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和歌山の人、もの、地域 和 nagomi 知の巨人・南方熊楠。 2010 vol.11

解剖!知の巨人・南方熊楠。

 南方熊楠とはいったい何者か? 18ヶ国もの言語を操り、14年間に渡り海外を放浪。博物学や民俗学、植物学では近代日本の先駆的存在。エコロジーの分野においても注目を集める。子供好きで動物好き、甘いものにも目がなかったという。様々な顔を持つ、既定の枠には収まりきらないその人物像に迫ろう。

1892年、熊楠25歳。プリダでの記念撮影。

1892年、熊楠25歳。プリダでの記念撮影。

頭-記憶力-

記憶力は抜群!も、学校は嫌い。

幼少期の熊楠が夢中になったのは博物学書の写し書き。百科事典『和漢三才図会』は知人の家で読んで記憶し、家に帰って筆写。やがて借り出し、全105巻を完成させた。しかし学校は嫌いで、動植物の観察に熱中。山野を駆け巡っていたので、「てんぎゃん」(天狗)と呼ばれた。


13歳で教科書『動物学』を自作。

(左)13歳で教科書『動物学』を自作。
(下)『和漢三才図会』の写し書き。

『和漢三才図会』の写し書き。


手紙に描かれた宇宙、
「南方マンダラ」。

「南方マンダラ」は熊楠が36歳の時、後に高野山真言宗管長となる土宜法竜どぎほうりゅう宛の書簡に描いた独自の曼陀羅。様々に入り混じった熊楠の宇宙的思想の根源をなすモデルとされるが、定説はなく、その思想を知るための鍵とされている。


無数の因果関係で世界が成り立っていることを示そうとしている。

無数の因果関係で世界が成り立っていることを示そうとしている。

心-人脈-

あの人もこの人も、熊楠に魅了された。

ロンドンでは中国革命の父・孫文と出会い、たちまち意気投合し議論を交わす。また民俗学者・柳田国男とは文通仲間。手紙魔だった熊楠は1日に何度も便りを出したという。後に交信を絶ったが、熊楠死後いちはやくその功績を認め、全集の計画をしたのは柳田国男だった。


孫文と熊楠兄弟との記念撮影。熊楠の弟・常楠の長男を抱くのが孫文。(1901年)

孫文と熊楠兄弟との記念撮影。熊楠の弟・常楠の長男を抱くのが孫文。(1901年)


熊楠を支えた家族や友人。

酒飲みであったことも手伝ってか、熊楠には多くの友人が集った。39歳での結婚も学生時代の親友で医師・喜多幅武三郎の紹介。わがままな熊楠も彼の言うことなら聞いたという。妻・松枝はそんな熊楠に悩まされながらも献身的に支え、娘・文枝と協力し熊楠が残した資料を守り続けた。


右より熊楠、長男・熊弥、松枝、文枝、お手伝いさん。(1915年)

右より熊楠、長男・熊弥、松枝、文枝、お手伝いさん。(1915年)

手-収集-

天皇を虜にした粘菌研究。

熊楠最大の研究対象は粘菌(変形菌)で、約7,000点の標本が残っている。1929年には田辺湾の神島で昭和天皇へ粘菌に関する御進講。生物学研究者であった天皇は時間を延長されて楽しまれたという。


(左)粘菌標本をキャラメルの空き箱に入れて献上。熊楠を表すエピソードとして語り草になっている。(右)熊楠が発見した新種粘菌“ミナカテラ・ロンギフィラ”。

(左)粘菌標本をキャラメルの空き箱に入れて献上。熊楠を表すエピソードとして語り草になっている。
(右)熊楠が発見した新種粘菌“ミナカテラ・ロンギフィラ”。


3,500枚のキノコスケッチ。

キノコは粘菌とともに研究の中心だった。那智や高野山の山野に出かけては採集し、30数年にもわたって写生と記載に没頭。3,500枚もの菌類図譜が残されている。


(左)鮮やかに彩色されたキノコの周囲には緻密な英文。 (右)菌類図譜を描く熊楠。(1931年)

(左)鮮やかに彩色されたキノコの周囲には緻密な英文。
(右)菌類図譜を描く熊楠。(1931年)

足-行動力-

エコロジーの先駆!
神社合祀反対運動。

1906年、明治政府が各地の神社を合併する神社合祀令を公布。神社林破壊の危機を感じた熊楠は、地元新聞への投稿、柳田国男の助けなどを借り、反対運動に奔走。自然保護の観念がない時代に、生態系が壊れる恐ろしさを「エコロジー」という言葉を使い訴えた。


「熊楠林中裸像」は森林伐採への注意喚起を狙い、パフォーマンスとして撮影したとされる。(1910年1月)

「熊楠林中裸像」は森林伐採への注意喚起を狙い、パフォーマンスとして撮影したとされる。(1910年1月)


いざ海外へ!
大英博物館に認められ…。

熊楠は19歳で渡米し、フロリダやキューバなど各地を転々とする。ロンドンでは大英博物館で図書を読みあさり、『ロンドン抜書』は分厚いノート52冊にも及ぶ。同館の正規職員への道を誘われるが、自由を求め嘱託であることを望んだ。


田辺市の知人宛のハガキに描かれた「ロンドン生活戯画」。シルクハット姿が熊楠。

田辺市の知人宛のハガキに描かれた「ロンドン生活戯画」。シルクハット姿が熊楠。

熊楠 略年譜

1867年 0歳

4月15日(現在の5月18日)、和歌山城下橋丁に南方弥兵衛(後、弥右衛門)、すみの次男として生まれる。

1875年 8歳

小学校の同級生の家から『和漢三才図会』(105巻)を借り写し始める。同時に『本草綱目』や『大和本草』、『諸国名所図会』なども筆写。

1879年 12歳

和歌山中学(現桐蔭高校)に入学。授業より読書に熱中し、書物を次々と筆写。

1882年 15歳

春、両親たちと高野山に登る。

1884年 17歳

大学予備門(現東京大学)に入学。同級生に夏目漱石、正岡子規、秋山真之らがいた。

1885年 18歳

授業より植物採集などに打ち込み、試験に落第。

1886年 19歳

予備門を中退、帰郷。反対していた父より許しを得て、12月に渡米。

1888年 21歳

ミシガン州立農学校を退学後、アナーバー市に移り、読書や植物採集に励む。

1889年 22歳

友人たちと邦字新聞『大日本』を発行。世界的博物学者ゲスネルの存在を知り、日本のゲスネルになろうと心に決める。

1891年 24歳

キューバに渡り、地衣新種ギァレクタ・クバーナを発見。

1892年 25歳

9月、ニューヨークから渡ったロンドンで、父の訃報を告げる手紙を受け取る。

1893年 26歳

大英博物館で東洋関係の資料整理を助ける。科学雑誌『ネイチャー』に最初の論文『東洋の星座』が掲載され、一躍有名に。

1897年 30歳

孫文と出会い、下宿を行き交い議論する。

1900年 33歳

書物だけを持ち、帰国。

1901年 34歳

孫文が熊楠に会うために和歌山来訪。手つかずの那智の大森林に感動し、那智で隠花植物の研究を始める。

1904年 37歳

田辺へ移住。

1906年 39歳

闘雞神社の宮司の娘・松枝(27歳)と結婚。神社合祀令が公布される。

1907年 40歳

長男・熊弥誕生。

1909年 42歳

『牟婁新報』に神社合祀令反対の意見を発表し、反対運動を始める。

1911年 44歳

長女・文枝誕生。

1916年 49歳

弟・常楠の出資で田辺に家を購入し転居。終生の住まいとなる。

1920年 53歳

高野山で植物採集、ロンドン時代に交流していた学僧・土宜法竜(後の高野山真言宗管長)と再会。

1921年 54歳

発見していた新種粘菌が“ミナカテラ・ロンギフィラ”と名付けられる。

1922年 55歳

南方植物研究所設立の資金集めのために上京。

1925年 58歳

資金集めの際に求められ、長さ8mにも及ぶ長文『履歴書』を送った。

1926年 59歳

『南方閑話』『南方随筆』『続南方随筆』を刊行。生前の著書はこの3冊のみ。

1929年 62歳

天皇への御進講を、保全に最も力を入れた田辺湾の神島で行う。

1941年 74歳

12月、「天井に紫の花が咲いている、消えてしまうから医者を呼ばないでおくれ」と言い残し74歳の生涯を閉じる。

(左)御進講直後の熊楠・松枝夫妻。 (右)晩年の熊楠。(1933年)

(左)御進講直後の熊楠・松枝夫妻。
(右)晩年の熊楠。(1933年)

写真/「菌類図譜」以外:南方熊楠顕彰館所蔵
          「菌類図譜」:国立科学博物館所蔵


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