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知事からのメッセージ

知事からのメッセージを紹介します。

平成27年11月のメッセージ

平成27年11月

再び涙流れてやまず

 10月20日、和歌山市のジストシネマ和歌山でエルトゥールル号の映画「海難1890」の試写会が行われました。一般公開は12月5日からですが、何らかの形で応援した人や、マスコミなどを対象に事前試写会が行われたのでした。私も招待されたので行って来ましたが、始めから終わりまで涙が流れてやみませんでした。
 1890年のエルトゥールル号救難事件と1985年のテヘラン空港でのトルコ航空機による日本人救助事件の二つが見事に感動的に扱われています。この二つの感動的な場を田中光敏監督と脚本家の小松江里子さんのコンビが作り出した素晴らしい台詞が埋め尽くし、それを内野聖陽さんと忽那汐里さんのような名優がまた見事に演じきった本当に素晴らしい映画であると思います。
 私は何度でも見たい、そして、人間愛の素晴らしさを何度でも味わいたいと思いました。1890年にエルトゥールル号の救難をした人々は、和歌山の誇りです。と同時にその恩義を125年間も忘れず、これを教科書に書いて子ども達に教え続けてくれた、そしてそれ故に、あのテヘランでは危険を顧みず、救難機を飛ばしてくれ、自国民よりも日本人を優先して助けてくれたトルコの人々の英雄的な行為を我々は忘れてはいけないと思います。そのためにも、この映画はものすごく価値があります。

 田嶋串本町長と田中光敏監督からこの構想を聞いてすぐに賛同して協力を始めた私でしたが、最初は思うようにお金が集まらず、トヨタの張会長から協力を取り付けて、しめた、これで上手くいくと思った矢先リーマンショックが日本経済を襲い、長い頓挫の時代を経験せねばなりませんでした。それを打破してくれたのが安倍総理とトルコのエルドアン首相(現大統領)の是非この映画を一緒に作ろうという合意でした。再びチャンスだと思って、私は世耕官房副長官や財界のトルコ委員長会社のIHIの方と共にたくさんの関連大企業を回って資金協力をお願いしてきました。
 そして、和歌山県を中心とする民間有志もNPOを作ってこの映画の完成のために努力してくれました。浄財を集め、東映がついに配給元になってくれて始まった撮影の際にはエキストラとなって協力してくれた人もいました。
 そして10月20日、涙にかすむ私の眼の向こうにすばらしい名映画についに会うことができました。全国の皆さん、このすばらしい映画を是非見ましょう。和歌山県では小学校高学年から高校生までの子ども全員に何らかの形でこの映画を見せようと準備を進めているところです。

 先般私は、映画制作の半分の資金協力をしてくれたトルコを訪問し、ヤルチュン・トプチュ文化観光大臣などにお会いし、双方で思い切り多くの人々にこの映画を見てもらうように努力しようと言ってきました。またトルコ日本基金センターで、この映画にちなむセミナー「友好はこの海から始まった~エルトゥールル号遭難事件の舞台和歌山県~」を開き、そこでトルコの人々に我々和歌山の県民を代表して講演をしてきました。ちょうど10月12日の爆弾騒ぎの直後だったので参加者の入りが懸念されましたが、会場いっぱいの人々が詰めかけてくれました。以下そこで話してきた内容をもう一度お届けします。

エルトゥールル号セミナー・レセプション

平成27年10月12日(月)
土日基金文化センター(トルコ アンカラ)

友好はこの海から始まった~エルトゥールル号遭難事件の舞台 和歌山県~

 トルコと日本は大変良好な関係を築いています。
 本日はこの友好のきっかけとなった「エルトゥールル号遭難事件」について語りたいと思います。この事件の舞台となったのが和歌山県なのです。

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物語の舞台 和歌山

 最初に、物語の舞台となった和歌山県についてご紹介します。
 日本地図の中で、赤くマークをしているところが和歌山県です。遭難事件が起こった串本町は和歌山県の一番南の先端にあります。
 和歌山県は関西国際空港のすぐ近くにあり、空港から和歌山市まで電車か車で30分です。関西国際空港にはイスタンブールから毎日トルコ航空の直行便が飛んでいます。
 和歌山市からは串本まで、車でも電車でも約2時間です。

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季節の移ろい 和歌山の春・夏・秋・冬

 和歌山県というのはどんな所でしょう?
 和歌山県では、春夏秋冬それぞれの魅力を堪能して頂けます。
 左上から和歌山城の春の桜、夏の白いビーチ、秋の山の紅葉、そして冬の高野山の雪景色です。

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和歌山の自然 海・山・川

 和歌山県は特色のある地理に富んでいて、綺麗な海、豊かな山々、美しい川が沢山あります。

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温泉王国 海・山・川の癒しの湯

 トルコにも温泉があるとお聞きしていますが、和歌山県は日本有数の温泉地として有名で、多くの観光客が温泉を目的に訪れます。
 自然に囲まれながら入る暖かい温泉は、全国各地から訪れる多くの観光客を癒しています。
 海の温泉、川の温泉、洞窟の温泉と色々あります。

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美食の宝庫 和歌山で味わえるグルメ

 和歌山県はユネスコ世界無形遺産となった日本食の宝庫です。
 名産の温州みかんをはじめ様々フルーツを生産しています。仏教の修行僧が食べる魚や肉を一切使わずに調理されたおいしくて体に優しい「精進料理」など特色のある美味しい食事が楽しめます。
 温泉に入った後に温泉旅館で食べる旬の海の幸や山の幸をふんだんに使った夕食は格別です。

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ユネスコ世界遺産 “紀伊山地の霊場と参詣道”

 和歌山には世界に誇るユネスコ世界遺産“紀伊山地の霊場と参詣道”があります。ミシュラン・グリーン・ガイドでも最高の3つ星に評価されており、各国からの旅行者が急増しています。

 これは仏教の聖地「高野山」と熊野信仰の聖地「熊野三山」とこれらを結ぶ熊野古道などの参詣道から成り立っていて、日本人は古くからこのような道をたどり、魂の救いと心身のよみがえりを求めて高野へ、熊野へ参詣していました。

 今や、そのスピリチュアリティが評価されて、たいへん多くの外国人が高野、熊野に訪れています。

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エルトゥールル号遭難事件発生

 その和歌山県で、1890年9月16日、親善使節を乗せて来日していたオスマン帝国の軍艦「エルトゥールル号」は、明治天皇への拝謁を終えて帰国の途中、台風による暴風雨に巻き込まれ、串本町大島にある樫野崎の沖合で岩礁に衝突し、流入した海水により機関部の爆発を引き起こし、沈没しました。

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切り立った崖のため、救助は困難を極めた

 写真は遭難の現場となった海域です。
 近くにある灯台の灯台守は大きな爆発音を聞いたと言います。しばらくして断崖を這い登ってきたという一人の男が助けを求めてきました。服は破け身体は傷だらけです。難破だ。そう直感した灯台守は地元の住民を集めました。
 断崖の下の海岸には、何百人もの男が打ち上げられていました。串本の人々は、真っ暗闇の中で一人一人の生存を確認し、遺体に混ざってまだ息のある者を救助し、大柄なトルコ人を小さい背中に背負って、崖を登りました。傷の手当てをし、生存者の冷えきった身体を抱いて温めるなど、献身的な救護を行いました。
 当時の日本はまだまだ貧しく、人々の生活は苦しかったのですが、串本の人々は着物や布団を差し出すだけでなく、非常食として蓄えていた貴重な米や正月のお祝い用の鶏までも彼らに食べさせました。

 串本の住民による献身的な救護により69名が生還することが出来ました。
 残念ながら587名が死亡・行方不明になりましたが、串本の住民は、事故後2週間以上にわたって海の中まで捜索して、遺体や遺品を引き揚げ、丁重に弔いました。
 当時の日本人は貧しいながらも識字率が高く、農民や漁民も学校での教養として道徳をしっかりと学んでおり、このように他人を思いやる心の大切さをよく分かっていたのです。

 事件の通報を受けて、明治天皇から出来る限りの援助を行うよう指示が出され、医者や看護師が派遣されるとともに、衣料などが届けられました。
 新聞各社や民間の方が義援金を募り、全国から多額のお金が集まりました。
 救助された69名は、明治天皇の指示で当時最新鋭の日本の軍艦により、トルコに送り届けられました。
 明治天皇から、「トルコの人々をこれ以上悲しませることのないよう、慎重に慎重を重ねて送致するように」とのお言葉があったと言います。

 トルコは立派な国ですから、串本の人々のこの行為にはたいへん感謝をし、補償を申し出ました。「救出活動に要した経費を請求されたい。」との手紙が当時の和歌山県知事に届いたのです。
 最近になり、負傷者を治療した串本の医師による返信が見つかりました。これには「私たちは元々治療代を請求する気持ちはなく、ただ痛ましい遭難者を気の毒に思い、ひたすら救助を行ったものである。補償はいらないから、遺族への義援金としてほしい」と書かれています。
 立派な言葉だと同じ和歌山県民として誇りに思います。日本では、他人を思いやる文化が根付いていて、このように遭難者を助けることは当たり前のことだったのです。

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樫野崎に建つエルトゥールル号殉難将士遭難慰霊碑

 事件があった翌年3月、遭難海域を見下ろす丘に、当時の和歌山県知事をはじめ多くの有志からの寄付により墓碑が建てられ、追悼祭が行われました。
 写真は、昭和天皇の行幸を記念して1937年に新たに建てられた慰霊碑です。
 過去には、ダーヴトオール首相をはじめ、ギュル前大統領、チチェキ前国会議長などトルコからも多くの要人が慰霊碑を訪問されました。

 この慰霊碑は、地元大島小学校の生徒が定期的に掃除しており、いつも綺麗にされています。彼らは、学校でエルトゥールル号やトルコのことを学んでおり、祖先の勇気と思いやりの心が次の世代に受け継がれています。

 慰霊碑の側には、記念館とアタチュルク像が建てられています。
 記念館は、1974年に串本町によって建てられ、事故から125周年を迎えた今年、大幅にリニューアルされました。
 館内では、あの悲劇の模様と犠牲になった方々の写真、そして、この後に登場するトゥファンさん達によって海底から引き上げられたエルトゥールル号の遺品などが展示され、現在に至るまでの友好の歴史が紹介されています。

 現在に至るまで毎年、慰霊祭の前で慰霊祭が行われており、5年毎には、皇室の要人をお迎えして大規模な慰霊式典が行われています。
 125周年を迎えた今年6月には、日本側からは皇族の彬子女王殿下や海上自衛隊幕僚長、トルコ側からはチチェキ前国会議長、ボスタノール海軍総司令官、メリチ駐日大使など多くの参列を得て、式典が開催されました。
  残念ながら当日は大雨が降り、式典のためにトルコから派遣されたトルコ軍艦上での式典は中止になり、屋内での開催となりました。写真は5年前の120周年式典のものです。

トルコの人々への敬意

 このようにエルトゥールル号の遭難事件は、587名の尊い犠牲と串本の人々の献身によって日本トルコ両国の友好の架け橋となりました。
 しかし、忘れてはならないことは、事件から125年を経た今日に至るまでトルコの人々が串本の民に、日本の人々に親切にしてもらったことを忘れないでいてくれることです。トルコの人々は、このエルトゥールル号遭難事件を125年間もの間、教科書に書き続け、串本の人々の英雄的献身を讃えてくれました。

 私は、今よりもずっと貧しかった時代において、素晴らしい行為をなしえた先人を持ったことを心から誇りに思っています。
 同時に、この悲しくも美しい物語を忘れることなく語り続け、日本に対して好意と感謝を示してくれたトルコ国民に対し心から感謝し、尊敬しています。

 そして、このことを背景にもう一つの物語が始まったのです。

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