヘルマン・ヘッセなど読んでいると、「そんなことをせずに、もっと真面目にやれ」と。

仁坂知事:そうなんですか。家族全体で奉仕しなければいけないと。それは立派ですね。 
 平山先生も「(義父の)聖書の英語の朗読の声で目が覚めた」と書いておられますが、お父様はいつも勉強しておられた。私はあまりコツコツ勉強するのが苦手ですけど、そういう努力する人を無条件に尊敬してしまいます。 
 お父様は橋梁を勉強されたのに開拓事業もされた。これはどうしてだったんでしょうね。

美知子夫人:アメリカのカンサス州の工務所に入って、図書館に行って勉強することが多かったらしく、本を読んで日本の将来を考えたら「きっと人口が増え、食糧難になる」と、橋を作るよりまず土地改良をしないといけないと思ったらしく、朝鮮半島に渡って二万四千町歩も開墾しているんですね。 
 でも民間でいくら頑張ってもダメで、政治家になって幅広く働きかけないといけないという思いで選挙に出たようです。選挙にお金がいるので土地は全部処分して、代議士の選挙に出たようです。

仁坂知事:代議士になられて立派だったと思うのは、政友会の中でいろんなことをやられていますが、廃娼運動をやられ、命を狙いに来た人が逆に心を打たれてボランティアでボディガードになったとか。

美知子夫人:戦争が激しくなり、キリスト教が弾圧されたんですね。それで牧師さんを一生懸命応援したようです。韓国で、日本人で尊敬できるのは民芸運動の柳宗悦と松山常次郎と言ってくれたらしいですね。

仁坂知事:正しいことは時代にかかわらずおやりになるということで、太平洋戦争の開戦前にキリスト教の方々でアメリカにも行かれましたね。

平山画伯ご夫妻
平山画伯ご夫妻

美知子夫人:何とか戦争を阻止したくて、アメリカのクリスチャンに呼びかけて戦争をやめさせようと、賀川豊彦さんら七、八人で、うちの兄が秘書役で。でも流れは止められないんですね。とうとう戦争になってしまいました。 
 父がキリスト教の牧師を助けたり、開戦阻止しようとアメリカに行ったりしたことは、アメリカも知っていらして、戦後最初にうちに(援助)物資が来たんです。アメリカに少しは通じたと思うんですね。

仁坂知事:自戒を込めて言うんですが、時代の流れに沿って旗を振るのは楽なんですね。でも大事なことを「千万人と雖(いえど)も吾往かん」と主張するのは簡単なことではない。

美知子夫人:本当に大変だと思うんです。高野山の麓に生まれ真言宗ですから、京都に行ってクリスチャンになり、親戚に反対されたようですが貫き通した人ですね。

仁坂知事:思い出したのは日露戦争の時の金子堅太郎さん。当時の日本がもう少し冷静だったら、松山先生、賀川さんは金子さんのような働きができたんではないでしょうか。

美知子夫人:教育とは恐しいもので、私たちも竹やりの練習したりしてたんですよね。今は何でそんなこと思ったのかと思いますけどね。今の教育も本当に難しいのではないでしょうか。

仁坂知事:平山先生から見て、松山先生はどんな方でございましたか。

平山画伯:戦後代議士も辞めて、晴耕雨読というんですかね、教会でお祈りしたり、朝早くから聖書を読んだり、読書していろんなものを書いておられたようです。 
 結婚するに当たって、芸術家はどうなるか全然わかりません。芸術家として大成するのは何十人、何百人に一人。真剣に考えればえらいことになると思いながら、描くことが好きで芸術家を志すんですからね。戦争で食べるものはないし、私は最後は広島で被爆しますしね。頭の上から爆弾が落ちてこない、好きなことができるだけで幸せであるというところから、立ち上がりましたから。 
 松山の父から「先はどうだね」と聞かれ、「どうなるか全然わかりません。一生懸命頑張ってどこまで行けるか、大変な道です」と。それはわかっておられたんじゃないですかね。

仁坂知事:「どうなるかわかりません」という人に「大事な娘はやれない」とはおっしゃらなかったんですね。

平山画伯:一つは卒業して芸大の助手に残り、前田青頓先生の研究室にいましたから。いろんな意味で助けられたんですけれども、それでも自分で力をつけて、自分の芸術理念を表現して世の中に出ていくのはだんだん壁が厚くなります。これはちょっとやそっとでは。歴史を相手に闘うようなものです。しかし、何回も挫折しそうになりながらも、思い直してやったということでしょうかね。そういう点で二人で結婚して、非常に大変なんですけれども、大変さを非常に良く理解できるんですね。 
 それから、釈迦の涅槃図をどう表現するか思い悩んでいた頃、義父の死を目の当たりにしました。そこで悲しみを超えた死というものもあると確信を持ち、涅槃図を大きく前進させることができたんです。義父に導かれたんだと思っています。

仁坂知事:推測ですが、やっぱり偉い人は見抜いたんだと思います。この人は「どうなるかわからん」と言っているが立派な男だと。かわいい美知子を結婚させても大丈夫だと。ただ、こういう立派な人に見込まれて結婚したんだから、これは志半ばでくじけてはいかん、頑張るんだとお思いになりませんでしたか。

平山画伯:ええ。それと厳しいのは分かりながらも、良い環境の大学に残っていろんな偉い人ともお会いできたこと、それに、家内も絵がわかりますので、こちらの足りないところを進言したりしてくれます。「一人じゃ飯を食えないが、二人なら食える」というのと同じで。9.99まで迫ってきても0.01足りなくて不発になることもあります。そんな時、ちょっとした一言で、何気ない元気付けでも、はっとすることがあるんですね。 
 そういう点では一緒にやって来ましたから、家内は非常に厳しい一番の批評家なんですよ。そういうことがないと、なかなか難しい世界、わずかの違いで全然違う方向に行ってしまうこともあります。そういうことを積み重ねながら、しかも幅をもって、やって来られたんだと思います。 
 最初は全部勉強なんですよ。慌てて世に出ようとしてもダメなんです。内面に充満するまで、蓄えるまでの我慢が難しいんですよね。

仁坂知事
仁坂知事

仁坂知事:芸術家や偉い学者、宗教家などは充満するまでじっと追求していますよね。私は行政官ですが、手っ取り早く片付けてと、ついそういうことを考えてしまうから、いかんなあと思っているんですけど。 
 平山画伯:それと文部教官助手という肩書きになって、自分の研究実績が上らないといつ辞めさせられるかわからない。これは薄氷の上を歩くような非常に厳しい環境です。先生も、社会も、学生も、厳しい目で見ている。死に物狂いになっても、いろんな要求が来るので、覚悟は決めて浪人になっても勉強できる態勢だけは保っていたいと考えていました。 
 その点は貧乏長屋のようなアパートにいて家賃が安い上に、家内が中学の美術の先生をしながら少しずつ貯金していってたんですよ。私なんか、貯金の貯の字もありませんでしたけどね。ある時、家内が「土地を買おう」と言い出して。私は全然夢にも思わなかったんですがね。助手をいつやめても慌てなくてもいいように、アトリエだけは作ろうと。

仁坂知事:それが成増(東京都板橋区)の?

平山画伯:そうです。アトリエを建てることになって。棟上げには父に来てもらいました。とても喜んでもらいました。 
 私が一人でいると、もらった月給を飲んだり遊んだりするのに、それをきちっと貯金をして。まあ、山内一豊の妻じゃないが、貯金があると言われたときはびっくりしました。

仁坂知事:その一豊の奥さん(笑)は、芸大を首席で卒業されたそうですが、ご結婚されて平山先生を支える方に回られましたが、自分も描こうとは思いませんでしたか。

平山美知子さん
平山美知子さん

美知子夫人:私は芸大に受かって「私は一生結婚なんかしません」と言って、親は心配したと思うんですね。それで平山という友だちができて、家に遊びに来ていて、親としては「どういうわけであの子は来ているのか」と心配だったと思うんですね。 
 私も結婚ということを考えた時は、二年考えました。二人で絵を描くか、どっちかが止めるか。夫婦で絵描きだと、奥さんの方が真面目に一生懸命やって(画家として)残ってしまうことが多いので、私はそういうのは嫌だと思ったんですね。私の亭主になる人には、ちゃんとした画家になってほしい、それには二人で描いていくのはちょっと無理だと。 
 それこそ結婚する時には蓄えもなく、結婚したら自分の食べる分は自分が稼がなきゃいけないと、学校の先生、時間講師ですね、二校掛け持ちでやったり、随分外国人なんかにも教えたんですね。一生懸命二人で、一月の食費は二万円であげ、余分は全部貯金しちゃうんですね。そうするとだんだん貯まり、六畳一間では絵を描けませんから、アトリエを作っておこうと。平山はびっくりしたんですが、何とか家を建てるだけの土地が手に入ったんですね。

仁坂知事:それからどんどん平山先生はいい絵を描いていかれるわけですが、奥さんはいつも一緒に取材旅行に行かれて、アレンジ面もされている。これは立派だと思うんです。一番初めにシルクロードに行かれたのはバーミヤンですかね。

美知子夫人:それを言うと長くなるんですが、平山はユネスコフェローシップの第一回留学生でヨーロッパへ行き、次に東京芸大オリエント調査隊でトルコへも行っていましたので、「僕ばかり行っているから、そのうち君も連れて行ってやるよ」と言ってたんですよ。 
 第二次東京芸大オリエント調査隊の壮行会がトルコ大使の家であり、私も呼んでくれたんです。そこである女性の方に「私たち女もトルコの調査隊を見に行きません」と言われて、私はびっくりして。お金も心配だし、国内旅行すら行ってないのに、平山が「今度は家内も行かせようと思ってます」と言ったのでまたびっくりしたんですよ。「この人ウソばかり言って、冗談じゃない」と思って。そこで京大の先生が「女だけではだめ。是非平山さんも加わって、写生してもらったら」と言われて平山も加わったんですが、話が進んでいくうちに声をかけていただいた方も、それから他の方も、いろんな事情で行けなくなって、結局二人残っちゃったんです。 
 幸運だったのは、第一級の先生方のご支持で行けたということですね。親しくしていた日本美術の先生には「日本画家はまず中国に行くべきだ」と言われました。しかし中国は当時文化大革命で入国できなかったんですね。カザフスタンに行けば、天山山脈の端が見えるからまずカザフスタンに行けと、カザフスタンがどこかも何もわからないのに。アフガニスタンは京大が発掘調査していたので、京大にも行ってお話をうかがい、女の私が行ったからか、親切に資料を下さいました。 
 インドのアジャンタ第一石窟、アフガニスタンのバーミヤンの大仏の石窟の壁画が、法隆寺の壁画の源流と言われているんだけどインドは暑くて行けないから、結局アフガニスタンに行こうということになりました。今の旅行者と違って、よくあんなところに行けたなと思います。

平山画伯:昭和43(1968)年ですからね。アフガニスタン、カブールなんて誰も知らなかった。ましてやカザフスタン、ウズベキスタン、サマルカンドなど旧ソ連領ですからね。トルコに四ヶ月いたり、ユネスコフェローでヨーロッパを半年一人で歩いた経験はあるが、それでも文明国と中央アジアとは大分違う。だから行ってみようと。 
 いい時に行ったですね。感動して、後の創作に役に立ちました。その代わり行くのが大変なんですよ。

仁坂知事:奥様の御本を読ませていただいて、一番びっくりしましたのは、松山常次郎先生が西域についての漢詩を書いておられる。先生は行かれたことがないはずなのに、この漢詩から本当に平山先生の画のような、また我々が今各種の映像で見ることができるようなシルクロードの風景がまざまざ浮かんで来るし、また、その対象地域はまさに平山先生が御訪問され、画にお描きになった地域である。そした、そこに先生が行かれたきっかけは松山先生の忘れ形見である奥様のお話から始まった。こういうことを考えますと、まさに松山先生が天国からお二人をシルクロードに導かれたとしか考えられないような気がします。 
 美知子さん:もう結婚して何年も経ってから、お友達に大陸感懐っていう詩があるのを教えてもらったんです。見たら、まるで私たちが歩いてるところじゃないって言って。

平山画伯:そう、テンシャン山脈やタクラマカン砂漠が出てきていたり。

仁坂知事:まるでここへ行け、と言っているみたいですね。

美知子さん:父に導かれて旅行していたみたいで、父は分かっていたのかと思ってびっくりしたんです。運命や血とかっていうのは伝わるんだなぁと思うんですよ。

仁坂知事:ところで先生は必ず現地に行って見ておられますね。私なども写真では風景を知っているわけですが、必ず現地に行くというのはどういう理由なんですか。

平山画伯:写真だと形や様式はわかりますが、現地に行って砂漠はどういうものか、イスラム教と暮らしとはどういう関係があるのか、自然と暮らしぶりの関係とか民族性をやはり現地で体感しないと、広がりや、スケールや、暑い寒いの実感もわかない。自然から見た感動が強烈なんですね。それが一番創作の源になる。

仁坂知事:感動を創作に入れるというか

平山郁夫画伯
平山郁夫画伯

平山画伯:もちろん写真は参考にしますけど、自分の実感というものがまず必要です。自分と対象の関係を、理屈でなく、感覚的にスケッチすることで、その歴史も踏まえて、無意識に、そのまま無我になって感じたままを描いていきますから。短い時間でも長い時間でも、現場の取材が非常に生きている。山の稜線一本描くにしても、人を描くにしても、そういうものを自分でたたき込んで、だんだん自分の中のイメージで絵を創っていくんですね。 
 一期一会というんですかね、一番最初に出会った人や風景、その他に一番感動しますね。同じ場所に何回行っても、季節や天候や自分の知識や、いろんなことで感動は起きます。しかし、第一回目のわけのわからない時の方が、わっと乗ってきますね。みんな初めての経験で、見るもの聞くもの初めてで、こんな世界があると。そういうものが、ほとばしるように創作の方に向かっていくんですね。

美知子夫人:当時は日本画家は富士山や舞妓さんなど、静物や風景を描いていました。画商さんも「平山さん、アフガニスタンに行って砂漠を描いても売れませんよ」と言われたんですね。だけどちょうど井上靖さんが新聞に「西域物語」を書いたりしてたので、日本人の目がシルクロードに向くようになっていたんですね。平山が帰国して、「シルクロード美術展」をしたら物凄くお客さんが入ってくれました。

仁坂知事:仏教伝来とかシルクロードが平山先生の本拠地だと思うんですが、そこがいいとお思いになった理由は何なんでしょうか。

平山画伯:広島の体験上、平和を祈ることが大きなテーマだったんですが、それを具体的にどうやって描いていくのか、十年かかってしまいました。美術というのはやはり美しくないといけないですね。そこが文学とは少し違っています。大変な目にあって生き残れば、醜いことがあっても、その中で浄化された美しいものを描かなければいけない。希望の出るものでなければ。ちょうど蓮の花が泥池から咲いてくるように。真水の一番純粋な水からは、もやしぐらいのものしか出てこないんですよ。疑問も悩みもなければ、何も生まれてこないわけですね。第二次大戦などいろんなことを体験しても落ちることなく、平和を祈りながら涅槃の、天国への道を描くのが美術だと。

仁坂知事:天国への道がシルクロードだということですか。

平山画伯:本当に何もないし、暑いし、食べものも自然も厳しいですけど、こういうところを通って文化が日本へやってきたメインロードだったんですね。何もないが、そこが芸術の力で、「よーし」と希望や、次に生まれるものを予感する。どろどろした地獄の世界を体験したかもしれないが、それを抜けていく。音楽でも名作を聴くと、元気が出るということがあると思うんですね。 
 ユーラシア大陸の文明文化は、エジプトやメソポタミア、インドのインダスや黄河文明が縦糸、横糸になっているように、どうして宗教が、国家が生まれてきたかが現れています。大変な犠牲の上に立ちながら、人間が大変な文明を築き上げたんですね。 
 それを活かせばいいのに、破壊する方向にもっていく。美術、音楽は本来希望を持たせるものです。大変な目にあってるほど、強烈に、反対に出るんですね。

仁坂知事:平山先生のお立場から、これから日本はどうあるべきか、うかがいたいと思うんですが。

平山画伯:戦後六十二年、日本は焼け野原になったのにもかかわらず、日本人本来の勤勉さ、国際的諸条件に助けられ、日本の千五百年の歴史の中で、私は今が一番栄えていると思います。しかし、貧しい時にも人間的に親切で謙虚に学ぶ心を持っていた日本人もいました。信長の時代に宣教師が来てマドリッドやリスボンに送った報告書に、日本の庶民は町の高札の漢字が読める、これが驚きで、外国人に親切でよく働くし、将来は立派な国になるんじゃなかろうかと報告している。かつて日本は貧しいから一生懸命働き、モノを作っては貿易し豊かになった。だけども失ったものもあり、中には人をだましたり、反社会的なことをやったり、教育問題などもニュースにしょっちゅう出ている。もう一回、日本の伝統文化や美徳を意識して、日本が尊敬されるような国になってほしいと思うんですね。

仁坂知事:私は大使も経験しましたが、まったく平山先生のおっしゃるとおりだと思います。日本は外国から見れば十分美しい国だと思いますよ。ただそれを日本人が自覚していないところがあるし、日本の外交がそれを自覚できるように振舞ってこなかったところもあった。醜さをわざと言ってしまうところがあったように思うんです。 
 私は博物学が好きなんですが、プラントハンターという人達がいました。大英帝国華やかなりし頃に、蘭などの貴重種を求めて新世界に来るんですね。幕末の日本に来たプラントハンターがびっくりして書いている話があるんです。庶民の住む日本の長屋に朝顔や菊の花がある。当時のイギリスでは貴族だけ、レベルの高い人しか花を楽しむ心のゆとりがないんですね。ところが日本では市井の人も花を愛でる、美しさを理解する国民だと。これはすごいことだと書いてある。

平山画伯:日本は戦後、近代史の中で何歩も先んじた国際的な制度を、国内外の大勢の犠牲者の上に立って、いい制度を作った。だから、きちっと皆が意識して、我々は困っている国を助ける、食糧問題でも福祉問題でもですね。
こうした趣旨で私たちは人類共通の文化遺産を守る、文化赤十字という活動を進めています。世界には必ずしも自分たちの先祖が作ったのではない文化財もいっぱいあるんです。アフガニスタンにしてもイラクにしても、違う人種が作ってたまたま文化財として残っています。もちろん、カンボジアなんか自分達の先祖がクメール文化を築いたわけですがね。素晴らしい文化でありながら、荒廃して人心も乱れているところもある。一番大切なのは、人間としての尊厳、誇りを呼び戻すことです。カンボジアの人に自分たちの先祖はこんなに素晴らしい文化を築いた、もう一回皆さん自力で立ち上がってください、立派な国にしてくださいと。カンボジア人によるカンボジアの復興が一番なんですね。

仁坂知事:松山常次郎先生のような方が出て、身をもって自分の生き様を示すことが大事ですね。ところで松山先生がお生まれになった和歌山県のことなんですが、お嬢様としてはどう思われていますか。

美知子夫人:和歌山の九度山に帰ると、残念だけど眠っているような町になっています。有吉佐和子さんが書いていらっしゃるけど、昔は町並みがきれいだったし、紀ノ川もあるし、私の母は腰巻で紀ノ川を渡ったと聞いています。父が望んだ和歌山とは違う方向に少し行っているかなと思うんですけど。もう少し目覚めた九度山になってほしい、もうちょっと若者がここに住みたいと思う町になってほしいと思いますね。

仁坂知事:松山先生はどんな和歌山でなければならないと言っておられましたか。

美知子夫人:とっても九度山が、和歌山が好きでした。東京に家があって住んでいましたが、九度山を愛してたと思うんですね。私も何とか九度山をいい町にしたい。ああ九度山に行きたい、五月に行くと鯉幟があっていい、柿もおいしいし、みかんもおいしい、九度山に行けば心が休まるのよ、というところにしたいと思っているんです。

仁坂知事
仁坂知事

仁坂知事:そうするために、いくつかやらなければいけないことがあって、一つは若者が住み続けることができる場所でないといけない。そのためには、今の時代に合った職業を和歌山でも選択できるようでないといけない。これは頑張らないといけません。二つ目は和歌山が持っていた立派な心、松山先生が持っていたような心を失ってはいけないと思います。これは恒産なければ恒心なしで、特に経済的に具合が悪くなると、手っ取り早く儲けようと思い勝ちですから、それが最近の談合がはびこったり首長の汚職が取り沙汰される話です。利益で結びついた人間関係でビジネスもできているのではちっとも全体のパイが増えない。 
 和歌山には立派な実業家がたくさんいらして、農家で頑張っている人もたくさんいるんですね。人に対する優しさを失わない人もたくさんいる。そういうことを失わないようにしないと、和歌山に来た人がもうあんなところに行きたくないと思ったら面白くない。心を失わないようにすることも大事と思いますね。 
 もう一つは、和歌山出身の人を大事にしないといけませんよね。和歌山のことを心の中で大切に思っている人は今でもたくさんいますよ。そういう人のお知恵、力をお借りし、元気だけでももらいに行くことも大切です。

平山画伯:和歌山県を見ますとね、まずは熊野詣で、平安朝から鎌倉時代にかけて、上皇、貴族が何回も行かれていますね。三重、奈良、和歌山とつながってます。近世になったら、徳川御三家の一つですね。吉宗も出ていますから。日本列島の中で日本を分母とすると、分子の和歌山は非常に比重が重いですね。高野山もありますしね。精神的に非常に強いと思いますね。和歌山は京都、大和と並んでも遜色のない重みがありますからね。

仁坂知事:高野、熊野は世界遺産になって、昔はそれこそ一種の極楽ですからね。先生の絵にも、高野、那智を描いていただいています。

美知子夫人:私、天野(和歌山県かつらぎ町)に行くと、天孫降臨はここではないかと思うほどで。だって丹生津比売(ニウツヒメ)が稲作を教えてるんでしょ。本当に良い土地なんじゃないかと思いますね。

仁坂知事:そういう古き良きものは大変な財産ですね。失わないようにしないといけませんね。

平山画伯:大変な財産です。熊野詣では祈りの道です。環境保護でもあるし、歴史もある。高野山もありますしね。今年三月、フランスに行きました。ルルドというところは、未だにヨーロッパ全土からぞろぞろ人が来ています。私も絵を描きに行き、これはすごいと思いましたが、高野山も祈りの道ですよね。環境保護を行いながら、自然の美しさを感心させる大変な財産が和歌山にはありますから。

仁坂知事:たくさん来ていただいて、満足して帰ってもらうためには、我々が良さを守り、環境を棄損しないように、失わないようにしないといけません。流行らないといけないが、流行ることによる弊害もまた除去しながらやらないといけないと思うんです。

鎌倉のご自宅にて
鎌倉のご自宅にて(左平山郁夫画伯中平山美知子さん右仁坂知事)

平山画伯:おっしゃるとおり、壊してはいけない。それに環境保護はこれからの大きな課題になります。世界中がどうするかが問題になっています。日本なんかは、自動車の二酸化炭素など一番考えながらやってるんじゃないかと思います。

仁坂知事:そういう問題を考えて、和歌山をここがふるさとだと思ってもらえるように、企業の森というのをやっています。企業の皆さんに植林をしてもらって森を育ててもらうことで環境問題に取り組んでもらう。そして地元の皆さんとの交流やいろんな体験もしてもらう制度です。 
 それから景観でいうと、高野山は昔からお坊さんがきちっとしていて安心ですが、熊野の方は地域も広いのでそうもいきません。保存しないといけない。このため景観条例を今一生懸命作っているんですよ。

平山画伯:それは重要ですね。奈良の飛鳥と一緒で、放っとくと大変なことになります。イタリアでもどこでも個人主義が徹底していますが、景観を徹底して守りますね。守ることに誇りを持っています。 
 和歌山を歩くと、日本の原風景みたいなものが残っていますしね。那智の滝、紀ノ川もあり、そういう点で人を引きつける力があるんじゃないですかね。

仁坂知事:経済的に悪くなると誰でも自信をなくしてしまうところもあります。でも、高野や熊野という財産もありますし、訪れた人たちにその魅力を伝える「語り部」の人たちも人を引きつける和歌山の大切な財産です。和歌山に来て心の満足を持って帰ってもらえるように、いいものがたくさんあって正しい心をもってやってきたことが良いことだということを、皆で自覚して頑張りたいと思います。 
 本日はありがとうございました。

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