ようこそ知事室へ 知事からのメッセージ 平成23年11月 南加和歌山県人会創立100周年記念

知事からのメッセージ

知事からのメッセージを紹介します。

平成23年11月のメッセージ

平成23年11月

南加和歌山県人会創立100周年記念

今年11月13日ロスアンジェルスにおいて南加和歌山県人会100周年の記念式典が挙行され、御招きを受けたので、県民を代表してお祝いを述べてまいりました。1911年が創立の年ですから、その前から行かれている人々の子孫はもう4世か5世になっているかも分かりませんし、また、戦後になってから新たに行かれた1世の人や、2世で米国でお生まれになったけれど、日本で教育を受けるために日本に帰国していて、戦後になってから米国に帰られた帰国2世の方や様々な方々が450人も集まられた大変盛大な式典でした。
12号台風の被害者にということでお見舞い金もいただきました。本当にありがとうございました。また、永年の御苦労と御貢献に対して、知事名で感謝状や長寿の表彰状を多くの方々に差し上げてまいりました。
99才の御婦人が演台の階段をスタスタと上がってこられたのも感心しましたが、表彰をお受けになった方の中には和田フレッド勇氏の御婦人正子さんもおられました。

和田勇さんは御坊の御出身で、米国で小売り関係のお仕事で成功された方ですが、日系人と日本の名誉の回復のために大変な努力をされた方です。1回前のロス・オリンピックに出場を認められず、せっかくの世界記録が世界から認めてもらえなかった古橋、橋爪両氏らの競泳人のために、ほとんど丸がかえのような形で渡航や宿泊の世話をされ、その結果、両氏が並いる米国選手をぶっちぎりで破ることによって「フジヤマのトビウオ」の名声を確立させ、敗戦に沈んでいる日系人や日本の人々をも勇気づけたのは和田勇氏その人です。
さらに和田氏は東京オリンピックの招致に際し、その人望を生かして多忙な社業にもかかわらず南米諸国のIOC委員を歴訪し、彼らを日本支持に向かわせたのでした。
東京オリンピックにひたすら感動していた私ですが、その背景には郷土の生んだ和田氏の絶大な活躍があったのです。
その後、和田氏は老後を迎えた日系人が楽しく老後を迎えることができるようにと奔走して現在に残る敬老リタイアメントホームの建設にこぎつけています。ここにも訪問させていただきました。
和田氏をはじめ、この和歌山から遠い異郷でがんばって人生を切り開かれた方々がいたということを、同じDNAを持つ我々県民は誇りにすべきでしょう。

私たち一行は、また全米日系人博物館も訪ねました。そこで初期の移民の方々の苦労話や成功の歴史を勉強させてもらいました。そこで、これらの日系移民の方々を襲った最大の悲劇についても改めて接することができました。それは太平洋戦争とその際起こった日系人の強制収容所への収容であります。戦争によって敵性市民となった日系人は、日本への忠誠を捨てきれない人はもちろん、2世など合衆国に忠誠を誓っている人も、ひとくくりに、即時強制収容所に入れられたのです。これはそれまで善良な市民として暮らしていた人々の生活を根こそぎ破壊しました。その中で、ハワイの日系人を最初として、アメリカ合衆国への日系人の忠誠と優秀性、有能性を見せようではないかということで軍隊への志願がなされ、日系人部隊が編成されました。それが有名な第100大隊や442連隊であります。米本土の収容所からも、このように日系人の名誉と誇りを守るために、2世、3世の多くの若者がこれら部隊に参加しました。これらの部隊は主としてヨーロッパ戦線に派遣され、勇猛をもってその名をとどろかせました。私はかつてイタリアに住んでおりましたが、中南部の小高い山上にあるモンテカッシーノの大僧院を訪ねる機会がありました。ここが第2次大戦時のイタリア戦線の勝敗の帰趨を決する有名な激戦地であり、ここに立てこもるドイツ軍を撃破したのがこれら日系人部隊でありました。その前後、ボージュの森の救出作戦が行われます。激戦の中で、白人を中心とするテキサスの大隊がドイツ軍の中で孤立し、全滅かと思われた時、これを大変な死闘の末救出したのがこれら日系人部隊であったのです。白人200名は全員救出されますが、そのかわりに日系人部隊には800人の戦死者が出ました。ドウス昌代さんは、その著書「ブリエアの解放者たち」の中で、これら部隊の決死の活動の裏には、この部隊の人達が合衆国市民として生きて行こうと決心していたにもかかわらず、収容所に入れられている日系人の名誉と忠誠心の証にと、人一倍決死の覚悟で戦いに臨んだ人々のことを感動的に書いています。
これらの活動の記憶が、米国社会が戦後日系人に名誉と権利をもう1度認め直す大きな力となりました。1988年レーガン大統領は、国家として日系人の強制収容を誤りと認め、謝罪し、各人に慰謝料を払いました。
私はこの第100大隊、442連隊の悲しい歴史の中に2つの重要な点があると思い、式典に際する歓迎夕食会の際にもそう申し上げました。
第1は、合衆国が、合衆国に忠誠を誓うすべての市民を差別せずに受け入れるべき国であり、この事件がきっかけになって、それが人々の総意となっていったということですが、第2は、その活躍を通じて日本人の持つその真摯な心と勇敢な克己心が証明されたということです。
さらに私達は、同博物館の外にある日系人部隊の記念碑にお参りしました。ボランティアの人がいつも掃除して守っているこの記念碑の裏には、日系人部隊に参加したすべての兵士の名が刻まれています。聞けば、和歌山県人が広島県人に次いで多いとのことでした。和歌山県の出身の方々の悲しくも雄々しい移民の歴史を知ることになりました。

式典に際しては、現在の岡本南加和歌山県人会会長をはじめ多くの幹部の方々に本当にお世話になりました。皆さんは我々の訪加を心から喜んでくれたと思います。
そういう遠き異郷で故郷を思って下さる方々のためにも、思うべき故郷は県民歌にあるように「いやさらに伸びよ栄えよ」を実現するために、郷里に残された我々もまた気を引き締めてがんばらなければなりますまい。

このページの先頭へ