高野山は、明治5年に女人禁制が説かれるまで、女性は高野山内に入ることが許されず、高野山の周囲からお参りをしなければなりませんでした。
そのため、女人道として、高野山をとりまく山々を巡る参道が設けられ、要所要所に参籠所があり、祈りを捧げていました。
その中でも一番大きかった不動坂口のこの女人堂のみが残されています。
この徳川家霊台は、寛永二十年(1643年)、三代将軍家光によって建立されました。
5.45メートルの1重宝形造りの同じ建物が左右に並んでいます。
右が東照宮家康霊屋、左が秀忠の霊屋です。
江戸時代の山内の代表的な建築で、内部は、漆、金箔、彩色の壁画で充満しています。