知事からのメッセージ 平成21年6月

知事からのメッセージを紹介します。

平成21年6月のメッセージ

平成21年6月1日

ボルネオの悲劇

 私は国家公務員としての最後の3年間をブルネイで大使として過ごしました。 ブルネイはボルネオ島の北部にあるごく小さい平和な国です。 ボルネオ島は、ついこの間まで熱帯雨林におおわれた緑の島でした。 キナバル山などの高い山もありますが低湿地が広く広がっていて、 高低差があまりありませんから川はよどんだようにゆっくりと流れ、はげしく蛇行しています。 手つかずのジャングルは、70mにも及ぶという熱帯雨林が林立し、その林床はけっこう暗く、 湿度100%、下生えの間は枯葉とコケにおおわれています。 こんなジャングルは、今やどんどん切り開かれてパームヤシなどのプランテーションになり、 縦横に自動車道が通るようになりましたが、 ブルネイは石油とガスで収入の多くを上げているお金持ちの国ですから、 まだまだこんなジャングルが多く残っています。

 こんな緑の島ボルネオもほんの65年前まで、戦場となり、 多くの日本の将兵がこの地で命を落としました。 もちろん終戦直前、大変な激戦が英豪軍との間でくり広げられ、 その中で亡くなった方もいますが、大部分の方々はジャングルの中で病死又は餓死したのです。
 昭和20年初頭、サイゴンの南方軍司令部はボルネオ駐屯軍に対し、 東部サンダカン付近から西部コタキナバル地域への転進を命じました。 今でこそ、車が十分走れる道路がありますが、当時は手つかずの低地ジャングルが延々と続くのみ。 しかし、制空権と制海権を連合軍に握られている日本軍は、 このジャングルを突っ切って行軍するしか途(みち)はありませんでした。 ボルネオの低地ジャングルは、和歌山の山や森とは全く違います。 人々は森を恐れて入りませんから山道がありません。いつも水がしみ出すような湿地が延々と続いていて、 道のない林中を進むとすぐ迷子になってしまいます。 南方軍の司令部の寺内正毅大将の旗下にあって参謀肩章を提げた優秀な軍官僚は、 こんな実態など知るわけもなく熱帯のジャングルと日本の田舎の道を同一視して 「日本軍は優秀だから一日40km行軍できる。サンダカン~コタキナバルは400kmだから10日間で転進せよ。」 と命じたそうです。日本の道とは違うのです。 行けるわけがありません。 命令に忠実だった将兵は、装備はおろか、水も食料も十分持たぬまま、 ジャングルに分け入り2万人中1万人がジャングルに消えました。 さぞ無念だったでしょう。
 和歌山県の知事になってからそんな話をどこかでしたら、 和歌山市のある寿司店のご主人がこのボルネオの部隊の出身者であることが分かりました。 うんと若い時に召集され、命ぜられるままに進軍し、そして大変な目にあって、ようやくのことで生還されたのです。 地獄のような日々であったと言っておられました。 ご主人は、この悲劇を逆に心の糧として懸命に仕事に励み、立派にお店を盛り立てて来られました。 しかし、ご主人の戦友であった多くの将兵は昭和20年を最期にボルネオのジャングルの土となって、 わが日本の戦後の復興を担うこともできなかったのです。

 ではどうして、このようなことが起きたのでしょう。
 上に立つ人々がボルネオのジャングルの様相を知らぬまま誤った実態判断に基づいて間違った命令を発したからです。
 現在でも同じことが起きないとは言えません。国や県の官僚が実態を知らず、観念的な政策をしていては、人々は救われません。 私が「何事も実態が大事だ!本当の姿が大事だ!聞いたことや頭で想像したことを信じるな!」と、 いつも県の職員に言っているのは、このような悲劇を知っているからでもあります。 実態をさらに知るため、県はこれまで導入した産業別・企業別担当者に加えて、 今年から振興局で地域別に担当を決めてよく状況を把握することにしています。 できるだけ県民の皆様に近く。これが和歌山県の新しい哲学です。

 毎年5月5日には和歌山市の平和塔と護国神社で戦没者の慰霊祭が行われます。 今年も参加させていただきました。 私は、我々現代の日本人がまがりなりにも平和のうちに繁栄を謳歌しているのは、 戦争で亡くなった多くの方々の犠牲と家族や財産を戦争で奪われながらも 必死で復興を果たすべく頑張った多くの方々の労苦のおかげであると思っています。 私達は、今またつらいこともありますが、それを克服していくに当たって、 先人の悲劇と労苦を忘れてはならないと思います。また、悲劇はくり返してはなりません。 愚行によって犠牲となる人々を出してはいけません。 戦争に限らず、あらゆる県政の営みの中で、 愚行をくり返していないかどうかいつも自戒をする必要があります。 慰霊祭に出させていただいて、そう思いました。

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