知事からのメッセージ 令和2年6月4日

知事からのメッセージを紹介します。

令和2年6月4日のメッセージ 

新型コロナウイルス感染症対策(番外) キャッチコピーの危険性

 最近、新型コロナウィルス感染症対策の一環を担いながら、注意して世の中の議論を聞いておりますと、世の注意を引くような言葉が乱舞していることに気がつきました。

 まずクラスターという言葉が政府の専門家から出ました。オーバーシュートという言葉もそうです。それから三密という言葉もそうでした。それから東京都知事が感染経路の不明な人が多いと言うのがしばらく続いたと思ったらロックダウンというショッキングな言葉を口に出されました。そうしたら急にこの言葉がマスコミを賑わせるようになりました。ステイホームもそうでしょうか。人との接触の8割減も有名になりました。
 これらの言葉はまさにキャッチコピーで人々の心を捉えますし、そうなるとマスコミは余計使うので、益々人々の心を捉えます。そしてともすると、このキャッチコピーが、人々の行動を左右するし、ひょっとすると政府の行動にまで影響を与えるような気がします。それは人々の心を一斉にこちらに向けるためには必要なことかもしれませんが、余りにも向きすぎるが故の弊害も現れているのではないかと危惧します。
 

(1)クラスターという言葉は、昔からの感染症医学の専門用語のようですから良いとして、クラスターの発生が問題だ、クラスターから次のクラスターを発生させないようにと、偉い専門家が言いすぎる結果、日本のあちこちで、クラスターさえ発生しなければ良いのだと人々が思いすぎてはいないかと私は恐れます。クラスターが発生すると、感染者の人数が多くなるので一大事ですが、それでは、感染者が1人ずつに留まっているときはいいのかというと違います。和歌山県のこれまでの経験によれば、ひとりひとりの感染者を発見し、隔離し、その人の行動履歴を追って囲い込みをしていかないといつかは感染が爆発してしまいます。クラスターになってから慌てて対策というのでは、後手後手に回ります。クラスターが起こっては大変、でも1人感染してもやっぱり大事、というのが私の感想です。
 

(2)感染経路不明という言葉は、大変重要です。でもどうも途中から感染経路不明が、保健当局の感染者の行動履歴の調査解明をなおざりにする風潮を是認するきっかけになったのではないかと、私は思っています。
 感染源が分からない患者さんはやっかいなものです。分かっていれば、そこだけ重点的に検査、調査をしに行けば良いから楽ですが、分かっていなければ、それが出来ません。でも、感染者が判明したら、どこでうつってきたかは分からなくても、どこで誰にうつした可能性があるかは、行動履歴の聞き込みを徹底的にやれば分かるはずです。そうして、新たな感染者の早期発見に努めれば、いずれ感染は収束していくものであります。和歌山県も感染源の分からない感染者はいっぱい出ました。それでも、そこで立ち止まることなく、徹底的な行動履歴の調査をして抑え込んでいったのです。マスコミの報道を見る限り、大体は感染源の判明していないケースは何十%だったで終わりで、行動履歴をきちんと追えていないものは何十%でしたといったことは、聞いたことがありません。その結果、自治体の保健当局の中には感染源不明を理由として、それ以上行動履歴の調査に熱心に取り組まなくなるという影響があったのではないでしょうか。
 

(3)オーバーシュートという言葉がコロナ問題で出てきたときは、私は正直びっくりしました。なるほど感染症の大爆発のことを言うのか、と理解した次第です。外国語で言うと中々格好が良いので、瞬く間に人々の間に拡がりました。
 しかし、オーバーシュートというのは、目標とするところを行き過ぎること、適正値を超えることだと私は理解していましたから、コロナの世界で言うと、はじめは、病院の収容能力を超える患者の増加というような意味で言っているのかなあと思っていましたが、尾身茂さんなどがテレビで言っているのを聞いていると、ただの感染の大爆発で使っているようです。そう言えば、昔は金融証券用語だったようです。過剰投資のように『過剰』の意味が無いとどうも本当はしっくりいかないのですが。
 

(4)三密という言葉は、大変キャッチーな言葉です。尾身茂さんなど政府の専門家の方々が、『密接』『密集』『密閉』の三密を避けて下さい、と言われた時は、なるほどその通りだと思いました。いかにもうつりやすい。その後この言葉は、流行語のように人々に使われています。『三密は避けて』というのが万古不易の真理のようです。しかし、私は、最近これは弊害があるなあと思い始めました。余りにも人々が、三密はいけないと信じてしまったものですから、ついに三密がいけないので、三密さえ避ければ良いんだと思い込んでしまったのではないかと。こんなこともありました。うつるリスクの高い施設の休業要請を検討していた時、あるスポーツ施設は施設の窓を開けて、三密でない状態でスポーツをやってもらっているので三密でないからいいのではという話が出たのです。いくら窓を開けても、感染者と組んずほぐれつをやるようなスポーツならうつる可能性が大です。要するに大事なのは密接で、これ一つでもう十分に危ないということでしょう。従って和歌山県では県民の皆さんへのメッセージを変えました。『密接はダメ、三密はもっとダメ』です。しかし、多くの政府関係者や地方団体の幹部、それにマスコミなどの方々の話すのを聞いていると、今だに、「三密はダメ」の一点張りです。いかにいいキャッチコピーが影響力があるかです。
 

(5)ロックダウンという言葉もなかなか印象に深く、これを東京都の小池知事が使ったことから、日本中にインパクトを与え、緊急事態宣言から、日本中が対象地域へと一挙に行動自粛が進みました。日本の法制は、緩い法制なので、本来のロックダウンという意味の法制はありません。しかし、そのインパクトの強さ故、コロナ対策のためには欧米のようなロックダウンに匹敵する国民の行動の自粛が唯一の方策だと政府も国民も皆信じたと思います。その結果、私はコロナ対策は保健医療行政の努力と国民の行動自粛努力の和であると思っているのですが、これが消し飛んでしまった感があります。そのため経済が壊滅的な打撃を受けました。しかし、国民の協力で感染が下火になった時こそ、本来のコロナ対策に思いをいたし、特に前者の保健医療行政の再確立に努力すべきでしょう。その際には行政の不首尾の原因を明らかにして、その体制の強化を図る等、しっかり備えをしておかないと、自粛努力が緩んだ時、また、あっという間に元の木阿弥になる恐れもあるのは自明です。自治体によって国民の協力は変わらないのに、本当に感染を抑え込めたところと抑え込めないでいるところの差はまさにここだと思います。
 

 今回のコロナ対策に和歌山県という一地方からこれと立ち向かいつつ、世の中を見ていると、誰かがキャッチーな概念を呈示した時、それが大いに人々の心をとらえ、さらにマスコミの機能を通じて増幅するという事がたくさんあるなあとつくづく思っています。
 

 他の例を言えば、ずっと言われてきた事はPCRの検査体制ですが、いつか、PCRの検査数が問題とされるようになり、PCRは何のためにやるのかという事が忘れられていると私は思います。大事なことは感染者の隔離なので、検査はその手段であって、自己目的として使うほどの余裕はまずないし、それをやると医療費がパンクしてしまうでしょうから、PCRの検査数にばかり拘るのは、いかがなものかと思うのです。
 しかし、相変わらず、PCRの数ばかり。より大事な隔離は言葉すらありません。
 

 もっとすごいのは、欧米になくて日本にあるもの(加えて、日本モデル型の制度はアジアの近隣国にもあります。)は、感染症法の隔離権限と保健所の存在という事も、誰も語りません。あれだけきついロックダウンをした欧米において感染症発生がなかなか止まらず、日本が緩い法律で自粛を要請したら、(それに協力する国民も偉大だけれど)みるみる感染症発生が下火になったのは、このシステムの違い以外に考えられないのに、キャッチーなコピーにして言う人気者がいないと、中々ちゃんとした国民の理解になりません。
 

 考えてみれば、重症者に対する医療崩壊が問題で、それを防ぐことが、おそらく唯一の政策目的だということも、PCRの検査数と同じく、再考を要することだと私は思います。確かに、イタリアやNYのように、医療現場が大混雑して重症者すら満足な手当が出来ないということは、最もゆゆしき一大事です。しかし、欧米のように、感染症法とそれによる隔離強制がないので、感染は止めどもなく拡がり、これをくい止めるにはロックダウンしか手段がないという国と、日本のような上記仕掛けを持っている国とでは少し考え方を変えないといけないのではないかと私は思います。
 感染を止める手段がない国なら、重症者の医療を確保するため、軽症者は病院に来てもらっては困るので、自宅に留まれという秩序が要請されます。これが、政府がずっと言っていた37.5度以上の熱が4日間続かなければ病院に行くなというルールの根拠でしょう。しかし、軽症者でも見つけたら隔離して、感染が拡がらないようにする可能性のある国では考え方が違ってしかるべきでしょう。もちろん重症者に対する医療崩壊も怖いけれど、軽症者の数も減らし、重症化しないように手当てをしないと、結局は重症者の数が増え、恐れていた重症者に対する医療崩壊が起こるのではないでしょうか。あまりにも偉い専門家の方々が欧米流の感染症対策の知識にとらわれすぎ、テレビで見る欧米の状況に国民が影響されて、重症者への医療崩壊を防げという堅固なキャッチコピーになってしまっているのは、何とか直していかないと人々は救えません。
 

 困った事だと思いつつ、私は和歌山県で地道に科学的、論理的な努力を続けるしかないなあと思っています。

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