知事からのメッセージ 令和4年9月7日

令和4年9月7日のメッセージ

『絶滅危惧の地味な虫たち』

 小松貴さんという昆虫学者が書いたちくま新書の本のタイトルです。この本のことは同氏が書いた『怪虫ざんまい-昆虫学者は今日も挙動不審-』というちょっとおちょくったタイトルの本を新聞広告で見つけて買って、結構共感を覚え、その本の中で、紹介されていたのを契機に購入したものです。


 テレビの自然番組でも言われているように、日本列島は生物の多様性という点でも素晴らしい自然の宝庫、ホットスポットなのですが、開発と気候変動等々の原因で多くの生物が絶滅の危機にあります。
 環境省も和歌山県のような地方公共団体も、これに危機感を覚え自然保護政策をとり、レッドデータブックを作成して、国民や県民に警鐘を鳴らしています。


 和歌山県は、我々県民が誇る自慢の自然が残されている県ではありますが、様々な問題もあります。
 第一に、和歌山へ来られた人が一様に、「和歌山県は緑がいっぱいで自然が残されていますねえ」と感心されるのですが、その緑の大部分は人工林やゴルフ場や田畑であって、「残された自然」ではありません。南方熊楠が愛でていた自然はほとんど残っておらず、ほとんどの森林は、戦後一斉に伐られて、スギとヒノキの人工林になっています。ゴルフ場や田畑が自然と違うことは申すまでもないでしょう。我々は、生きていかねばならず、かつ豊かに生きていきたいわけですから、林業も農業も観光サービス業も大事にしないといけません。しかし、今やほんの少しだけ残った本当の自然は、そっと残して開発から免れさせたいという政策目標を掲げて、私は自然公園の見直しや、紀州御留林(自然林を県や市町村が買い上げて開発の封印をする)、天然記念物指定など様々な政策を展開してきました。それが、昔の昆虫少年として、多少は自然の何たるやを現場からわかっている私の務めかなと思う次第です。レッドデータブックもその一環です。


 ところが、レッドデータブックなるものがどういう形でできているかという点については、私も多少は知っています。まず猛禽類のような好みの種があり、そればかりを相手にする傾向があります。私の好きな昆虫でも、きれいで派手な蝶やトンボ、大型甲虫など目立つ虫ばかり取り上げる傾向があります。また、ほとんどの地方公共団体はもちろん国ですら、本当の現場を知らない担当者が、レッドデータブックの作成などを業として請け負っているコンサルタントに丸投げをしている傾向もあります。
 私が知事就任時、和歌山県でもレッドデータブックを久しぶりに作成したいという予算要求が来たので、どうやって作るのかと聞いたところ、案の定、コンサルに丸投げ委任でありました。そこで、和歌山県内の各分野の自然愛好家を総動員して作るならOKだが、外注は認めないという方針を打ち出しました。コンサルなる人々の一部が、現場に立脚することなく、ステレオタイプの知識だけでこの種のレポートを作って、それを生業としているということをよく知っているからでありました。
 でも和歌山県では、在野の自然愛好家が総結集して立派にレッドデータブックを作ってくれました。愛好家のほとんどが、昔の昆虫少年、植物博士、バードウォッチャー、動物ハンター等々ですが、「昔の」という言葉からもわかるように、高齢化がどんどん進んでいます。また、どうしても、やはり派手な生物に関心が偏っていることは否めません。


 表題の『絶滅危惧の地味な虫たち』の著者小松貴さんは、このことを踏まえ、絶滅危惧の中でも、地味な目立たぬ、場合によっては、嫌われている昆虫やクモ、多足類を掘り起こし、実態を極めることに情熱をもって、大変な苦労をしている人ですが、私のような愛好家からすると大変興味深い、そうでない人からすると何の関心も沸かない活動を、一生懸命やっておられることが、この本を読むとわかります。本当にすごいと思いました。
 小松さんの二冊の本の中で、そうだと思ったことがありました。それはレッドデータブックの種解説のところに、できるだけ写真を入れるということです。和歌山県の旧版もそうですが、各種の解説のところには写真がありません。(始めのほうにまとめて何枚かの写真は入れています。)私などの愛好家は蝶はもちろん、一部の昆虫や動植物は「ああ、あれか」と理解しますが、他はどんなものかさっぱりわかりません。大勢の読者にとっては全部がそうでしょう。執筆者や専門の研究者だけがわかるという形です。小松さんはこれに気付いて、稀少種の探索を始めた動機は、目立たぬ稀少種を見つけて生態写真を撮って、その写真集を出してやるぞと思ったからだそうです。もっとも、それはあまりにも大変で、ギブアップ気味のようです。
 これを読んで、ただいま改訂中の和歌山県のレッドデータブックの種解説にできれば生態写真、無理だったら標本写真をつけよう、両方ともないものは仕方がないという指令を発しました。執筆者の方々の中には、その一流の美意識からか出来の悪い写真は出したくないという人もいるようですが、読者である県民のことを考えたら、出来の悪い写真でも無いよりはましです。ひょっとすると、日本で初めての写真付き種解説のレッドデータブックができるかもしれません。


 小松さんの本には、頭でっかちのステレオタイプをいう人でなく現場を知っている人だけが吐けるいい言葉がたくさんあります。私の共感するいくつかを少し長いですが引用します。


 『テレビの自然番組で見飽きたゾウやライオンも裸足で逃げ出すような、珍妙で面白い生態を持つ生き物は、まだまだこの日本にたくさんいる。しかも、我々のすぐ近くに。それに気づかないまま、それらをこの世から消してしまうのは、あまりにも惜しい。だから、私は絶滅の危ぶまれる虫たちの中でも、より「金銭的価値がない」「より人々の同情心を引かない」「研究対象として扱えるほどの個体数を得られない」ゆえ、研究者すら誰も調べたがらないものばかりに注目し、その生態を明かしてやりたいと思っている。』


『絶滅危惧の地味な虫たち』ちくま新書 P.304より


 『昆虫採集を禁止する法律や条令というのは、比較的すんなり可決されてしまうものである。何しろ、虫マニア以外誰も制定に反対する理由がないし、虫が採れなくなったところで困りはしない。加えて、そういう決まりごとを作ったという実績があれば、対外的に「この県(国、自治体でも)は自然保護に積極的で素晴らしい」ように見せかけることもできるので、一石二鳥だ。
 しかし、自由に捕まえも触れも飼えもしない野生生物に、本当に心から親しみを持てる人間(特に子供)がいるだろうか。野生生物の中でももっとも身近で、手に取りやすい虫との触れ合いを禁じることにより、やがては自然そのものを人間の感性から遠ざけてしまう結果にはならないだろうか。自然がなくなっても、何の良心の呵責にもさいなまれない人間を量産することにはつながらないだろうか。この手の決まりごとを作る役人の方々には、今一度そうしたことを考えて頂きたいものである。私は個人的に、こうした決まりごとが増えることにより、大人の虫マニアの楽しみが減るということより、将来の自然科学を背負って立つであろう子供らから楽しみを奪ってしまうことの方が、より問題であり、罪深いことだと思っている。
 もし、日本全国で昆虫採集が完全に禁止される未来があったとして、その日本では虫マニアに脅かされることもなくなった多種多様な虫たちが息づく、「古き良き自然豊かな景色」が広がっているのだろうか。残念ながら、私にはまったくそうは思えない。昆虫に関する生息状況しかり、生態しかり、情報源が一切途絶えた世界になるからだ。虫マニア以外に、誰が好きこのんで虫のことを捕らえ調べるため、一年中昼夜を問わずヤブに分け入り、沼に浸かり、荒波をかぶり、塹壕を掘り、コウモリの糞まみれの洞窟を這いずるのか。その行為を否定されたなら、何が絶滅危惧種なのか、どこに絶滅危惧種がいるか、誰にもわからなくなる。
 そして、何もわからないままに乱開発だけが進みに進んで、原野や野原は「環境に優しい」メガソーラーの太陽光パネルだらけ。高まる自然災害から市民の安全を守るためだといえば、河川敷も海岸もすべてコンクリートで固めてしまっても文句は出まい。「遊んでいる土地」など、さっさと潰してショッピングモールか何かでも作っちまえば自治体も潤う。実際、すでに今の段階でさえ、日本はそんな雰囲気の世界に変わりつつある。
 そんな世界じゃ、未来の子供は外で遊ぶよりも家でスマホゲームでもしていた方が楽しいに決まっている。それを見て大人は「子供が外で遊ばない、自然と触れ合わない」「子供の理科離れが深刻だ」などという。まさに、笑えない喜劇だ。』


『絶滅危惧の地味な虫たち』ちくま新書 P.215~より


 特に後者については、本当に昨今の風潮は問題だと思っています。
 特に稀少種だと思ったら、すぐ採集を禁止してわが事足れりとしていることが多いのです。環境省の保護政策もそういうきらいがあります。特に、少しはその種についての知識があり、しかし、本当はたいして知識しかないコンサルやアドバイザーの言いなりに行政が採集の禁止だけを掲げていることがあるようです。
 一例をあげます。最近、種の保存法(絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律)で本州中部地方のゴマシジミが全面採集禁止となりました。確かに私の若い頃と比べると本当に減っています。しかし、この蝶の生態をちゃんと理解している人は激減の理由が、主としてこの蝶の生存を支える草原性環境の激減によるもので、採集圧は二次的原因だということを分かっています。したがって、本当に保護をしようとすれば、生息環境を一緒に守るようにしなければ効果がないのです。
 和歌山県は、私がかくいう限りは、県指定の天然記念物を作るときは、無責任に全県での種指定をするのではなく、本当に守るべき生息地域を限定して指定して、その環境も一緒に守ろうとしています。(特別の理由があって全県指定にしているものもあります。)
 また、環境省の件の採集禁止にはもう一つ重大な欠陥があります。確かに稀少数はもう採集は控えるべきものもあるかもしれない。しかし、昔は稀少ではなく、愛好家は、たくさんいた時に相応の採集をし、標本として保有しています。これが、今の法規制下では、標本の譲渡譲受等一切が禁止されるのです。可能なのは博物館への寄贈だけなのですが、博物館がそんなに大量の引き取りができるはずがありません。昔の標本は、今の種の保護とはなんの関係もありません。むしろ、採集禁止になった時、標本欲しさに密漁に走る輩も考えられますが、もしも標本が現在の所有者から「市場」にたくさん提供されたら、密漁インセンティブは減ってしまうはずです。だから本当は、昔の採集品は、何らかの手段を講じて環境省にその旨の認定を受けた上で、譲渡譲受等を認めるべきなのですが、環境省は、そういうことを考えません。(私が昔担当していたワシントン条約の運用では、規制前に製品として日本に入っていた加工品骨、標本などはその旨の認定を受けた上で流通を認められていました。)自然保護と一口に言っても、あまり現場を知らない人が頭だけで制度を振りかざしたりすると、いろいろと問題が出ます。しかし、それを問題と分かる人が少ないのでマスコミ受けはよくなります。だからなかなかそれを正せません。
 しかし、自然はウソをつきません。実態に合わないことを続けていけば、保護の実が上がらない等の問題が生じます。そういう時、どうも言動などはスマートではないけれど、本当の現場のわかる、そして自然の論理もわかる小松貴さんのような人の意見がもっと評価されるべきでしょう。

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