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紀州人物往来

政治・経済編 文化・芸術編 医学・科学編 スポーツ編 歴史・伝説編 その他

政治、科学、文化、スポーツ…。
遙かな時の流れのなかで、多彩な分野で時代を動かした人々、世界初、日本初を成し遂げた人々。
ここでご紹介する歴史に名を残した人々の中には、明るく暖かい黒潮気候と豊かな自然に育まれた、
実直で進取の気風に富んだ和歌山県人の魅力がきらめいている。

政治・経済編

 

徳川吉宗江戸幕府を立て直した中興の名君

徳川吉宗(とくがわよしむね・1684〜1751)

貞享元年、紀州藩二代藩主徳川光貞の4男として和歌山市に生まれる。兄である三代藩主綱教(つなのり)、四代藩主頼職(よりもと)があいついで死去し、吉宗が本家を継ぎ五代藩主となった。吉宗22歳の時である。
紀州藩五代藩主としての吉宗は自ら率先して倹約を実践、藩財政再建を成功させた。また目安箱を城下の十数カ所に置いて役人や藩士の行状、藩政の改革案などを一般から求めるなど一般民衆の声を藩政に生かし、庶民の苦しみを知る藩主として称えられた。
亨保元年(1716)、江戸幕府八代将軍となった吉宗は紀州藩再建の経験を基に、目安箱の設置、家柄を問わない人材の登用をはじめ相対済し令、倹約令、上米令など世にいう「亨保の改革」を実施。幕藩体制の立て直しをはかり、幕府中興の名君として現在に知られる。

 

明治の外交に貢献

陸奥宗光(むつむねみつ・1844〜1897)

弘化元年紀州藩勘定奉行伊達千広の6子として和歌山市に生まれる。幕末、尊王攘夷運動に走り、土佐藩の海援隊で坂本龍馬らと共に活躍。維新後は紀州藩権大参事などを歴任の後明治25年、伊藤博文内閣の外務大臣に就任。領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とする日英通商航海条約の締結を成し遂げるなど、優れた外交手腕により多くの功績を残した。

 

社会党初の総理大臣

片山 哲(かたやまてつ・1887〜1978)

明治20年、田辺市に生まれる。大正15年、社会民衆党を結成。安部磯雄を委員長に、自分は書記長となり活発な運動を展開。昭和5年、神奈川県から衆院選に立候補して当選、以来11期務める。同20年結成された日本社会党の書記長、委員長も歴任。同22年の総選挙では社会党が第一党となり、和歌山県出身者として史上初の総理大臣に就任。日本最初の社会党首班内閣の誕生となった。

 

世界の家電王

松下幸之助(まつしたこうのすけ・1894〜1989)

明治27年、海草郡和佐村(現・和歌山市)の農家に生まれる。小学校4年で中退して大阪へ。でっち奉公から大阪電灯会社の配線工となり、大正7年には自宅に松下電気器具製作所を設立。電気の将来性をいち早く読み、新しい電灯のソケット開発に成功。現在の松下電器産業株式会社の基礎を創った。世界のナショナルの会長として名誉県民、ロサンゼルスの名誉市民にも選ばれている。

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文化・芸術編

 

佐藤春夫紀州を愛した郷愁の叙情詩人

佐藤春夫(さとうはるお・1892〜1964)

明治25年4月、新宮市に生まれる。詩人、小説家。18歳の時、永井荷風を慕って、慶應義塾大学文学部に入学、「スバル」などに詩を発表。大正7年、谷崎潤一郎の推薦により中央公論に「月かげ」「田園の憂鬱」「都会の憂鬱」などを掲載。和漢洋の幅広い教養と理知的な美意識により近代人の憂愁を詩情豊かにうたいあげた作品により、流行作家の地位を得る。昭和5年8月、谷崎潤一郎元夫人の千代子と結婚。谷崎が春夫に夫人を譲渡するとした、3人の連名による新聞発表は世間を驚かせた。
故郷を愛した彼は「あはれ 秋かぜよ 情あらば伝へてよ 男ありて 今日の夕餉(ゆうげ)に ひとり さんまを食ひて 思ひにふけると」と歌った「秋刀魚の歌」をはじめ、「空青し 山青し 海青し」と紀南の風物を詠んだ「望郷五月歌」など故郷を想う歌を数多く残し、小説「わんぱく時代」には彼が少年時代を遊んだ丹鶴城や城山の話が数多くでてくる。
昭和23年芸術院会員、同35年文化勲章受章、新宮市の名誉市民。文化勲章受章祝賀の席で彼は「好き勝手なことを50年間も続けてきて、皆さんから祝福され、国から表彰される私は幸運だ。これも祖先からうけた丈夫な体と、優れた山紫水明の自然環境のおかげだ」と語った。

 

女形の元祖

芳沢あやめ(よしざわあやめ・1673〜1729)

延宝元年、日高川町に生まれる。元禄期を代表する歌舞伎の女形で、女形の元祖ともいわれる。芸談「あやめぐさ」は今も女形の経典とされている。

 

浪花節の元祖

京山恭安斎(きょうやまきょうあんさい・江戸末期〜1890)

紀州徳川家の御殿医を父に、和歌山市に生まれる。放蕩ゆえに勘当され神道の祭文語りの世界に入る。三味線を取り入れた浮連節を考案、爆発的な人気を得る。これが浪花節の元祖となった。

 

童謡を数多く作詞

東 くめ(ひがしくめ・1877〜1969)

明治10年、新宮市に生まれる。東京音楽学校を卒業。明治32年に日本初の口語体による童謡「鳩ぽっぽ」を作詞。代表作に「お正月」「鯉のぼり」「雪やこんこ」などがある。昭和37年3月、新宮市名誉市民の称号を受けた。

 

男女共学制を導入

西村伊作(にしむらいさく・1884〜1963)

明治17年、新宮市に生まれる。大正10年、「自由を束縛して決して良い人物は生まれない」という持論を実践する文化学院を東京に創立。日本初の男女共学制は当時の常識を破るものだった。

 

孤高の彫刻家

保田龍門(やすだりゅうもん・1891〜1965)

明治24年、紀の川市に生まれる。苦学して東京美術学校を卒業。卒業記念作品「母と子」で画壇にデビューした。一生を在野に過ごす。南方熊楠記念館の熊楠胸像も龍門の作。

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医学・科学編

 

華岡青洲世界で初めて全身麻酔手術に成功

華岡青洲(はなおかせいしゅう・1760〜1835)

宝暦10年10月、紀の川市に生まれる。代々医者の家系であったため、天明2年(1782)から5年まで京都へ遊学して古医方を学び、さらにオランダ医学系統の外科学や儒学も学ぶ。京都での暮らしは貧しく、妹が機(はた)を織ったお金を仕送りし勉学に専念したと伝えられる。 
京都遊学時代に麻酔剤「麻沸散」を使って開腹手術をした古代中国、三国時代の医師、華佗(かだ)の存在を知り、自分は日本の華佗になることを決意する。
3年間にわたる京都での研究を終え帰郷した彼は、診療のかたわら麻酔剤の研究に努める。この研究の過程で、危険な人体実験に青洲の母と妻が献身的に協力したことは小説、芝居、映画などでも有名である。
帰郷から19年後、彼は曼陀羅華(まんだらげ)を主薬とした麻酔剤「通仙散(つうせんさん)」の処方を完成。文化元年(1804)大和からはるばる訪ねてきた老婦人の全身麻酔による乳癌手術に成功する。欧米のエーテル麻酔などより40年も早い快挙であった。このニュースは華岡流医学として全国に伝わり、1,800人を超える医者たちが青洲の門を叩いたといわれる。
現在、米シカゴ市にある国際外科学会の栄誉会館の日本室には青洲が、そして中国室には華佗が顕彰されている。

 

天然痘のワクチンを発明

小山肆成(こやましせい・1807〜1862)

文化4年、白浜町に生まれる。京都で医師となるが、天保9年(1838)から同13年まで郷里熊野を襲った天然痘の研究に打ち込む。嘉永2年(1849)ついにワクチンである牛化人痘苗の育成に成功。英国の医師ジェンナーの種痘発明から53年後のことであったが、その成果はジェンナーのものより数歩も進んだものであった。

 

脚気の原因を究明

島薗順次郎(しまぞのじゅんじろう・1877〜1937)

明治10年、和歌山市に生まれる。東京帝国大学において和歌山の牟婁病の発見者である三浦謹之助教授に師事。後に東京帝国大学教授。当時、国民病とまでいわれた脚気の原因究明に打ち込み、ビタミンB1の欠乏症であることを立証。毎年2万人もの死者を記録した病の治癒に尽力した。

 

ビタミンAを発見

高橋克己(たかはしかつみ・1892〜1925)

明治25年、和歌山市に生まれる。東京帝国大学農学部から大学院を経て、ビタミンB1の発見で知られる鈴木梅太郎に師事。当時、学説上でしかその存在が認められていなかった幻の物質、ビタミンAをタラの肝油から発見。夜盲症に悩む多くの人々に福音をもたらした。

 

数学に一生を捧げる

岡 潔(おかきよし・1901〜1978)

明治34年、大阪市生まれ。4歳から父の実家のある橋本市で育つ。京都帝国大学理学部を卒業後、同大学講師を経て、昭和4年フランスへ留学。帰国後、昭和15年より郷里で「多変数解析函数論」の研究に没頭。その世界的な発見により日本学士員賞、文化勲章を受ける。京大講師時代の教え子としてノーベル物理学賞受賞の湯川秀樹博士がいる。

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スポーツ編

 

兵藤秀子「前畑ガンバレ」「前畑ガンバレ」

兵藤秀子(ひょうどうひでこ・旧姓前畑・1914〜1995)

大正3年、橋本市に生まれる。日本女性初めてのオリンピック金メダリスト。橋本尋常小学校5年生の時、近畿地方の学童水泳大会で50メートル平泳ぎで日本新記録をうちたてる。高等科2年、15歳の時ハワイで開かれた汎太平洋女子五輪に出場し、100メートル平泳ぎで優勝。
昭和11年の第11回ベルリンオリンピック大会、平泳ぎ200メートル決勝戦において接戦の末、宿敵ゲネンゲルを破り金メダルを獲得。4年前のロサンゼルス大会で銀メダルに甘んじた雪辱を果たした。タイムは3分3秒6だった。この試合でNHKの実況アナウンサーがあまりの激戦に中継を忘れ、23回も「前畑ガンバレ」と叫び続け、タッチの差で前畑選手の優勝が決定するや「勝った、勝った、勝った」と涙声で聴衆に伝えたというエピソードは現在でも語り草となっている。

 

合気道の創始者

植芝盛平(うえしばもりへい・1883〜1969)

明治16年、田辺市元町に生まれる。北海道開拓移民時代に会津藩の御留技として武道家に知られていた大東流柔術の師範、武田惣角と出会い入門。その後、様々な流派の柔術の極意を極め、大正8年、京都の綾部で修行道場、植芝塾を開き、心技体が一体となる「合気武術」の基礎をつくる。

 

高校野球の生みの親

田村木国(たむらもっこく・1889〜1964)

明治22年、かつらぎ町で生まれる。大正4年、大阪朝日新聞社に勤務していた木国は箕面有馬電鉄(現在の阪急電鉄)から電鉄が新しく作った豊中球場の夏の企画について相談を受け、全国中等学校優勝野球大会を考案。これが現在の全国高校野球選手権大会の前身となった。

 

銀と銅を合わせた友情のメダル

西田修平(にしだしゅうへい・1910〜1997)

明治43年、那智勝浦町で生まれる。第10回ロサンゼルスオリンピック棒高跳びで日本初の銀メダルを獲得。第11回ベルリンオリンピック棒高跳び決勝戦では、2位3位を大江李雄と競い、決着がつかずに年長の西田が2位、大江が3位とされた。西田は「仲良く賞を分けあおう」と銀、銅メダルをふたつに割って溶接。有名な「友情のメダル」はこうしてできあがった。

 

海に散った天才ピッチャー

嶋 清一(しませいいち・1920〜1945)

大正9年、和歌山市に生まれる。昭和12年の第23回全国高校野球選手権大会を皮切りに3年間、海草中学(現在の向陽高校)から投手として出場。特に第25回大会では準決勝、決勝戦で連続ノーヒット・ノーランの偉業を成し遂げ天才とうたわれた。明治大学野球部で活躍するが、学徒動員で海軍に入隊。昭和20年、ベトナムの海岸線付近を北上中に米潜水艦の攻撃を受け戦死した。平成20年、財団法人野球体育博物館より特別表彰を受け、野球殿堂入り。

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歴史・伝説編

 

空海庶民のための仏教布教に尽力

空海(くうかい・774〜835)

宝亀5年、讃岐国(現・香川県)に生まれる。18歳で京の大学に学ぶが、官吏への出世コースを嫌い山岳修行者の群れに身を投じる。以後、空海は青年時代を四国、紀伊の山野での苦行や寺院にこもっての経典との取り組みに費やし、仏教へのより深い開眼に情熱を燃やす。
高野山を発見したのもこの頃だと伝えられている。
仏教の中に真の教えを求め入唐留学を決意した空海は31歳で唐に渡り、仏教界で最高峰の恵果から密教の奥義を伝授されるという日本仏教史上に残る最高の栄誉に浴する。帰国後、高雄寺を拠点に真言密教の新宗派を確立、嵯峨天皇より高野山、東寺を賜った。そして、民衆の教化・救済、仏教の民衆化に努め、日本で最初の庶民のための学校「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設する。また、故郷讃岐にある「満濃池」の改修工事や東寺の造営と、土木や建築にも優れた手腕を発揮している。
高野山開創にあたり真言密教の根本道場として教義を目に見える形で表した壇上伽藍建設に着手、山全体を「金剛峯寺」と名付けた。数々の偉業を残した空海は、62歳で高野山・奥院にて入定、86年後、醍醐天皇より「弘法大師」の諡号を贈られた。
「お大師さん」と親しみを込めて呼ばれる弘法大師空海への庶民信仰は全国各地で生き続けている。

 

鉄砲で信長勢を悩ます

雑賀孫一(さいかまごいち・生没年不明)

今の和歌山市雑賀に生まれる。本名、鈴木孫一。戦国時代に鉄砲の射撃に長じた雑賀党の党首として君臨。元亀元年(1570)から始まった織田信長の石山本願寺攻めに、信者として本願寺側に加勢。一度は織田側を退けたがやがて降伏した。今に伝わる「雑賀踊り」は、信長の勝利した喜びの雑賀勢が矢宮神社の前で踊ったのがはじまり。

 

空前絶後の弓の記録を樹立

和佐大八郎範遠(わさだいはちろうのりとお・1663〜1713)

寛文3年、紀州藩弓術指南役を父に和歌山市に生まれる。貞享3年(1686)弓の天下一を競う京都三十三間堂の「通し矢」で13,053本の矢を打ち、8,133本を通すという空前絶後の新記録をうちたてた。この記録は現在でも破られていない。

 

村人を救った稲むらの火

濱口梧陵(はまぐちごりょう・1820〜1885)

文政3年、有田郡広川町で生まれる。安政元年(1854)の大地震の時、梧陵は湯浅湾に押し寄せた津波を村人たちに急報するため、自分の稲むらを燃やし人々を救った。後に私財を投げうって650mの大堤防もつくった。また耐久舎(現在の耐久高校)の設立など教育面でも尽力し、明治12年初代県会議長。明治18年、欧米旅行中にニューヨークで客死。

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その他

 

南方熊楠世界に誇る博識と情熱の巨人

南方熊楠(みなかたくまぐす・1867〜1941)

慶応3年4月、和歌山市に生まれる。和歌山市が生んだ博物学の巨星。植物学・微生物学者であり、柳田国男と並ぶ民俗学の創始者。幼い頃から「和漢三才図会(わかんさんさいずえ)」「本草綱目(ほんそうこうもく)」「大和本草(やまとほんそう)」などを筆写、天童ぶりを発揮した。
病気のため東京大学予備門を退学した後は、20歳から14年間アメリカ・イギリスなどへ海外遊学。イギリスでは大英博物館にも在勤し膨大な書籍の筆写により様々な知識を吸収した。十数カ国語を自由に使いこなしイギリスの科学雑誌「ネーチャー」をはじめ国内外に多くの論文を発表。日本にミナカタありと世界の学者をふり向かせた。
帰国後は田辺市に住み、熊野の森を中心に粘菌や隠花植物の研究に没頭、昭和4年には紀南を訪問された天皇陛下に神島にて御進講をする栄誉に浴した。一生を在野の学者として生きた熊楠は、膨大な標本と5,000種以上にも及ぶ菌類・粘菌のスケッチ、数冊の著書と柳田国男などとの往復書簡を残して75歳の生涯を閉じる。
近年、その功績はもちろん明治39年に政府が発令した神社合祀令に植物学および民俗学的立場から反対運動を起こしたことや、神島を国の天然記念物指定にするために尽力するなど自然保護にも力を注いだエコロジストとしても注目されている。

 

徳本念仏講の始祖

徳本上人(とくほんしょうにん・1758〜1818)

宝暦8年、日高町に生まれる。2歳の秋、姉の背で「念仏」を唱えたといわれる。天明4年(1784)御坊市の往生寺で仏門に入り、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えるだけで極楽往生できるという思想を説いて人々に生きる喜びを与えた。

 

2階建て馬車で大人気

由良守応(ゆらもりまさ・1827〜1894)

文政10年、由良町で生まれる。明治4年、条約改正交渉の岩倉具視一行に加わって渡欧。帰国後皇宮馬車係の任についた後、東京浅草で乗合馬車会社「千里軒」を開く。浅草と新橋駅間に30人乗りの2階建て馬車を走らせ大人気を得たが、「往来のさわりをなんとせんり軒」と川柳によまれるほど通行の妨げとなり禁止されてしまった。

 

日本初の飛行船開発に成功

山田猪三郎(やまだいさぶろう・1863〜1913)

文久3年、和歌山市に生まれる。明治33年、日本初の気球を完成。同37年には有人飛行に成功した。以後、推進装置付の飛行船開発に没頭し明治43年には日本初の全長33mもの飛行船の飛行に成功。翌年には第3号機で東京大崎と皇居の間を往復した。現代の航空記念日9月20日は山田式飛行船初飛行が成功した日である。

 

新憲法に禅問答で名答

山本玄峰(やまもとげんぽう・1866〜1961)

慶応2年、田辺市に生まれる。青年期に失明、四国遍路にでる。明治22年、土佐の雪渓寺で仏門に入り、雪渓寺住職を経て昭和22年臨済宗妙心寺派の管長。終戦後、民主主義と天皇制との矛盾に苦しむ憲法調査委員会の相談に「天皇は空に輝く国民の象徴みたいなものだ」と示唆し、憲法第1条「天皇は国民の象徴であり、日本国民統合の象徴」の条項が生まれたことは有名である。

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