徐福渡来伝説
およそ2200年前、秦国の始皇帝から命を受け、
不老不死の薬を探すため、海の彼方へと旅立った徐福。
その足跡は日本各地で語り継がれているが、
徐福の墓が残されているのは、和歌山県新宮市のみ。
伝説の薬木『天台烏薬』が生い茂る熊野の地は
今も、歴史の謎とロマンに彩られている。

東海の仙境への旅立ち
 2200年という気の遠くなるような遙か昔、黒潮にのって熊野へやってきたと言われる徐福。今でも新宮市の人々は、彼のことを親しみを込めて”徐福さん“と呼ぶ。
 
 この謎に満ちた人物が登場する最も古い書物は、前漢の時代に司馬遷によって記された中国の歴史書『史記』。これによると、紀元前219年に始皇帝が斉の国を訪れた際、徐福というひとりの方士が「海の向こうに蓬莱,方丈、エイシュウという三つの神山があり、そこへ行けば不老不死の仙薬が手に入ります。神に献上するための童子童女を引き連れて、この私が探しに行きましょう」と進言。戦国時代を経て6ヶ国を統一した始皇帝は、不老不死の身となって永遠に権力を手にすることを夢見ていたため、大いに喜び徐福に蓬莱行きを命じたという。
 方士とは、不老長生術や呪術、占術、薬学、天文学などを極めた学者のような身分。長い間、新宮市で徐福研究を続けている奥野利雄氏によると、「始皇帝は300人もの方士を抱えていたそうですが、徐福は、その中でも一際すぐれた才能を持っていたんでしょう。史記には書かれてませんが、始皇帝に仙薬の話を持ちかけたのは60歳のころだと推定されています」。
 徐福は、暴君始皇帝の圧政から逃れて東海の異国で暮らすために、この夢物語で始皇帝を欺いたとも言われている。その一方で、有能な方士を疎ましく感じていた始皇帝が、徐福を海の果てに追いやり、その間に一族を滅ぼすべく、わざと申し出を受け入れたという説もある。
 さまざまな思惑を乗せた船旅は、暴風雨に遭うなど波乱の連続で、3000人の一行がようやく蓬莱へ辿り着いた時には、最初の航海から9年もの月日が流れていた。
 「大陸の東海にある蓬莱とは、伝説上の桃源郷のようなものですね。そこに住む仙人が不老不死の薬を持っていると、徐福は本当に信じていたのかもしれません。熊野のほかに富士山や名古屋市の熱田も、昔は蓬莱と呼ばれていたそうです」と奥野氏は語る。
 徐福たちの最初の寄港地はおそらく今の佐賀県、そして黒潮に乗って最終的に上陸した蓬莱の地は、新宮市の蓬莱山近くだと考えられている。近年、中国の研究者が秦の時代の造船所跡を調査したところ、その技術は予想以上に高度で、6トン級の大型船を建造していたことが明らかになった。一隻の定員は100人前後、つまり30隻が必要になる。すべての船が熊野へ到着したわけではないにしろ、徐福たちの上陸は、さながら”紀元前の黒船来襲“のようなスケールだったに違いない。

弥生時代の幕開け
 現在の蓬莱山は、ちょうど伏せた茶碗のような佇まいだ。標高わずか50mながら、神々が降臨すると信じられている神奈備山のひとつ。麓に建つ阿須賀神社は、蓬莱山そのものを御神体として崇め、古くから徐福宮を祀っている。

徐福が発見したと言われる天台烏薬。中国では健胃や強壮の漢方薬として、その根を煎じて飲む。写真の根は新宮市立歴史民俗資料館に展示された50〜60年もの。

 
徐福公園入り口に建つ中国様式の門。徐福一族たちの協力のもとに造られた。長い時を経て、再び始まった中国との交流を示すようだ。

東海の仙境、
蓬莱目指して大海へ漕ぎ出した秦国人たち

かつて海は、蓬莱山のふもとまで押し寄せていたという。沖合いからこの山を眺めた徐福は、そこに宿る神霊のエネルギーを感じ、自らの思い描く蓬莱のイメージと重ね合わせたのかもしれない。
 熊野に上陸した徐福一団には、建築や製鉄、造船、捕鯨、紙すき、織物といった百工と呼ばれる各分野の職人たちと、農業、漁業に用いる道具、五穀の種子などが揃っていた。もちろん、この時代の熊野には存在しなかった技術とモノばかりだ。
 今年で93歳になる奥野氏が、少年のように瞳を輝かせ、教科書には載っていないヒミツを教えてくれる。
 「実は徐福たちが上陸した時期は、和歌山に弥生文化が定着した時期と、ほぼ重なるんです。阿須賀神社周辺からは、10基以上の弥生時代の竪穴式住居跡や土器がたくさん発見されています。今でも家の建て替えなどで地面を掘り起こす度に、いろんなモノが出てきますよ」。 
 一般に稲作などの大陸文化は、朝鮮半島を経由して九州へ伝わり、そこから全国へ広まったことになっている。しかし、徐福たちと共に熊野へ渡来した別ルートがあったとしたら……遠い時代に思いを馳せるほどに、ロマンは膨らみ続ける。
 不老不死の仙薬、天台烏薬を見つけた徐福たち一行は、温暖な気候と恵まれた自然環境、そして熊野の人々の優しさに触れ、この地に永住を決める。彼らは蓬莱山と海岸の間に集落を作って暮らしはじめ、秦へ戻ることは二度となかったという。黒潮に導かれた旅人を温かく受け入れる紀州人のおおらかさは、おそらく遠い昔から変わらないものなのだろう。
 徐福はその後、青森や伊豆七島、富士山を訪れるなど、全国各地に伝説を残している。大陸とは比べようのない小さな島国とはいえ、これほど広い範囲にわたって足跡があるのは驚くべきことだ。ましてや、徐福はすでに70歳を超えていたはず……不老不死という言葉が、頭をよぎる。
 このように徐福の伝説や謎は尽きないが、最大の謎は「徐福は本当にいたのか」ということだった。史記には徐福に関する記述があるものの、この人物が実在した証拠は、どこにもない。その答えが出たのは、今から24年前。中国のある研究者が、史記に書かれた徐福の出身地「斉の国ロウヤ」(現在の江蘇省連雲港市ガンユ県金山郷)を発見した。さらに徐福一族の家系図が見つかり、徐一族が中国古代伝説で崇拝される三皇五帝のひとり、センギョクからはじまった王族の家系で、徐福から数えて70〜73代目にあたる末裔たちが、今も中国全土に散らばって暮らしていることも判明した。長い間、彼らの消息がわからなかったのは、蓬莱へ旅立つ前の徐福の指示で、一族が『徐』という名を捨てていたからだった。やはり、徐福の仙薬探しの旅は、最初から異国への逃亡が目的だったのか? だからこそ、始皇帝の報復を恐れて一族に身を隠させたのだろうか……。しかし、そんな徐福にも、読めなかったことがひとつだけあった。徐福たちが熊野へ到着した年、始皇帝は49歳でこの世を去ったのである。

 

次へ 連9号目次へ