観念の森と森の身体
昼は新種の採集に森の中を彷徨し、
夜は分析、研究にと広辞の森を逍遥する。
観念の力が森を分類、解剖する。
そのカテゴリーをまた、自然界の力が喰い破り
分類の枠組みを逸脱する。
「知」と「現象」の果てしないシーソー・ゲーム。
自然界の隠れたシステムが垣間見られる瞬間だ。

 コモリク・クマノ……。鬱蒼とした熊野の森。
 クマグスが探査に入った後、1906年神社合祀令が起こる。合祀令とは神社を一町一村で合併し、払い下げられた神社林は伐採され農地化するというものだ。それに対しクマグスは、敢然と抗議し反対運動を行ったが、現在見れば当然と言える。しかし、当時の日本に「自然保護」などという言葉もなければその基礎となるような考え方もなかった。多くの学識経験者たちでさえ、そのことに気付かず、”自然や水は無尽蔵にあるもの“という認識に立っていた。そんな中でクマグスがひとり立ち上がったのだ。
 クマグスの先見的認識にはさまざまな裏付けがあった。彼の残した膨大なメモの中に「山の高みにある神社では履きものに落ち葉をつけて下りるのも戒めた」とある。これほどクマグスにとって、社叢つまり「鎮守の森」は重要なフィールド圏内であったことがあげられる。さらにクマグスが学問に没頭した当時のイギリスは、19世紀の産業革命後、つまり森林破壊の先進国だった。しかし、そのことは同時に、イギリスが自然保護運動、ナショナル・トラストの先進国でもあったことを意味するのだ。クマグスがロンドン滞在中にその洗礼を受けていたのは当然だと言えるだろう。もちろんそれは科学者クマグスとしての個人的な理由だけではなく、神社の破壊が土地にまつわる歴史を失い、共同体の中心性をも崩壊するものであったことを予見してのことだった。
 合祀反対運動に中央から協力したのが、当時内閣法制局参事官で、後の民俗学を起こす柳田国男だった。
 クマグスは神社合祀問題関係書簡の中で、反対の理由をありとあらゆる実例をあげ、書き連ねている。
 「……素人の考えとちがい、植物の全滅ということはちょっとした範囲の変更よりして、たちまち一斉に起こり、そのときいかに慌てるも、容易に恢復し得ぬを小生、まのあたりに見て証拠に申すなり」と警鐘を鳴らし続ける。その後クマグスの努力の成果か、合祀令は発令10年にして貴族院決議で廃止となった。
これらは現在からおよそ100年近く昔に起きたことだ。

 

 クマグスは「森の人」だった。やはり森の理解者が森を救う鍵を握っているのかもしれない。魔法の鍵は邸内の庭をも森にしてしまった。
 1917年8月、自宅の柿の木から新種の粘菌を発見。1921年に『ミナカテルラ・ロンギフィラ』と命名され発表。南方熊楠55歳のことである。往時の様子を今は亡きクマグスの長女、文枝さんが「大正6年の8月、自宅の柿の木から新種の粘菌を発見したときは、家族一同、時間交代で夜通しナメクジの見張り番をしたのも忘れられない思い出です」と語っている。またクマグスの文枝さんへの採集旅行のお土産はいつも、決まったように珍しい蟹や亀、カエルなどの小動物だったという。『さぁみやげだ』と言って着物の袖やたもとから、ぴょんぴょんカエルが飛び出してきたそうだ。学問においてもプライベートにおいても人を驚かせるのが好きだったクマグスの素顔がうかがえる。
 文理兼学で大博物学者の南方熊楠。でも、忘れてはいけない。クマグスは、大英博物館という知の言語宇宙、「広辞の森」を、また自然界の生きた博物館「クマノのモリ」を、残された数々の写真に見られるようにワンパクな容姿で野人として渉猟したことを。ミナカタ クマグス、なんと生物愛に満ちた森の人だったろうか。その姿はまるでヨーロッパで言う、森の神話から現れた森のシンボル、「
グリーンマン」のようだ。

※植物の緑の葉と人間の顔が混ざりあった奇妙な存在。それがグリーンマン。抑えきれない「生命力の象徴」としてヨーロッパ文明の中で2000年以上の長い歴史を持つ。



資料提供/南方熊楠邸保存顕彰会




熊楠年表
1867年 4月15日 和歌山城下橋丁、南方弥兵衛、すみの次男として生まれる。幼いころから人並みはずれた記憶力を発揮する。
1873年 創設されたばかりの雄小学校に入学。
1875年 小学校の同級生、津村多賀三郎の家から『和漢三才図会』を借り書写をし、周囲の大人たちを驚かせる。また『大和本草』『諸国名所図会』なども書写した。
1879年 和歌山中学に入学。
同級生中井秀弥から、『前太平記』四巻、『経済録』を借り書写する。作文『祝文』『火ヲ慎ム文』を書く。
1881年 8歳のころからはじめた『和漢三才図会』の書写を完成させる。
1882年 春、両親たちと高野山に登る。
1883年 和歌山中学を卒業し、上京し神田共立学校に入学する。
1884年 大学予備門(後の旧第一高等学校)を受験し、合格。
同期生には正岡子規、夏目漱石らがいた。
1885年 学業に興味を覚えられず、大森、鈴ケ森などで石器、土器の採集をする。鎌倉、江の島に旅し、魚介類の標本を、日光では動物標本を手に入れる。『江の島紀行』『日光山紀行』を残している。
1886年 予備門を中退。渡米を熱望する。反対していた父も熱意に負け、12月に米国に向かう。
1887年 1月サンフランシスコに到着。ミシガン州立農科大学に入学。
1888年 『ネイチャー』の購読をはじめる。11月に学内でのもめごとが原因で州立農学校を退学。以後独学を続ける。
1889年 友人たちとともに『大日本』を発行する。
植物学雑誌の購読をはじめ、独学で世界的な博物学者コンラード・ゲスネルの存在を知り日本のゲスネルになろうと心に決める。優秀な学生たちと友好を深めつつ、読書をし、山野を歩き植物採集に励んだ。
1890年 日本経済の不況のあおりを受けて、実家からの送金が乏しくなっていく。
1891年 キューバに渡り、地衣類の新種、ギアレクタ・クバナなどを発見する。
1892年 9月ニューヨークから英国へ。ロンドンに到着後父の死を告げる手紙を受け取る。
1893年 大英博物館や南ケンシントン博物館で学び、ハイドパークなどで菌類を採集する。
10月『ネイチャー』に最初の論文『東洋の星座』が掲載され一躍有名に。
  

 
1897年 中国革命の父と呼ばれた孫文と出会う。当時の熊楠の日記には二人の親密さぶりが記されている。
1900年  帰国。故郷に持ち帰ったのは書物だけだった。
1901年 孫文が熊楠に会いに和歌山を訪れる。
勝浦、那智での採集、調査をはじめる。
1904年 田辺へ移住。
1906年 闘鶏神社の宮司の娘、松枝と結婚。
神社合祀令が出される。熊楠は植物学者としての立場から反対運動を知識人中心に働きかける。
1907年  長男熊弥誕生
1908年  知人の所蔵している書物の書写をはじめる。法輪寺所蔵の『大蔵経』には精力を費やした。
1910年  安堵山の山小屋で40日間の隠花植物の採集に従事した。
1911年  長女文枝誕生。
民俗学の父、柳田国男との交流がはじまる。
1912年  熊楠の努力の成果で、神社合祀は推進されなくなっていく。
1913年  柳田国男が熊楠を訪ねてくる。二人の交流は初期の日本民俗学の発展に大きな役割を果たした。
1917年  自宅の柿の木で粘菌新種を発見。後に“ミナカテルラ・ロンギフィラ”と命名される。
1920年  高野山で菌類などの採集や写生をスタート。
1922年  南方植物研究所設立の資金集めのため36年ぶりに東京へ。
1925年  募金集めの際に履歴を求められ、長さ8mほどに及ぶ長大なものを書き送った。
1926年  『南方閑話』『南方随筆』『続南方随筆』が出版される。
熊楠生前に著書が出たのはこの3冊のみ。
1928年  日高郡妹尾の国有林伐採の前に入山し、粘菌、多数の植物を採集する。
1929年  天皇への進講を田辺湾神島で行う。採集整理した粘菌の標本を110種献上した。
1941年   12月『天井に紫の花が咲いている』という言葉を残して74歳の生涯を閉じた。   


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