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歴史(れきし)



   

和歌山(わかやま)歴史(れきし)について紹介(しょうかい)します。

 和歌山(わかやま)最初(さいしょ)(ひと)()んだのは(いま)から(やく)万年(まんねん)前頃(まえごろ)です。
 縄文(じょうもん)時代(じだい)では土器(どき)弓矢(ゆみや)発明(はつめい)され、 弥生(やよい)時代(じだい)(はい)ると()(かわ)沿()いや海岸沿(かいがんぞ)いで稲作(いなさく)(はじ)まり、 4世紀(せいき)(はじ)めには巨大(きょだい)経済力(けいざいりょく)権力(けんりょく)をもった豪族(ごうぞく)がでてきました。
 奈良(なら)時代(じだい)(はい)ってから(みやこ)平城京(へいじょうきょう)(うつ)り、 和歌(わか)(うら)行幸(ぎょうこう)(おこな)われるようになりました。 行幸(ぎょうこう)は724(ねん)聖武(しょうむ)天皇(てんのう)から(はじ)まり765(ねん)称徳(しょうとく)天皇(てんのう)、 804(ねん)桓武(かんむ)天皇(てんのう)(つづ)きました。
 平安(へいあん)時代(じだい)(はい)り、 816(ねん)空海(くうかい)高野(こうや)(さん)金剛(こんごう)峰寺(ぶじ)()てました。 907(ねん)宇多法皇(うだほうおう)行幸(ぎょうこう)(はじ)まった熊野詣(くまのもうで)白河上皇(しらかわじょうこう)以後盛(いこうさか)んに(おこな)われるようになりました。
 江戸時代(えどじだい)(はい)り、 徳川御三家(とくがわごさんけ)誕生(たんじょう)しました。 紀州藩(きしゅうはん)徳川御三家(とくがわごさんけ)となったのは1619(ねん)二代将軍(にだいしょうぐん)徳川秀忠(とくがわひでただ)(とき)徳川家康(とくがわいえやす)(だい)10(なん)頼宣(よりのぶ)が55(まん)千石(せんごく)藩主(はんしゅ)になってからのことです。
 明治(めいじ)時代(じだい)(はい)り、 1871(ねん)廃藩置県(はいはんちけん)により、 和歌山県(わかやまけん)田辺県(たなべけん)新宮県(しんぐうけん)の3つの(けん)設置(せっち)されました。 その(のち)にこの3(けん)合併(がっぺい)して現在(げんざい)和歌山県(わかやまけん)になりました。
 昭和(しょうわ)時代(じだい)(はい)り、 1944(ねん)昭和(しょうわ)19(ねん))に東南海地震(とうなんかいじしん)と、1946(ねん)昭和(しょうわ)21(ねん))に(なん)(かい)()(しん)()きました。 また、1953(ねん)昭和(しょうわ)28(ねん))7(がつ)には有田郡(ありだぐん)日高郡(ひだかぐん)大豪雨(だいごうう)(おそ)い、 1955(ねん)昭和(しょうわ)30(ねん)(だい)(はい)っても台風(たいふう)被害(ひがい)続出(ぞくしゅつ)し、戦災(せんさい)災害(さいがい)からの復興(ふっこう)という(きび)しい()(だい)でした。 その(のち)高度(こうど)経済(けいざい)成長(せいちょう)(とも)発展(はってん)(みち)(ひら)け、 産業(さんぎょう)では繊維(せんい)産業(さんぎょう)から鉄鋼(てっこう)(せき)()工業(こうぎょう)といった(じゅう)化学(かがく)工業(こうぎょう)など(おお)きく進展(しんてん)しました。
 平成(へいせい)時代(じだい)(はい)り、 2004(ねん)平成(へいせい)16(ねん))7(がつ)世界(せかい)遺産(いさん)紀伊(きい)山地(さんち)霊場(れいじょう)参詣道(さんけいみち)」が(たん)(じょう)国内外(こくないがい)から(おお)きな注目(ちゅうもく)(あつ)めています。
 (いま)和歌山県(わかやまけん)では「平成(へいせい)大合併(だいがっぺい)」や「三位一体(さんみいったい)改革(かいかく)」などにより、 地方(ちほう)行政(ぎょうせい)()()状況(じょうきょう)(おお)きく()わろうとしているなか、 今世紀(こんせいき)前半(ぜんはん)にも発生(はっせい)するといわれている、 (とう)(なん)(かい)南海(なんかい)地震(じしん)への対策(たいさく)や「(みどり)雇用(こよう)事業(じぎょう)」を(はじ)めとする(しん)ふるさと(づく)り、 企業(きぎょう)誘致(ゆうち)など、()(いき)資源(しげん)()かした個性(こせい)魅力(みりょく)あふれる「和歌山(わかやま)モデル」となる事業(じぎょう)()()んでいます。


和歌山(わかやま)先人(せんじん)

 和歌山(わかやま)には、 世界(せかい)遺産(いさん)高野(こうや)熊野(くまの)」をはじめ、 (うつく)しい自然(しぜん)風土(ふうど)素晴(すば)らしい歴史(れきし)文化(ぶんか)数多(かずおお)くあります。
 このような環境(かんきょう)(なか)(はぐく)まれた先人(せんじん)たちは、 和歌山(わかやま)、そして日本(にっぽん)、 あるいは世界(せかい)舞台(ぶたい)(かがや)かしい(ぎょう)(せき)(のこ)しました。 そうした先人(せんじん)たちの(あゆ)みから、 (わたし)たちの未来(みらい)()かしていくために、 さらに(ふか)(まな)んでいただければと(おも)い「和歌山(わかやま)先人(せんじん)」を紹介(しょうかい)します。


浜口 梧陵(はまぐち ごりょう)

浜口(はまぐち) 梧陵(ごりょう)

1820(ねん)文政(ぶんせい)(ねん))〜1885(ねん)明治(めいじ)18(ねん)
有田郡(ありだぐん)広川町(ひろかわちょう) ()まれ
(いな)むらの()」で(おお)くの村人(むらびと)(すく)いました

●おいたち

 12(さい)家業(かぎょう)のしょう()醸造業(じょうぞうぎょう)引継(ひきつ)ぎ、 江戸(えど)銚子(ちょうし)広村(ひろむら)()()し、 家業(かぎょう)発展(はってん)させるかたわら、 蘭学者(らんがくしゃ)佐久間(さくま)象山(しょうざん)(かつ)海舟(かいしゅう)らから西洋(せいよう)事情(じじょう)などを(まな)びました。
 晩年(ばんねん)中央(ちゅうおう)和歌山(わかやま)政界(せいかい)活躍(かつやく)し、 1871(ねん)明治(めいじ)(ねん))に政府(せいふ)(えき)(ていの)(かみ)郵政(ゆうせい)大臣(だいじん))、 1880(ねん)明治(めいじ)13(ねん))には和歌山県(わかやまけん)初代(しょだい)県会(けんかい)議長(ぎちょう)就任(しゅうにん)しました。
 その(のち)、1885(ねん)明治(めいじ)18(ねん))に(わか)(とき)から熱望(ねつぼう)していたアメリカ()きを()たしましたが、 その途中(とちゅう)()くなりました。

有名(ゆうめい)業績(ぎょうせき)など

 (たか)(やく)5メートルの大津波(おおつなみ)(なみ)よけの石垣(いしがき)()()えて広村(ひろむら)現在(げんざい)広川(ひろかわ)(ちょう))を(おそ)った1854(ねん)安政(あんせい)元年(がんねん))の安政(あんせい)南海(なんかい)地震(じしん)(とき)に、 とっさの機転(きてん)()んぼの(いな)むらを()やし、 それを(みち)しるべとして暗闇(くらやみ)(なか)()げまどう村人(むらびと)高台(たかだい)にある(ひろ)八幡(はちまん)神社(じんじゃ)境内(けいだい)(みちび)き、 (おお)くの(いのち)(すく)いました。
 さらに、 浜口(はまぐち)梧陵(ごりょう)は、(ふたた)び100年後(ひゃくねんご)予想(よそう)される南海(なんかい)地震(じしん)発生(はっせい)(おお)()(なみ)(そな)えて、 巨額(きょがく)私財(しざい)()げうち、 (たか)さ5メートル、(はば)650メートルに(およ)広村(ひろむら)堤防(ていぼう)建設(けんせつ)しました。 92年後(ねんご)昭和(しょうわ)21(ねん)12(がつ)21(にち)(ふたた)(むら)(おそ)った昭和(しょうわ)南海(なんかい)地震(じしん)津波(つなみ)は、 この広村(ひろむら)堤防(ていぼう)効果(こうか)により安政(あんせい)南海(なんかい)(おお)()(しん)(くら)べてはるかに(ちい)さな被害(ひがい)(おさ)えることができました。
 広村堤防(ひろむらていぼう)改修(かいしゅう)(かさ)現在(げんざい)もその姿(すがた)(のこ)し、 堤防(ていぼう)には浜口(はまぐち)梧陵(ごりょう)偉業(いぎょう)感謝(かんしゃ)する()建立(こんりゅう)されています。

南方 熊楠(みなかた くまぐす)

南方 熊楠(みなかた くまぐす)

1867(ねん)慶応(けいおう)(ねん))〜1941(ねん)昭和(しょうわ)16(ねん)
和歌山市(わかやまし) ()まれ
博物学者(はくぶつがくしゃ)世界(せかい)学者(がくしゃ)()()かせた博物学(はくぶつがく)巨星(きょせい)

●おいたち

 和歌山市(わかやまし)橋丁(はしちょう)()まれ、 幼少(ようしょう)より抜群(ばつぐん)記憶力(きおくりょく)(めぐ)まれており、 知的(ちてき)(こう)()(しん)()ちあふれていました。 少年(しょうねん)時代(じだい)に105(かん)もある「和漢(わかん)三才(さんさい)()()」を3年間(ねんかん)かけて()(うつ)しています。
 雄小学校(おのしょうがっこう)現在(げんざい)の「雄湊小(おのみなとしょう)」)、和歌山中学校(わかやまちゅうがっこう)現在(げんざい)の「桐蔭高(とういんこう)」)を(そつ)(ぎょう)()上京(じょうきょう)共立学校(きょうりつがっこう)(まな)び、 明治(めいじ)17(ねん)東京大学予備門(とうきょうだいがくよびもん)入学(にゅうがく)しましたが、 2(ねん)退学(たいがく)して和歌山(わかやま)(かえ)りましたが、 明治(めいじ)19(ねん)(ちち)援助(えんじょ)でアメリカへ留学(りゅうがく)しここで粘菌(ねんきん)魅力(みりょく)にとりつかれ、 さらに明治(めいじ)25(ねん)にイギリスに(わた)りました。
 科学雑誌(かがくざっし)「ネイチャー」に数多(かずおお)くの論文(ろんぶん)発表(はっぴょう)し、 好評(こうひょう)をはくしました。 ここで亡命中(ぼうめいちゅう)孫文(そんぶん)(のち)高野山(こうやさん)管長(かんちょう)となる土宣(とき)法竜(ほうりゅう)出会(であ)い、 親交(しんこう)(むす)びました。
 明治(めいじ)33(ねん)にイギリスから帰国(きこく)し、 明治(めいじ)34(ねん)那智(なち)勝浦町(かつうらちょう)移住(いじゅう)しました。 (しゅ)として那智(なち)滝周辺(たきしゅうへん)原生林(げんせいりん)生物調査(せいぶつちょうさ)採集(さいしゅう)(おこな)いました。 その3年後(ねんご)田辺市(たなべし)転居(てんきょ)し、 明治(めいじ)39年結婚(ねんけっこん)してその()終生(しゅうせい)()ごしました。


(おも)業績(ぎょうせき)など

 熊野(くまの)高野(こうや)をはじめ県内(けんない)各地(かくち)山中(さんちゅう)田辺(たなべ)自庭(じにわ)、 「神島(かしま)(など)(おお)くの(ひょう)(ほん)採集(さいしゅう)し、 (あたら)しい種類(しゅるい)粘菌(ねんきん)発見(はっけん)したり、 多数(たすう)民俗学等(みんぞくがくなど)(ろん)(ぶん)執筆(しっぴつ)しました。
 また「人間(にんげん)自然(しぜん)(なか)()かされている」という理念(りねん)自然(しぜん)生態系(せいたいけい))の()(かい)人間(にんげん)生命(せいめい)生活(せいかつ)人間性(にんげんせい))の破壊(はかい)であると神社(じんじゃ)合祀(ごうし)反対(はんたい)運動(うんどう)自然(しぜん)保護(ほご)(エコロジー)に情熱(じょうねつ)()やしました。
 「金平糖(こんぺいとう)のような(ひと)」と(たと)えられ、 研究(けんきゅう)ジャンルの(ひろ)さ、18ヶ(こく)(はな)せたという語学力(ごがくりょく)()いて(おぼ)えるという抜群(ばつぐん)能力(のうりょく)は、 ロンドン抜書(ぬきがき)田辺(たなべ)抜書(ぬきがき)書簡(しょかん)、 また標本(ひょうほん)図譜(ずふ)(など)(おお)(のこ)しています。
 昭和(しょうわ)(ねん)(がつ)には、 昭和天皇(しょうわてんのう)田辺湾(たなべわん)神島(かしま)」にお(むか)えし、 「長門(ながと)艦上(かんじょう)御進講(ごしんこう)(おこな)いました。
 独学(どくがく)(ゆう)自由(しぜん)独創性(どくそうせい)は21世紀(せいき)指針(ししん)示唆(しさ)しています。

華岡 青洲(はなおか せいしゅう)

1760(ねん)宝暦(ほうれき)10(ねん))〜1835(ねん)天保(てんぽう)(ねん)
()川市(かわし)(きゅう) 那賀町(ながちょう)) ()まれ
医者(いしゃ)」 世界(せかい)(はじ)めて全身麻酔手術(ぜんしんますいしゅじゅつ)成功(せいこう)した医聖(いせい)

●おいたちと(おも)業績(ぎょうせき)

 1760(ねん)宝暦(ほうれき)10(ねん))10(がつ)()川中流域(かわちゅうりゅういき)()川市(かわし)(きゅう) 那賀町(ながちょう))に()まれました。 代々医者(だいだいいしゃ)家系(かけい)であったため、 (ちち)のもとで医学(いがく)(まな)びました。 1782(ねん)天明(てんめい)(ねん))から3年間京都(ねんかんきょうと)で、 寝食(しんしょく)(わす)れて古医方(こいほう)、 オランダ医学系統(いがくけいとう)外科学(げかがく)儒学(しゅがく)(まな)びました。 この(とき)麻酔剤(ますいざい)麻沸散(まふつさん)」を使(つか)って開腹手術(かいふくしゅじゅつ)をした古代中国(こだいちゅうごく)三国時代(さんごくじだい)医師(いし)華佗(かだ)存在(そんざい)()り、 (せい)(しゅう)日本(にっぽん)華佗(かだ)になることを決意(けつい)しました。
 当時切除(とうじせつじょ)により初期乳(しょきにゅう)がんを治療(ちりょう)するという(かんが)(かた)専門家(せんもんか)(あいだ)にあり、 患部(かんぶ)切除手術(せつじょしゅじゅつ)には患者(かんじゃ)無意識(むいしき)無痛(むつう)状態(じょうたい)にする必要(ひつよう)がありました。 京都(きょうと)から帰郷(ききょう)した青洲(せいしゅう)は、 診療(しんりょう)のかたわら麻酔剤(ますいざい)研究(けんきゅう)(つと)め、 (なが)(ねん)にわたる研究過程(けんきゅうかてい)で、 この当時(とうじ)としては(あたら)しい「実験(じっけん)」という手法(しゅほう)()(かえ)し、 動物実験(どうぶつじっけん)成功後(せいこうご)(みずか)らの大切(たいせつ)(つま)(はは)被験者(ひけんしゃ)として実験(じっけん)(おない)い、 曼陀羅華(まんだらげ)主成分(しゅせいぶん)とする麻酔薬(ますいやく)通仙散(つうせんさん)」を完成(かんせい)させました。
 帰郷(ききょう)し19年後(ねんご)の1804(ねん)文化元年(ぶんかがんねん))には、 老婦人(ろうふじん)全身麻酔(ぜんしんますい)による(にゅう)(がん)(しゅ)(じゅつ)成功(せいこう)しており、 これはアメリカ人医師(じんいし)モートンによるエーテル麻酔(ますい)成功(せいこう)先立(さきだ)つこと40年余(ねんあまり)快挙(かいきょ)でした。 このニュースは華岡(はなおか)(りゅう)医学(いがく)として全国(ぜんこく)(つた)わり、 1800(にん)()える医師達(いしたち)青洲(せいしゅう)弟子入(でしい)りを(ねが)って(おとず)れたといわれています。
 現在(げんざい)(アメリカ)シカゴ()にある国際外科学会(こくさいげかがっかい)栄誉会館(えいよかいかん)では、 日本室(にほんしつ)(せい)(しゅう)中国室(ちゅうごくしつ)華佗(かだ)功績(こうせき)をたたえて、 その業績(ぎょうせき)(ひろ)世間(せけん)()らせています。 また地元(じもと)では青洲(せいしゅう)生家(せいか)であり、 病院(びょういん)医塾(いじゅく)であった「春林軒(しゅんりんけん)」が()(ちく)復元(ふくげん)されるとともに、 「青洲(せいしゅう)(さと)」として整備(せいび)され、 数多(かずおお)くの遺品(いひん)展示(てんじ)し、 (かれ)業績(ぎょうせき)紹介(しょうかい)しています。

▲上(うえ)(もど)