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和歌山の人、もの、地域 和 nagomi 勝利の聖地わかやま。 2012 vol.17

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当時を懐かしむように母校のユニフォームを眺める小久保裕紀選手(わかやまスポーツ伝承館にて)

昨年のプロ野球日本シリーズでMVPに輝いた小久保裕紀選手は和歌山市出身。星林高卒業後、青山学院大、福岡ダイエーホークス、読売ジャイアンツを経て、2007年に福岡ソフトバンクホークスに復帰。当時を懐かしむように母校のユニフォームを眺める(わかやまスポーツ伝承館にて)。


和歌山県は「野球王国」で知られる。
「和歌山を制するものは全国を制す」といわれた。
戦前から強豪校が道を切りひらき、
野球にかけた情熱は全県下に浸透している。
多彩な野球人を輩出してきた紀州の野球を振り返ってみた。


スポーツニッポン新聞社 編集委員 内田 雅也


  王国のはじまり

 西本幸雄は母校・和歌山中(現桐蔭高)グラウンドに立ち、「ああ」と声を漏らした。「何も変わっとらんなあ」。バックネット裏から右翼にかけて建つコンクリート製のスタンド観覧席を見渡し、懐かしんだ。
 2008年11月30日の朝だった。和中時代のライバル、海草中(現向陽高)・嶋清一(せいいち/戦死)の野球殿堂入りを祝う会が和歌山市内であり、故郷を訪れていた。昨年11月25日、91歳で永眠した西本にとって最後の帰郷だった。「和中があったからこそ、今の自分がある。和中の野球部に入ったことが大きな転機だった」
 西本の和中入学は1933年(昭和8)。だが、野球部には入らなかった。「偉大な和中野球部に対し、ある種畏怖の念を抱き、尻込みしていた。特待生もおり、野球部は別格の存在感があった」。後に大毎、阪急、近鉄の監督として8度のリーグ優勝を果たし、闘将と呼ばれた西本でさえ、畏(おそ)れていたわけである。
 和中は滅法強かった。夏の全国大会は1915年(大4)の第1回大会から14年連続出場。好投手・北島好次を擁した21年、井口新次郎らが猛打をふるった22年と連覇を達成。春の選抜も左腕・小川正太郎を擁し、1927年(昭2)に優勝を果たしていた。
 西本は3年進級時に創部されたラグビー部に入った。ところが4年生の7月末、和歌山大会で敗れた野球部は5年生7人が抜けると部員がわずか5人。名門存亡の危機に学校・後援会は部員集めに動き、西本も勧誘を受け、転部したのだった。
 5年生の夏は和歌山大会決勝で嶋清一の海草中に3─4で敗れた。甲子園出場はかなわず、西本の和中での野球生活は1年足らずで終わっている。それでも「和中で野球をやれたこと、後々の野球人生で大きな自信となった」。90歳を超えてなお和中の校歌はもちろん、数曲あった野球部応援歌をすべて諳んじ、歌って聞かされた時には驚いた。
 こうして「野球王国」は和中が牽引していた。『和歌山中・桐蔭高野球部百年史』によると、和歌山に野球が伝わったのは1897年(明30)9月。和中に赴任した青年教師がボールとバットを用意し、和歌山城・砂の丸コートで指導を始めた。1913年(大2)4月には「野球校長」と呼ばれた野村浩一が赴任。「うらなり青瓢箪に日本の将来を背負えるか」と運動を奨励し、「野球での訓育が最良」と支援した。1914年(大3)には早慶OBをコーチに招き、猛練習で力をつけていた。
 27年選抜優勝で米国遠征に出た際も留守部隊の2軍が予選を勝ち抜き甲子園出場。あまりの強さに「県予選初戦で和中に負けたチームは敗者復活」との特別規定まであった。球史は伝説に彩られている。

 そんな和中を初めて止めたのが海草中だった。29年選抜に初出場。夏も和中の連続出場を止め初出場、いきなり準優勝を果たした。和歌山商(県和歌山商)、海南中(現海南高)を加えた4強時代を迎え、33年選抜は4校そろって出場を果たした。
 海草中は39年、40年と夏の甲子園を連覇。39年は嶋清一が全5試合完封、準決勝、決勝と連続ノーヒットノーランの快投を見せ、「学生野球の父」飛田穂洲も「天魔鬼神の快投」と称えた。明治大に進み、学徒出陣。24歳にして南海に沈んだ。
 同年は三塁手、翌40年は優勝投手となった真田重蔵(重男)は朝日(後の大陽、松竹)でプロ入り。50年には今もセ・リーグ記録の39勝をあげ、阪神時代を含め2度のノーヒットノーランを達成している。引退後は明星(大阪)監督として夏の甲子園で全国制覇。優勝投手が優勝監督となった第1号として知られる。

2008年11月30日、母校・和歌山中(現桐蔭高)グラウンドを訪れた西本幸雄氏。 2008年11月30日、母校・和歌山中(現桐蔭高)グラウンドを訪れた西本幸雄氏。生前最後の帰郷となった=撮影・内田雅也


母校グラウンドで投球練習する海草中の嶋清一投手 母校グラウンドで投球練習する海草中の嶋清一投手=古角俊郎氏所蔵

阪神生え抜き唯一の2000安打を達成した藤田平 市和歌山商時代からの「天才的」な打撃で、阪神生え抜き唯一の2000安打を達成した藤田平


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  尾藤スマイル


1979年、公立校では史上唯一の春夏連覇を達成。選手に胴上げされる箕島・尾藤公監督
1979年、公立校では史上唯一の春夏連覇を達成。選手に胴上げされる箕島・尾藤公監督   

 戦後台頭したのが新宮だった。海草中初優勝時の1番センター、古角(こすみ)俊郎が48年監督に就任。50年夏に甲子園初出場し、以後6年間で6度の出場を果たした。なかでも左腕・前岡(現姓井普j勤也は54年春夏、55年夏と3度出場し、全国的な注目を浴びた。三重県亀山市出身で前岡家の養子となり野球留学した。激しいプロの争奪戦の末、阪神に入団。破格の契約金は当時700万円と伝えられたが、実際はその2倍。実家のたんす引き出しすべてが千円札(まだ1万円札はなかった)で埋まったと聞いた。
 65年選抜で準優勝した市和歌山商(現市和歌山)の藤田平は大会初の1試合2本塁打をマーク。その打撃を野球記者・松尾俊治は「天才的」と称し、大リーガーの強打者ヨギ・ベラ、スタン・ミュージアルにたとえた。阪神入りし、78年には208打席無三振の新記録(当時)。83年には生え抜きの阪神打者では今も唯一の2000安打を達成した。
 同年夏の和歌山大会で市和商を破ったのが南部で、上田二朗(次朗)が好救援で反撃をしのいだ。東海大エースとして大学選手権優勝。ドラフト1位で阪神入りし、藤田と同僚となった。73年の22勝が光る。
 箕島が甲子園に初出場した68年選抜のエース・4番が東尾修。高校進学時、既に平安(現龍谷大平安)入学が決まり、京都の下宿先にふとんまで送っていた東尾を、弱冠23歳、監督就任直前の尾藤公(ただし)がみかん畑に誘い、「有田から一緒に甲子園へ行こうや」と口説いた。2010年12月、和歌山市であった東尾の野球殿堂入り祝賀会では、癌で闘病中の尾藤が病床で吹き込んだ祝福の声が流れた。「オサ、殿堂やなんて、すごいなあ。みかん畑での会話を思い出すなあ」。列席した長女・東尾理子(プロゴルファー)も娘婿・石田純一(俳優)も涙にくれた。


箕島を甲子園初出場に導き、プロでは通算251勝。野球殿堂入りも果たした東尾修

箕島を甲子園初出場に導き、プロでは通算251勝。野球殿堂入りも果たした東尾修

 70年選抜には左腕・島本講平を擁して優勝。「コーちゃん」と呼ばれ、女学生にアイドル的人気があり、南海1年目、オールスターにファン投票で選ばれた。77年選抜も左腕・東裕司の好投で優勝。そして79年には石井毅─嶋田宗彦のバッテリーで春夏連覇を達成する。春の準決勝PL学園戦は9回2死から追いつき、延長10回サヨナラ。浪商(現大体大浪商)との決勝は2度の逆転で乱打戦を制した。夏には伝説の名勝負となった星稜との延長18回の激闘があった。延長で2度のビハインドを2死からの本塁打で追いつく粘りは驚異的で、阿久悠はスポーツニッポン新聞に書いた『甲子園の詩』で「最高試合」と称えた。
 智弁和歌山は85年春、夏は87年に甲子園初出場。以後春夏とも優勝、準優勝各3回と圧倒的な戦績を誇る。率いる監督・高嶋仁は甲子園通算で歴代最多の63勝(智弁和歌山では56勝)を記している。 
 2000安打にあと38本と迫るソフトバンクの主将・小久保裕紀は星林時代、甲子園出場経験がない。ただ、現役プロによるシンポジウム「夢の向こうに」(09年12月19日、和歌山県民文化会館)で「皆さんが想像する以上の努力をしていた」と、夜のランニング中に電話ボックスで倒れた逸話を披露し、高校球児たちを驚かせた。


1970年選抜で優勝投手となった箕島・島本講平。アイドル的な人気を呼んだ
1970年選抜で優勝投手となった箕島・島本講平。アイドル的な人気を呼んだ

1979年夏の甲子園大会決勝。最後の打者を三振にとり、バンザイする石井毅-嶋田宗彦の箕島バッテリー
1979年夏の甲子園大会決勝。最後の打者を三振にとり、バンザイする石井毅-嶋田宗彦の箕島バッテリー

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  和歌山野球の強さ


 昨年3月6日、鬼籍に入った尾藤は生前、地元選手を集めた箕島野球について「漁師の判断力、みかん農家の忍耐力、商人の融合力が一つになっている」と語っていた。気候、風土、産業など県民性から、広く和歌山野球の強さを示す言葉として聞ける。
 また、大リーグで活躍した吉井理人(箕島)、藪恵壹(新宮)はともに幼いころから、目の前に広がる太平洋に思いをはせ、「あの海の向こうには何かがある」と夢を育んだと聞いた。神門(かんもん)晴之は『ふる里の野球』で和歌山人の〈開明気質〉を指摘している。例えば、情熱的指導で知られた西本も科学的練習をいち早く採り入れるなど、進取の精神に富んでいた。
 西本は言う。「オレは選手たちに語りかけた。野球ができる期間は人生の中で短い。この青春時代を良きものにしようじゃないか」。言葉は「愛」や「青春」を好んで使うなど、ロマンに満ちていた。そしてもう一つ、和歌山を愛していた。宝塚市で長く過ごした西本だが「テレビの天気予報はつい和歌山を見てしまっている」と話していた。古里への愛情や郷愁もまた和歌山野球を支える力だった。

=敬称略=



近鉄監督時代も情熱あふれる指導を行った西本幸雄 近鉄監督時代も情熱あふれる指導を行った西本幸雄


写真提供:スポーツニッポン新聞社



DATA OF 野球王国わかやま

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   甲子園大会は和歌山から

 「春はセンバツから」と球春到来を告げる選抜高校野球大会(甲子園)は和歌山が興した。主催の毎日新聞社が50回大会記念に発行した『青春の軌跡』に〈センバツは和歌山から〉と大会発祥の逸話が記されている。
 夏の全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)は1915年(大正4)に始まり、甲子園球場が連日満員になるなど、野球人気が沸騰。大会新設を望む声が高まっていた。なかでも和歌山中(現桐蔭高)が1921、22年と連覇するなど野球熱が高かった和歌山で構想は練られた。「全国から最強チームを選抜し、招待する」という着想の主は大阪毎日新聞和歌山支局長の安井彦三郎で、本社に働きかけた。1924年(大13)4月、名古屋で第1回大会が開かれた。


 野球は素人の安井を支えたのが和中OBで有力後援者の出来(でき)助三郎だった。〈安井は出来に洗脳されるうち野球の魅力に取りつかれた〉と『選抜高校野球40年史』にある。
 また、夏の全国大会創設を主唱したなかには和歌山県笠田町出身の大阪朝日新聞記者、田村木国(もっこく/本名・省三)がいた。甲子園大会を生んだのは和歌山人の情熱だった。








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