知事からのメッセージ 令和2年6月3日
知事からのメッセージを紹介します。
令和2年6月3日のメッセージ
新型コロナウイルス感染症対策(その30) ついに入院患者ゼロに
6月2日のPCR検査でかねてより入院中であったコロナ感染者の方が3人、一度に2回目の陰性が確認されましたので、6月3日退院となりました。ルールで2週間の経過観察が課されますが、その後は、再び従来の活動に完全に戻っていただけるようになります。誠に喜ばしい限りです。入院患者がゼロになったのは、2月12日以来のことで112日ぶりとなります。感染者の特定や囲い込み周辺の調査、入院の手続き、経過観察者のお世話など大いに頑張ってくれた、県福祉保健部の職員や和歌山市を含む保健所の職員をはじめとする県や市町村の行政に携わってくれた人々や、感染者への医療加護に奮闘してくれた医療関係者には心からお礼を申し上げたいと思います。特に今回退院した人の中にも一時重症化が進んで、危機感が漂った人も居て、医療関係者の適切な医療措置がなければ、命すら奪われていた可能性もあった事に、改めて医療のありがたさが分かりました。
この111日間、一番危機を感じた時はと自問してみると、やはり2月の済生会有田病院の院内感染が発生した時と、4月にデイサービスでクラスターが発生し、その感染者が紀北分院で発症していて、これは、福祉施設と病院のダブルクラスターかと危惧したときでしょうか。両方とも上記の人々の献身的努力で、小規模な段階で抑え込めたのは、本当に良かったと思います。更にもう一つ危機感を持ったのは、4月になってから毎日のように感染者が発見されて、その時はまだ病院などにも余裕はあるものの、このまま一本調子で感染者が増えていくと大変なことになるぞと思ったことであります。
また、この間、私自身にとってもいくつかの思い出に残る出来事もありました。悲しい事から言えば、三人の方が亡くなられたことであります。特に、一度も医者にかかろうとせず、お亡くなりになってから、コロナの陽性が判明したひとり暮らしの方については、せっかく、和歌山県の開業医の方々に協力をいただいて、コロナの早期発見システムを作ってあるのにと本当に残念でした。当時の国の基準(4日間は医者に行くな)に逆らって作り上げたシステムでしたが、国の基準がマスコミでがんがんPRされたのが影響したのではないかと疑っているものの、お亡くなりになってからでは、もう何故かはお聞きできません。
一方、これはうまくいってよかったなあと思う例もあります。今回晴れて、陰性が確認された90代の方については、入院後症状が悪化し、重症化しました。アビガンを投与すべく病院は手続きをしているのですが、中々送ってもらえません。そこで、厚労省に強くお願いして、すぐに送ってもらえることになりました。そして投与し始めたところ、そう時を置かずして重症を脱することができたのです。何でもやってみるものです。
こうして今回退院をされた方々は、他の和歌山県のすべての退院者と同じく、日本でもトップクラスの慎重な検査のもとに、完全に陰性が確認された人々であります。今後2週間の経過観察がすぎた後は、もう社会で活動していただいて何ら問題はありません。それほど念には念を入れてチェックをしているのですから、このような人々を過去に感染していたのだから、今もうつされる恐れがあるのだと思うことは、まったくの間違いです。また、過去のコロナ歴をもとに差別やいじめにあったり、誹謗中傷を受けたりすることは許されるべきことではありません。コロナは誰でもかかるし、かかったら他の人にうつさぬようにしばらくは隔離させてもらって、手厚い医療加護を受け、全快したら、また皆と一緒に仕事に学業に楽しい生活にと復帰してもらったらいいのであります。
コロナは、全世界的にはまだ収束していませんし、日本でも東京都の状況はまだ楽観はできません。また再流行の兆しが和歌山に向かってくるかもしれません。
しかし、その時は、県民の皆さんを守る立場にある和歌山県の保健医療行政がまず、これまで以上に、コロナを封じ込める努力をします。コロナ対策は保健医療行政の努力と国民の行動自粛の努力の足し算なのです。
前者の機能が十分でないと、すぐ流行が爆発しそうになります。でも、そうならないようにまず体制を整備し、戦力を整え、装備を強化し、行政職員を鼓舞してコロナと戦うのが行政のトップの責任です。
そして、行政だけではダメだと言うほどの惨状になってきたら、もう一度国民、県民の皆さんに頭を下げて、不便を忍び、生活や行動の自粛をお願いしなければならないのです。これには経済の壊滅的打撃が伴います。従って、対策の順番はまずは保健医療行政の立て直しです。自粛のお願いはそのずっと後のことです。逆ではありません。国民、県民の犠牲にばかり頼っていては、何のための行政でしょう。何のための納税でしょう。いつ私自身にふり戻ってくるかもしれない重い責任を感じながら、あえて書きました。