熊野エリア資産紹介[1]
熊野参詣道
霊場「熊野三山」は、宮都である京都からも日本の各地からも遠い紀伊半島南東部に位置するため、参詣者のそれぞれの出発点に応じて複数の経路が開かれているが、大きく三種類に分類できる。
第一の経路は紀伊半島の西岸を歩む道で、「紀路」と呼ばれる。この道は、紀伊田辺で東に転じ山中を進む「中辺路」と、海岸線に沿い進む「大辺路」とに分かれる。第二の経路は紀伊半島の東岸を歩む道で、「伊勢路」と呼ばれる。第三の経路は紀伊半島の中央部を通り、霊場「高野山」と「熊野三山」を結ぶ「小辺路」呼ばれる道である。
熊野三山への参詣は、平安時代中頃から始まり、室町時代まで盛んに行われ、多くの参詣者が列をなして進んだことから「蟻の熊野詣」と形容された。古代・中世と熊野三山への参詣に利用された熊野参詣道は、近世には熊野三山への参詣をも含む西国巡礼の経路とされ、引き続き盛んに利用された。
中辺路

京都あるいは西日本から熊野三山へ参詣するルートのうち最も頻繁に使われた経路で、大阪湾沿いに南下し、紀伊田辺から東に転じ山中に分け入り、「熊野三山」を巡る道である。
世界遺産に含まれる中辺路は、広い意味での熊野の神域の入り口とされる「滝尻王子跡」から、熊野本宮大社を経て熊野速玉大社、熊野那智大社、青岸渡寺を巡る参詣道と、熊野本宮大社から湯垢離の場である湯峯温泉に至る「大日越」である。熊野本宮大社と熊野速玉大社の間は、熊野川の舟運を利用することも多いがその他の大部分の行程は険しい山道である。
この道は、途中に熊野神の御子神を祀った「王子」もしくはその遺跡が点在するのが最大の特徴である。上皇や貴族の参詣に際しては、これらの王子において奉弊、読経といった神仏混淆の宗教儀式のほか、法楽のための舞、相撲、和歌会などが随時行われた。また、室町時代や江戸時代には全国から訪れるようになった西国巡礼者が利用した道でもある。
大辺路

紀伊半島西岸の紀伊田辺で中辺路と分かれ、海岸線に沿って南下し、熊野三山に至る道である。中辺路に比べ距離が長く、奥駈をする修験者や、西国巡礼を三十三回行う「三十三度行者」と呼ばれる専門の宗教者が辿る道であった。ただし、江戸時代からは、観光と信仰を兼ねた人々の利用も知られる。
本来の姿が良好に保たれている範囲は限られるが、海と山の織りなす美しい景観に恵まれた道である。
小辺路

紀伊半島中央部を南北に通り、「熊野三山」と「高野山」の両霊場を最短距離で結ぶ経路である。途中には標高1,000メートル以上の峠を三度も越えなければならず、熊野参詣道の中でも険しい経路の一つである。
この道は、参詣者や商人といった人々が主として利用した、いわゆる庶民の道として中世頃から利用された道である。
熊野本宮大社

かつては「熊野坐神社」と呼ばれた神社で、熊野川の中洲(大斎原)に古代の創祠以来鎮座したが、1889(明治22)年水害に罹災した後、流失を免れた主要社殿三棟を1891年に現在地に移築し、再建したものである。