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和歌山の人、もの、地域 和 nagomi 勝利の聖地わかやま。 2012 vol.17

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サッカーと和歌山の意外な関係
サッカーボール
「熊野那智大社(那智勝浦町)」境内にある八咫烏。 「熊野那智大社(那智勝浦町)」境内にある八咫烏。太陽を見つめる精悍な面差しは日本サッカーを勝利へと導く。


左/1904(明治37)年2月6日、日本初の外国人チームとの対外試合の記念写真。右/熊野三山でのW杯必勝祈願の旗 左/1904(明治37)年2月6日、日本初の外国人チームとの対外試合の記念写真。
右/熊野三山でのW杯必勝祈願の旗



 JR那智駅前にある顕彰碑。 JR那智駅前にある顕彰碑。
  日本サッカー協会のシンボルは
熊野の神鳥「ヤタガラス」?


 日本サッカー協会のシンボルマークに描かれている、ボールに足をかける三本足のカラス。中国の伝承によると、三本足のカラスは日の神(=太陽)の象徴といわれ、日本においては「太陽の化身」とも「導きの鳥」ともいわれている。また、神武天皇御東征に際し、天皇の軍隊を熊野国(和歌山県南部)から大和国(奈良県)へと道案内し勝利に導いたのも「八咫烏(ヤタガラス)」と呼ばれる三本足のカラスとされている。熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)ではそんな八咫烏を「神々の使い」とし、信仰の対象となっている。
 八咫烏とシンボルマークとの関連性は明確ではないが、近代サッカーの普及に貢献した那智勝浦町出身の「中村覚之助」に敬意を表し図案化されたともいわれている。




日本サッカーの始祖 中村覚之助

 日本に初めてサッカーが紹介されたのは1873年。イギリス海軍将校たちが日本の海軍軍人に、訓練の余暇として伝えたのが最初だといわれている。その後の1878年、熊野三山のひとつ熊野那智大社が鎮座する現在の那智勝浦町に、日本サッカーの礎を築いたといわれる中村覚之助が生まれる。
 覚之助は当時の東京高等師範学校(現筑波大学)に進学、在籍中の1902年に「アッソシェーション・フットボール」という英語の本を翻訳し、同校の“ア式蹴球部”の創設に尽力した。そして、そのア式蹴球部が横浜で外国人チームと試合を行う。これが日本で最初の対外試合といわれている。
 この試合の様子が新聞で報道され、全国からサッカー指導の依頼が殺到、蹴球部員たちが各地で指導したという。卒業した覚之助は中国に渡り教鞭を取っていたが29歳という若さで急逝。しかし、その名は日本サッカーの始祖として今も人々の記憶に刻まれている。



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