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知事からのメッセージ

知事からのメッセージを紹介します。

平成20年 12月のメッセージ

平成20年12月1日

「陸奥宗光と紀州の遺伝子」

 私は、外務省に少しの間だけ奉職しました(駐ブルネイ大使)。霞ヶ関の外務省の敷地の中に1人だけ銅像となって立っている人がいます。当県出身の陸奥宗光です。私は実は、知事になるまで不学にして、その持つ意味がわかりませんでした。
 今は何となくわかります。近代明治国家にとって、不平等条約の改定と東洋の雄としての列強入りは、死活的な外交課題であったと思うのですが、陸奥は見事にこの端緒をつけました。そればかりか近代的な外交戦略と言えるものを確立した最初の外務省首脳であったと思います。この辺の話は、陸奥のいとこでこれまた当県出身の元農相、岡崎邦輔のお孫さんにあたる高名な外交官、岡崎久彦氏の「陸奥宗光とその時代(上、下)」(PHP研究所)、萩原延壽氏の「萩原延壽集2、3 陸奥宗光(上、下)」(朝日新聞社)等に詳しく書かれてありますので、詳細はそちらに譲るとして、結論だけ先走りすると、さらに、明治維新による近代国家作りのモデルは紀州藩にあったと言っても過言ではないということです。
 私がこのことに気づいたきっかけは、初めて県立博物館に見学に行った時、ちょうど映画「ラストサムライ」の官軍方のような明治初期の洋式軍隊の写真を見たことでした。聞いてみるとこれは、その時すぐ頭に浮かんだ長州の奇兵隊や山縣有朋の明治陸軍などではなく、明治2年から4年のれっきとした紀州藩軍隊であるとのことでした。そこから私のお勉強が始まりましたが。そして、岡崎さんたちの著作を経て私がたどり着いた結論が、「明治維新は和歌山モデル」という先述の表現になるのです。そしてここでも陸奥がグランドデザインを描いているのです。
 彼の父上の時代、藩内の党争に負けて脱藩の身を余儀なくされた陸奥は、坂本龍馬の右腕として活躍し、その構想力を吸収します。鳥羽伏見の戦いで幕府方と目された紀州藩主徳川茂承は京都に幽囚の身となりますが、陸奥が岩倉具視に「紀州をも許す新政府というイメージは諸藩の恭順には最大の武器」と説得することで許されます。それを恩に感じた藩侯は、陸奥ら改革派の施策を全面的に取り入れて、藩政の思い切った改革を行います。すなわち、藩士の俸禄の10分の9の返還による莫大な財政収入により、海援隊以来の陸奥のコネクションで洋式銃を大量に購入し、プロイセンの軍人を指南役に雇い、百姓も含めた四民平等の軍隊を瞬時に作り上げてしまったのでした。装備もよく、よく訓練された紀州藩の軍隊は、たちまちのうちに全国最強の軍隊となり、その規模は薩長土肥の総数よりも多いくらいになりました。そして、各方面から見学に来た者はその威力に仰天したとのことでした。西郷隆盛などは大いに感嘆して、紀州軍の総帥の津田出に「新政府の総理大臣になってくれ」と頼んだほどでした。実はこの構想、すなわち地租改正、四民平等、洋式軍隊、廃藩置県などはその少し前、伊藤博文と陸奥の2人が明治維新の構想として政府に提出した建白書を実行したものでした。しかるに、新政府はこの建白書を握りつぶしました。そればかりか「各藩の軍人は士族以外の者をもって充てるべからず」という通達を各藩に出し、長州では、先述の奇兵隊の百姓出身兵を皆殺しに近いような処刑をしています。
 しかし、紀州藩は、これを無視してあっという間に強くなったのです。このままでは紀州藩の力に他は圧倒されてしまいます。そこで新政府は、政府自らが紀州藩モデルを統一的に採用するので、紀州藩軍は解散してそれに統合してくれという提案をします。これに紀州藩が乗り、当時の藩幹部は、そっくり新政府の要職に入ってしまうということになったのです。すなわち、明治維新のその後の中央集権の原型は明治2年から4年の紀州藩にあり、それは陸奥と伊藤の頭の中から出たと言いうるということです。

 それでは何故このことが世に喧伝されていないのでしょうか。岡崎さんの言う薩長史観のせいです。すなわち、新政府に入った紀州人は、割合早い時期に新政府を辞します。入った時のポストは今でいう次官から局長くらいが多く、その上や横は薩長土肥ばかり。おまけに昔も紀州人は一匹狼的で、郷党といえども能力を見込まない者は引っ張らない。一方、薩長は、有力者の引きでどんどん郷党の者が新政府に入る。それどころか、故郷和歌山に残った者は先述の俸禄10分の1の恨みもあってか、何かと新政府出仕組の足を引っ張る。おまけに、紀州出身者はあっさりしているのか、短気なのか、薩長の横暴に腹を立てると、すぐに新政府を辞めてしまうのです。というようなことで、結局、明治初期に大臣になったのは、あの「稲むらの火」で有名な濱口梧陵だけで(明治4年:駅逓頭に就任)、ほとんどの紀州出身者が「そして誰もいなくなって」しまうのです。そして残った薩長の有力者によって明治維新の歴史が書かれていくのです。
私はこのことから多くの教訓が引き出せると思います。

 第一に、天下を睥睨するほど有力であった紀州55万石はなくなったけれど、紀州人はそれでぺちゃんこになどなってはいなかったということです。新政府の構想を考え、自藩でこれを実践して見せ、少なくとも明治政府の礎石も作ったと言えるでしょう。また、経済面でも明治維新のエネルギーを経済活動に生かし、いち早く産業革命の波に乗ったのも紀州の産業人でした。その時に世に出た人は和歌山以外で活躍し、子孫もそちらにおられる人も多いけれど、紀州人の遺伝子は変わっていません。和歌山でその時に成功した企業は、本年100年企業として表彰されました。我々和歌山の遺伝子は、頑張りようによってはこのような広い意味での「イノベーション」の能力を保証してくれていると信じてもよいと思います。

 第二に、我々はよく言えば徒党など組まないでも、一人ひとりの才覚で勝負する能力がある。別の角度から見ると、足の引っ張り合いで集団としては自滅しがちな傾向にあると言えましょう。我々は、よく自嘲気味に「和歌山の人は文句たれで、人の足ばかり引っ張って」と言いますが、どうもそういう方向に堕してしまいがちな欠点も、古来、持っているような気もします。これは、心して自戒しなければならないことでしょう。人の成功を素直に讃えること、そして、文句を言うばかりでなく皆で力を合わせること、これによって和歌山は発展していけるのだと思います。

 第三に、以上のことを学習したのは、生まれも育ちも和歌山市の仁坂少年にとっても、知事になってあらためて勉強してからであったということです。以上のことが、岡崎さんの言う「薩長史観」によって、全国版の教科書的歴史から消されてしまったということは、ある意味よくあることだという気もします。しかし、それなら何故、県内版の副読本でも作って、県出身の子どもたちにだけでもこの名誉ある歴史を教えないのか、正直言って当時の教育に怒りを感じます。こういう郷土教育をしっかり行っている県もあると聞きます。我々の遺伝子には、このような歴史を生み出した立派な特質が備わっているのだと子どもたちが考えたら、その子どもはもっと大きな自信を持ち、向上心を高めるのではないでしょうか。今、私が郷土教育をしっかりやろうと教育委員会に強くお願いしているのは、このような背景があるのです。我々和歌山人にとって、大いなる可能性とちょっぴりの反省材料を、陸奥宗光と明治維新モデルから、私は、学ぶことができると思います。数々の油断により、和歌山県はちょっと置いていかれた何十年かもありましたが、もう一度、全ての人が原点に立って前向きにひたむきに情熱を傾ければ、我々の遺伝子がまた我々に豊かな結果をもたらしてくれるでしょう。

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