ようこそ知事室へ 知事からのメッセージ 平成26年2月 小野田寛郎さんを悼む

知事からのメッセージ

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平成26年2月のメッセージ

平成26年2月

小野田寛郎さんを悼む

 1月16日小野田寛郎さんの死去が報じられました。91歳でした。心からお悔やみ申し上げます。
 小野田さんがルバング島から生還したのは昭和49年(1974年)。その模様やいきさつは広く報じられましたので、皆さんご存知の事と思いますが、大変衝撃的でした。
 小野田さんは、陸軍士官学校卒のエリート、しかも通称中野学校卒。特別の諜報任務を持ってルバング島に送り込まれた人でした。「多分日本軍は一度撤退する。しかし必ず失地を挽回して戻ってくるから、現地に身を潜めて、その時を待て。」何という過酷な命令かと思うのですが、小野田さんは完璧にこの任務を遂行します。日本が戦争に負けて、もう戻ってくる事はあるまいと諸般の情勢から聡明な小野田さんは分かっていたと私は思いますが、それでも彼は命令を決して忘れなかったのです。最後は元上官がかつての命令を取り消し、出てこいと言う新しい命令を出した事を受けて、小野田さんはジャングルを出てきたのでした。我々は何か命じられた時一生懸命それをやり遂げようとします。それが短期間で報われたり、周りから見られていたりすると、努力を続ける事は易しいでしょう。しかし、29年の長きに亘って、しかも報われる事が一度もなく、かつ、周りから見られていたり、褒められる事も叱られる事もなかったあのルバング島の生活の中で、その使命を全うした小野田さんの意志の強さは本当に驚嘆に値します。
 帰国してからの小野田さんの生き方も涙が出るほどにすばらしいと思います。生還から時を経るに従って、小野田さんの体から殺気が消えました。しかし、常に背筋を伸ばして静かに語る居住まいの美しさはいつも感心していました。そして、ちやほやとするマスコミや時代のスターとして世に売り出そうとする世間の声に乗ることなく、ひたすら、部下を死なせてしまった責任を背負いながら、隠れるように人生を送られました。ブラジルに渡り、静かに牧場経営に専念し、かつそれに成功し、そして、多くの後進を育てられました。そして、10年後晩年になって、小野田さんが愛して止まない日本の青少年の心が病んでいる事を憂い、「小野田自然塾」を開くために日本に帰って来られ、我々に経験に裏打ちされた深いお話を聞かせてくれるようになりました。
 多分小野田さんの心の中には、自分は世に出るべき人ではない、出てはいけない人だ、日本が戦争に負けた今、それが軍人としてずっと頑張ってきた自分の誇りだというようなお気持ちがあったのではないかと推察しています。私の好きな将軍井上成美さんの晩年の生き方にもダブります。この反対は、敗戦後、自らの過去など忘れたかのようにそそくさと新時代に合わせて行動した旧軍の高官達と、戦前の戦争指導や国政を誤った事など忘れたように今度は戦後の時代をリードするぞと張り切って動き出したような政治家達(誰という事は心の中にはありますが、申しません。)です。
 小野田さんのあの清々しい笑顔と抑制の利いた、かつさわやかな語り口に接すると、何人も、素晴らしい人だという感慨を持たずにおられないと思います。
 そしてこのような素晴らしい小野田寛郎さんが海南市の宇賀部(おこべ)神社の神宮のお家のご出身であるという事を、和歌山県人として私は大変誇らしく思います。最晩年の講演のテーマが、神武東征の際、この和歌山で抵抗して敗死した「名草戸畔(とべ)」の話であり、その亡くなった「名草戸畔」の頭が祀られているという宇賀部神社に古くから言い伝えられている「名草戸畔」にまつわる伝承であったという事にまた一段と感慨深いものがあります。
 小野田さん安らかにお眠り下さい。

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