知事からのメッセージ 令和4年10月26日
雀百まで踊りを忘れず
「雀百まで踊りを忘れず」という諺があります。いくつになっても同じことを言っている、やっている、思い続けているといった意味だと思います。最近自分のことですが、この諺を思い出す場面に遭遇しました。
このところ和歌山市の西高松、俗称で車庫前の亡き両親の家、簡単に言うと私の実家を片付けています。今は知事公舎に住んでいるのですが、当然のことながら知事を辞めますと居られませんので、そちらに移ることになっており、少々そのための改装をしているのです。その際、実家にあった様々なものを整理しなければなりません。何せ古い家ですからいろいろなものが埃にまみれており、親不孝な息子で、知事としての公務多忙にかまけて、片付けを全くしていませんでしたので、今大変なことになっています。書類や写真や記録などは人任せにできませんので、せっせと片付けをしていましたら、私の子供のころの成績物や日記や作文などがボロボロの紙のまま出てきました。
その中に私が和歌山大学附属中学校の一年生の時に書いた作文が載っている文集が出てきました。どうやら時の生徒会が、もっと生徒会活動を活発にしようと考えて、作文を募ったのでしょうか。その中の一つに私の「生徒会についての私の考え」という作文が載っていました。もちろん私にはまったく記憶がなかったのですが、それを見ると、我ながら、「雀百まで踊りを忘れず」だなとあきれたり、苦笑いしたりした次第です。
どうやら、私に限らず、他の三年生の方の作文も二年生の方の作文ももっと生徒会活動に積極的に参加しようという主張のようですが、私は大略次のように2つの意見を述べています。
第1にまず徒然草を引用して、昔の人は、世を捨てて精神生活で高みに遊ぶことをよしとしているようだが、そんなことをしていたら、世の進歩がなく人々が幸せにならない。人は皆もっと世俗に関与して積極的に世に貢献しなければならない、と言っています。高等遊民などにならずに、もっと働いて世のために尽くせ・・・これはどこかの知事が言いそうな言葉ですね。
さらに仁坂少年は世のために尽くせという主張の延長で愛国心を賞揚しています。ところが今から考えるとどうかなということまで述べています。すなわち、ちょっとお金が儲かったからといって、海外旅行に行ったり贅沢な輸入品を買ったりするようなことをするのはよくない、と言うわけです。また、米国の輸入制限も礼賛しています。この少年がその後、自由貿易を守るために一生懸命働き、さらに通産省輸入課長になって、当時あった過大な貿易黒字を減らすために輸入促進政策を進めるに至るとは何という皮肉でしょう。おまけに、仁坂少年の筆はさらにすべり、当時日本よりも一足先に経済成長を達成した西ドイツの生産力増強を主眼とする経済政策を評価し、あろうことかソ連の生産力増強を内容とする計画経済を賛辞しているのです。この辺は、仁坂少年も、日本はだめだ、間違っている、諸外国は偉いという、当時も今もはやりの自虐史観、特に社会主義を高く評価する世論の影響を強く受けているように思えます。
筆がすべったところを除くと、仁坂少年は、人が皆一生懸命働いて社会に貢献すべきであるように、我々も生徒会活動に大いに参加して貢献しようといっているのです。
第2に仁坂少年はもう一つの命題について語ります。それは道徳、正義が大事だという主張です。人が一生懸命働いたとしても、不道徳なやり方をしてはいけない、自分だけよければという考え方ではいけないし、まして人を騙したり、友を裏切ったりしてはいけない、生徒会で皆で決めた掃除などは、きちんと励行するのが人としての務めだなどと言っています。これも、もう二度と官製談合などが起きないように、誰かが不当に優遇され、他の人がやる気をなくすようなことがない公共調達制度を作り、学校教育で道徳教育をきちんと行うことが最も大切だなどと言ってきたどこかの知事とそっくりではありませんか。またその流れの中で、仁坂少年の筆はまたすべって、人の道をはずれるようなことをしていたら、いくら東大一番と言って威張っていても何の意味もないなどと述べています。この辺は私がずっと主張し続けているところです。事実一流企業に入った高学歴の人でその誇りだけで生きていて、その後あまり評価されなかった人の事例もいくつか見ています。
こんな作文があったことを再発見して「雀百まで踊りを忘れず」だなあと苦笑してしまった私でありました。思い返してみると、確かに仁坂少年はわりとまじめな少年だったと思います。親には「石部金吉」などとからかわれていた記憶があります。ただ、あの作文でそこまで熱心に主張した生徒会活動は、最終学年に至るまで熱心に取り組みましたが、後々政治家になった人によくあるように生徒会長に立候補するようなことはなく、立派な友人を生徒会長に推して、その参謀役として、生徒会活動を支えました。その点は、官僚として政治家がトップとして率いる国政を支えるほうに回った、後の仁坂青年と仁坂壮年の生き方に通じるものがあるなあとも思います。そうすると和歌山県政のトップとして、知事を勤めたこの16年間は少し「雀の踊り」からトゥーマッチだった時期のようにも思います。
その県政トップとしての時期ももうすぐ終わります。今後は、本来の「雀」に戻って、和歌山県の発展のためにこれまでの経験を生かし、自ら信じることを発信していきたいと思います。